33話(小松基地)
33話(小松基地)
学は、石川県にある航空自衛隊小松基地へと足を運んでいた。
迷彩服を着た自衛隊員が、巨大な円柱型の構造物を指さす。
「これが、我が基地の石油タンクです。昨日、ようやく満タンになりました」
隣に立つ大和が、手元のファイルを開いて学に見せた。
「海上自衛隊の舞鶴基地も、昨日付けでタンクが満タンになった。ひとまずは一安心やな」
視察を終え、高島市への帰路につく。基地の正門を出る際、テレビクルーが遠目からこちらを見ていたが、過労で鈍っていた学はその視線に気づかなかった。大和はまだ基地での調整業務が残っているらしく、居残ることになった。
学は歩きながら、腕時計に目をやった。
「次の電車まで、あと二時間か……」
時間を潰すため、小松駅の近くにある古びた定食屋の扉を開けた。カランカランと、ひなびたベルの音が響く。
「一名です」
カウンター席に腰掛け、学はメニューを開いた。メニュー欄の一番下を注文する。
「この……『かぶら寿司』をください」
「えぇ、珍しいね。これを食べる人は、地元でもあまり多くないよ」
エプロン姿の店員が、メニューの別の場所を指さした。
「お客さん、もしかして政府の人じゃない? テレビで見たことあるよ。せっかく石川に来たんなら、こっちの『ハントンライス』がおすすめだよ。ボリュームもあるしね」
「じゃあ、それで……」
注文を終えると、学はすぐにカバンからノートパソコンを取り出し、机の隅でせわしなくキーボードを叩き始めた。
「——はい、ハントンライスでしたね。千円になります」
「すみません、五千円札しかなくて」
学は財布から、「高島市」の公式ハンコがおされた紙幣を差し出した。
「えっ?」
店員は一瞬、戸惑ったように紙幣を見つめ、それから小さく息を吐いてレジのボタンを叩いた。
「お返しは、こちらの四千円と……お釣りは、お米だと何グラムになるかねぇ。今、端数の計算をするから待ってね」
店員は、まず「石川」のハンコが捺された千円札を四枚渡してきた。端数の釣り銭代わりに、米の現物を出そうと奥へ引っ込もうとする。
「あ、細かいお釣りはもういいです。結構ですから」
「おや、そう? 毎度あり」
カランカラン、と再びベルを鳴らして店を出る。
(サハリンとの貿易で流出していく金銀を、硬貨として鋳造できれば……今はそんな余裕はない。
旧世界の十円玉の『銅』を集めれば、連合独自の硬貨を作れるかな)
学は重い溜息をついた。
駅に向かって歩いていると、ブォンと重々しい排気音を立てて、一台の古い乗用車が学の目の前を平然と走り抜けていった。
学の足が、ピタリと止まる。
(……なんで車が走ってるんや?)
不穏な予感に駆られ、学は駅のホームのベンチに腰掛けると、即座にスマートフォンを耳に当てた。
『はい、大地やで』
「大地、石油の使用は農業と発電以外には使わせない法律を作ったよな。今、石川県の街中で一般の乗用車が走ってた。もしかして……」
『ああ、それな……』
受話器の向こうで、大地の声が困ったように濁る。
『農家が、配給されたガソリンを横流しして売ってるんやと思う。地方の警察もたまに車が走ってるくらいじゃ、いちいち全部を取り締まるわけじゃないからな』
「大地、経済を成長させすぎても、面倒を見きれなくなる。石油だって、あんな綱渡りの輸入をしてるんやぞ」
学は受話器を握る手にギチギチと力を込めた。
『でもな、学。すべてを完璧にコントロールしきるなんて、最初から無理な話やろ?』
「けど……そうでもしないと……。京阪神の金銀を集め尽くした瞬間に、この国は……」
学の手のひらに、じっとりと冷たい汗がにじむ。
『あ、そういえば、学。市場の紙幣が足りなくなってきてる件やけど、新しく政府に入った新潟の議員に、京阪神の銀行から新札(未流通紙幣)を回収してくる指揮を任せたから』
「……新参の議員に?」
『そう。大和は防衛で手一杯やしな。ちょうどいい仕事やろ』
「……うん。ありがとう」
(大和の仕事だったはずや。任せて安全なんか?
……仕方ないか)
胸の奥に小さな不安の澱が沈殿したが、無理やり自分を納得させると、わずかに肩の力が抜けた。
ガタゴトと揺れる列車に揺られ、高島市へと引き返す。窓の外には、黄金色に輝く広大な田んぼと、どこまでも深い日本海が広がっていた。あちこちの田んぼで、すでにせわしなく稲刈りの作業が始まっている。
他県からの議員や官僚が急増したため、合同会議は役所で最も大きな大会議室へと場所を移していた。
正面の大型モニターには、重苦しい文字が並んでいる。
『石油供給における恒久的不安について』
『衣服の減少と価格高騰への具体的対策』
「——それでは、山本花穂農林大臣、発言をどうぞ」
司会の声に促され、花穂がマイクを握った。
「国内での綿花栽培を急ぐ必要がありますが、すでに秋に入っているため、今年の収穫には間に合いません。農林省としては、来年春からの大規模栽培に向けて調整を進めています」
新参の他県議員から声が飛ぶ。
「来年? もうすぐ雪が降りますよ! 国民の防寒着はどうするんだ」
学が静かに席から立ち上がった。
「……京阪神の『死んだ街』から集めます」
会議室の視線が学に集まる。
「あそこには、まだ膨大な量の衣服が残されている。早急に大規模な『消毒施設』を建設し、回収した古着を安全に再利用できるように手配する」
「消毒液の確保と施設の建設か……。冬までに間に合うか?」
閣僚たちが不安げにざわつき始めた。
長い会議が終わり、総理作業室にいつもの高島からの気心知れたメンバーが集まった。今日からは秋も同席している。
「学、衣服の回収プロジェクト、誰に主導を任せる?」
大地の問いに、学はデスクの上の書類を見つめたまま答えた。
「……人事について、榊原が批判してたな。あれは間違いじゃない」
学は少し言葉を切り、慎重に考えを巡らせた。
「福井の議員に任せよう。福井県は、どこよりも先に連合に合流した」
話し合いが一段落したところで、秋が自分の二の腕をさすりながら、学の顔を覗き込んだ。
「学……大学の再開手続きの仕事、進み具合はどう?」
秋の目に映る学の顔には、顎のラインに一本だけ、剃り残された不格好な髭の産毛があった。
「秋は、歯科の勉強があるやろ」
「旧世界みたいに砂糖が大量に出回ってないから、虫歯の患者は少ないよ。歯科の現場はまだ余裕があるほうやで」
大和が後ろから学の肩にバシッと手を置いた。
「学、他県の議員も使え」
学は、すがるような目で秋の瞳を見つめた。
「……秋。本当に両立できるか?」
その、あまりにも弱々しく脆い学の表情に、秋は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「うん。私、手伝うよ」
メンバーがそれぞれの仕事に戻るため、一人、また一人と作業室を出ていく。
廊下に出たところで、花穂が秋にそっと声をかけた。
「秋、どうして学は、あんなに頑なに他県の人間に重要な仕事を任せないんだろうね?」
後ろから歩いてきた大和が、めんどくさそうに会話に割り込んできた。
「政敵がおるからやろ。どこの馬の骨とも知らん奴を中枢に使って、はめられるのが怖いんやろ。心配性すぎるねん」
そう吐き捨てると、大和はそそくさと駐屯地への道を歩んでいった。
秋はその場に立ち止まり、静かに自分の胸に手を当てた。そして、誰の耳にも届かないほどの微かな声で呟いた。
「……それもあるけど……。榊原さんが出馬するよりずっと前から、学は他県の人を使わず自分でやろうとしてた。学には、何か、別の理由がある……」
その夜。滋賀のある一般家庭で、市民が居間のテレビを眺めていた。
『——各県での米の収穫も中盤戦を迎えました。ご覧ください、倉庫に入り切らないほどの大量の米です!』
明るいニュースが流れた直後、プツリと画面が切り替わった。画面の下部には「湖南テレビ」のロゴ。
カメラが映し出したのは、昼間に学が訪れていた、あの石川県の小松基地の全景だった。アナウンサーの、糾弾するような鋭い声がスピーカーから鳴り響く。
『——ここで、衝撃的な独自スクープをお伝えします。三浦首相は現在、一般の国民に対して石油の使用を厳格に制限しています。しかし! その裏で、自衛隊の各基地には、大量の石油を極秘裏に溜め込んでいることが判明しました』
『これは、自衛隊内部の確かな情報です。一国のリーダーとして、まず最優先すべきは国民の生活ではないでしょうか? 』
テレビの放つ青白い光が、市民の不信感に満ちた表情を、怪しく照らし出していた。




