34話(北海道)
34話(北海道)
街の市場には、いつの間にか「新米入荷」と墨で書かれた手作りのビラが目立つようになっていた。主婦たちはその値段を見るなり腕を抱えて互いに話し込む。
「去年よりちょっと高いなぁ」
学は、すっかり稲が刈り取られて寒々とした田んぼの畦道を、ただ黙々と自転車を走らせていた。
「今津駐屯地」と刻まれた重々しい鉄門を潜り抜ける。
学が向かったのは、無骨な無線機や各種測定器が所狭しと並ぶ電波室だった。
大和が巨大なヘッドホンを耳に当てたまま、オペレーターの前に突っ立っている。
「学、これで一体、何回目の交渉や?」
自衛隊の通信兵が、張り詰めた面持ちでスイッチを入れた。
「……北海道と回線が繋がります」
窓は厚い漆黒のカーテンで閉め切られている。
薄暗く生ぬるい。
「——バンッ!」
次の瞬間、大和がヘッドホンを思い切りコンクリートの床へと叩きつけた。プラスチックの破片が鈍い音を立てて飛び散る。
大和の額には、太い血管が浮き出ていた。
「学、またや! もうあいつらとの対話は無理や。いい加減諦めろ!」
「……」
学のうつむく額から、じっとりと冷たい汗が頬を伝って流れ落ちる。
「このままじゃ京阪神の金銀が完全に底をつく! ほかの勢力とも、京阪神の利権を巡っていさかいが起き始めてるんやぞ! 学、お前が前言ってた『最後の策』を今すぐ使え!」
大和の野太い大声が、狭い電波室に反響して鼓膜を揺らす。
「……まだや」
「いつ使うねん!このままなら、いつか、国民全員が飢えと寒さで殺されるんやぞ!」
大和が学の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「学!違う人間が政権を握れば、北海道と戦争になるか、連合が植民地になるかやろ!」
胸ぐらを揺さぶられても、学の焦点の合わない瞳は、ただ小刻みに振動しているだけだった。
「学! お前がこの国のトップやろ! 俺はもう何十回も言うてきたぞ!」
学は、乾いた唇を震わせながら、か細い声を絞り出した。
「……わかったから。最後に、一回だけ直接交渉させてくれ」
「お前……!」
大和は拳をきつく握りしめた。しかし、学のあまりの生気のなさに、ゆっくりと胸ぐらから手を離した。
学は頭を抱え込みながら喉から絞るように言葉を吐き出させる。
「……交渉の場に、戦艦を使うから……」
大和が学の目をのぞき込む。
「最後に、俺が北海道へ行って直接話す。だから——」
大和は1つだけ重いため息をつく。
「……準備を始める」
大和はそれだけを言い残し、足早に部屋を出て行った。
学は、糸が切れた人形のようにその場に膝から崩れ落ち、冷たい床をただ見つめていた。
理奈と別れてから、すでに二ヶ月以上の月日が流れていた。
今の学の顔には不格好な無精髭が伸び放題になって、落ち窪んだ両目の周りには、漆黒の深いクマが影を落としていた。
敦賀湾の深く暗い海に、一隻の巨大なイージス艦がその威容を現し、静かに停泊していた。
学は冷たい潮風が吹き抜ける港で立ち尽くし、その圧倒的な鉄の塊を見上げていた。横に大和が並び立つ。
「航空自衛隊の小松の機体も動かせる。学、もちろん使うよな?」
「……使わん。これ以上の刺激は逆効果や。イージス艦にはヘリが搭載できるやろ。それだけで十分や」
「……わかった」
大和の返事を聞く学の顔には、もはや何の感情も残されていなかった。
港には、異例の事態を察知した多くの見物人と報道陣が集まり、黒い人だかりを作っていた。
湖南テレビのカメラが、タラップを登って戦艦へと乗り込む学の背中を克明に映し出す。
『——皆さん、ご覧ください。今、三浦首相が率いる政府一団が、北海道との直接交渉に向けて出発します! 外交交渉にイージス艦を投入するという、極めて異例かつ緊迫した事態となっております——』
甲板でスマホを片手に、リポーターの煽るような声を聞きながら、秋は痛ましく眉をひそめていた。
やがてその鉄の塊は重々しい海を引き裂きながら敦賀湾を後にした。
艦内の一室、灰色に塗られた狭い士官室が学の臨時の作業場となった。学は一人、机の上に膨大な資料を広げ、ノートパソコンの画面に向き合う。
「コンコン」
鉄の扉を叩く、重いノックの音が響いた。
「どうぞ」
鈍い金属音と共に扉が開いた。
「学、大学再開の手続きの仕事、手伝いに来たよ」
入ってきたのは、秋だった。
「……そうか。ありがとう」
二人は狭い部屋の中で、互いに背を向けるような形でそれぞれの席につき、黙々とキーボードを叩き始めた。秋は、さっきテレビで流れていた不穏な報道については、何一つ口にしなかった。
しばらくして、再び重苦しいノックの音が部屋に響いた。
「どうぞ」
今度は花穂が、タブレットに目をやりながら入ってきた。
「学、衣服の件やけど……。回収した古着の消毒施設、無事に稼働し始めたよ。十一月中旬から回転してるから、本格的な雪が降るまでには何とか国民に行き渡ると思う」
「明日から、もう十二月か……。担当者に、よろしく伝えておいて」
学はパソコンの画面から目を離さずに答えた。
花穂は、狭い部屋の中で互いに背を向けて黙々と作業をしている学と秋に気づいた。一瞬、手元のタブレットに目を落とし、すぐに扉のノブに手をかけた。
「じゃあ……私はこれで」
「待って、花穂」
呼び止めたのは、秋だった。
「花穂、まだ何か報告することがあるんやろ?」
「あ……うん」
花穂は誤魔化すように少し苦笑いを浮かべた。
「秋田県から、連合への合流を求める打診が正式に届いたよ」
それを聞いて、秋の顔にようやく柔らかな笑みが浮かんだ。
「うん、よかった。ありがとう、花穂」
夕方、イージス艦は夕焼けに染まった函館港へと入港した。
港の岸壁からは、北海道側の見物人たちが、本州からやってきた巨大な戦闘艦を物珍しそうに、そして警戒するように見上げていた。
だが、出迎えた北海道の官僚たちの対応は冷酷だった。彼らは学たちにホテルを用意することすら拒否し、「今夜はそのまま船内に泊まれ」と無愛想に言い捨てた。
その夜、艦内の薄暗い食堂で、学は大和と向かい合っていた。
「大和、秋田が連合に合流したいと言ってきた」
「あぁ、東北の連中はこれまで石油の件で、北海道から徹底的に富をかすめ取られてきたからな。秋田もいよいよ金銀が底をついて、北海道に屈するくらいなら俺たちと組む決心をしたんやろ」
「北海道は東北の次に、関東の『死んだ街』から富を吸い上げようとするはずや。関東と北海道を結ぶルートを断てば、そんなことはできなくなる」
学の言葉を聞いて、大和が言う。
「秋田以外の東北の自治体も、もうすぐ音を上げる。そうなれば北海道は本州から完全に孤立し、逆にこっちから攻められる恐怖に怯え続けることになる。学、これなら明日の交渉、十分に勝算はあるぞ」
学は食堂の小さな丸窓から、函館の夜景を見渡した。
驚いたことに、函館の街は、夜空の星が見えなくなるほど眩い人工の光で満ち溢れていた。
(……高島市よりも、遥かに明るい)
学の脳裏に、かつてサハリンを訪れた時の記憶が蘇る。
北海道側のタンカーに乗っていた一部の高級官僚や幹部たちは、これ見よがしに太い金のネックレスを身につけていた。だが、泥にまみれて働く現場の船員たちは、誰一人そんな贅沢品は持っていなかった。
(北海道は、孤立する道を選んできた。政治体制が違うのか……でも、本当にそれだけで……?)
学は、ただ深く眉をひそめることしかできなかった。
翌朝、北海道の職員に案内され、曇った薄暗い空の下、学たちは船のタラップを降りた。
先導する職員たちの胸には、鮮やかな「黄色いワッペン」が縫い付けられている。しかし、街を行き交う一般の市民は、誰もそんなものは着けていない。
驚くべきことに、市民たちはその黄色いワッペンを着けた職員たちの姿を見るなり、足を止め、一斉に深く頭を下げた。学の胸に激しい胸騒ぎが走った。
学は職員の後ろを歩いている途中、静かに考え込んだ。
道の側面に売店が見えて、思いついたように口を開いた。
「あの、トイレ行きたいんですけど……この店に寄ってもいいですか?」
「ほかの場所でやらせる」
職員は顔も合わせず、ただそう言うだけだった。
学は冷ややかな目をする。
(なるほどな)
やがて、巨大な星型の堀と、鬱蒼とした木々が見えてきた。入り口には、古びた石碑が佇んでいる。
『五稜郭跡』
郭内の広場に入った瞬間、息が止まりそうになった。
そこには数台の戦車が銃口を並べ、迷彩服を着た北海道の兵士たちが、小銃を構えたまま学たち一団を殺気立った目で睨みつけていた。
跳ね橋を渡り、さらに五稜郭の深部へと進む。城郭の内側には、無数の大砲や機関銃が配置されていた。
案内されたのは、厳重に幕が張り巡らされた臨時の特設会場だった。少し離れた場所には、ひっそりと古い神社の社が佇んでいる。
幕の内側には立派な木製の壇があり、その上には、眩いばかりに金色に輝く椅子が鎮座していた。しかし、対面にあるはずの学たち一団のための席は、パイプ椅子一つすら用意されていない。
「ここで待ってろ」
職員は案内というよりも、命令口調で言い捨てた。
大和は怒りを噛み殺すように、手の中で二つのクルミをギシギシと不気味な音を立てて握りつぶそうとしていた。
やがて、幕が厳かに上げられた。
奥から現れたのは、仕立てのいい衣服に身を包んだ、恰幅のいい小太りの男だった。
「北海道総督・加藤さまである。皆の者、頭を下げよ!」
側近の声に合わせて、北海道の職員たちが一斉に深く頭を下げた。
黄金の椅子にどっかりと腰掛けた加藤は、「紫色のワッペン」を光らせていた。
一団の視線が、一斉に学の背中に突き刺さる。だが、学は微動だにせず、頭を下げることもなかった。
加藤が、退屈そうに口を開いた。
「……で、今回はどのようなご用件でわざわざここまで?」
「……」
少しの沈黙の後、学はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、静かに喋り出した。
「北海道はこれまで、サハリンの石油を我が物顔で独占し、本州に対して法外な価格で売りつけてきた。しかし、その暴利によって秋田県は限界まで疲弊し、先ほど我が連合への合流を打診してきた」
加藤は鼻で笑い、不遜な態度で悪態をついた。
「ふん。君らの富(金銀)が乾ききったとき、一体誰がサハリンから石油を買えるというんだ? 」
大和が手のなかのクルミをギシギシと握りながら一歩前に出た。
「我が国はすでに、北は山形から南は山口に至るまでの日本海側全域と合流している。舞鶴基地、小松基地には潤沢な兵員がおり、日々の鍛錬を欠かしていない」
「それはこちらのセリフだ。あそこを見たまえ」
加藤が傲慢に顎で指した先には、ずらりと並んだ兵器がこちらを睨んでいる。
学が再び口を開いた。
「……北海道が我が連合へ合流するのであれば、相応の議席をもって、これを歓迎します」
加藤は、哀れむような笑みを浮かべた。
「馬鹿を言うな。お前たちこそ私たちに従うべきだ。自分たちの置かれた立場というものが、まだ理解できないのか?」
学の目が、加藤の瞳を鋭く射抜いた。
「我々には、関東にまで影響力を拡大する用意がある。貴国がこれ以上、関東の生き血を吸い続けることはできないと断言する」
その言葉に、加藤の側近たちが一瞬、顔を見合わせてコソコソと囁き合い始めた。
学は容赦なく畳みかける。
「それだけではない。私たちは、すでに東南アジア、オセアニアの諸国から直接石油を買い付けるルートを確保している」
加藤の顔から笑みが消え、学をキッと睨み返した。
「……ふん。そんな見え透いた嘘をつかねばならんほど、貴国は落ちぶれていたとは知らなかったな」
その加藤の言葉を聞いた途端、動揺していた側近たちは一安心したように静まり返り、学たちに向かって嘲笑を浮かべた。
「信じようが信じまいが、あなたがたの勝手です」
沈黙のなか、北海道側の一人の職員が、恐る恐る手を挙げて口を開いた。
「……総督、少し休憩を挟みましょう。昼食の用意をさせておりますので」
それは、酷く背の低い、小柄な男だった。
加藤たちは、幕を出て少し離れた神社の社へと歩いて行った。
残された幕の中には、粗末な机と食事が運ばれてきたが、学たちは一切手を付けることなく、ただ無言でその場に佇んでいた。
その頃、神社の社の影では、北海道の一団が密談を交わしていた。
背の低い小柄な男が、周囲を過剰に警戒しながら声を潜めて口を開いた。
「加藤さん……私たちはこれまで、十分に本州から富を得てきました。もう潮時です。これ以上の強硬姿勢は危険すぎます……」
すかさず、別の側近が男を猛烈に睨みつける。
「黙れ! お前は、北海道がどれほど安全な土地かを分かっていない! 本州の奴らがこの島を攻めるために、どれほどの戦力と石油が必要だと思っている!こっちは石油がある。人口も計画的に増やせる」
小柄な男は囲まれるように男たちの真ん中に座っている。
「本州が力を合わせれば北海道は確実に戦争に負けますよ。むしろ、いま我々が攻められていないことがおかしいぐらいです。それに……、彼らは東南アジアから石油を買うと言っていましたよ!」
「でまかせに決まっている!」
加藤が、吐き捨てるように断言した。
「そうだ。本当に自前で石油を買えるなら、わざわざ頭を下げに交渉しに来るはずがない。ハッタリだ」
「ですが……!」
背の低い男の目には、真っ黒なクマが刻まれていた。彼は必死に声を絞り出す。
「もし……もし東南アジアの石油の件が本当なら、北海道は完全に用済みになります! 本州とは二度と合流できなくなる! 私たちがこれまでやってきた搾取も、あの計画も……!」
男は、縋るように加藤たちの顔を見上げた。
だが、加藤をはじめとする幹部たちは、まるで路傍のゴミを見るかのような、冷酷な目で男を見下ろしていた。
「……お前の代わりは、いくらでもいるんだぞ」
「連合のテレビ局の放送を傍受している。彼らはそう簡単に戦争はできんよ。勝手に自分たちで足を引っ張り合うからな」
加藤が不敵に笑った。
学たちは、イージス艦の薄暗い食堂へと戻った。
「——バキッ!」
大和の手の中で、ついに硬いクルミの殻が粉々に砕け散った。
「クソが……! あいつらはクズだ、完全に腐りきってる。 自分の国の国民のことすら考えていない!」
大和の怒号が、閉塞感の漂う鉄の部屋に虚しく響き渡る。
数豊が大和をなだめる。
「まだ方法はありますよ」
大和の額に血管が浮き出た。
「戦争すればこっちは確実に勝てるんやぞ!」
窓際では、花穂と大地が並んで立ち、複雑な表情で函館の眩しい街並みを眺めていた。
学は、食堂の隅の席にポツンと座ったまま、口を半開きにした虚ろな表情で、ひたすらパソコンの画面に向かって仕事を続けていた。
伸び放題の無精髭が生えた頬をボリボリと荒々しく掻きむしりながら、その足は激しく貧乏ゆすりを繰り返している。
秋は、食堂の扉の外から、その異常な静けさと狂気を孕んだ皆の姿を、ただ痛ましく眉をひそめて見つめることしかできなかった。
艦内の明かりは煌々と点いている。それなのに、部屋の空気はどこまでも重く、薄暗かった。
やがて、ゴゴゴと重低音を響かせながら、イージス艦は函館の港を離れていった。
丸窓の外では、世界を白く覆い隠すように、この冬の初雪が静かに舞い始めていた。




