32話(別れ)
32話(別れ)
どんよりとした空気が立ち込める湖南の街頭で、榊原は相変わらず声を枯らして演説を続けていた。
マイクを置き、壇上から降りてきた榊原に、ふみがそっと近づいてずっしりと重そうな紙袋を手渡した。
「お疲れさまです、榊原さん」
「……いつも、本当にありがとうございます」
榊原は深く頭を下げた。
同じ頃、学は自宅のソファで泥のように眠り込んでいた。
深夜の薄暗いリビングで、点けっぱなしのテレビの青白い光だけが、学の無防備な寝顔を頼りなく照らしている。
『——日本海連合政府は昨夜、安全保障に関する新たな閣僚方針を打ち出しました』
画面が切り替わり、画面には報道陣の前に立つ大和の姿が映し出された。
『我が連合における自衛隊装備の中央集約化を進めます。具体的な方針としては——』
翌日の夕暮れ時、学は買い物袋を下げて赤く染まる街を歩いていた。
建ち並ぶ家々の隙間から、どこまでも広がる田んぼが見える。稲の葉はまだ青々としているが、その先端には少しずつ、小さな実がつき始めていた。
帰宅した学は、買ってきたばかりのちいさなスイーツを冷蔵庫の奥にそっと仕舞い込んだ。
シャワーを浴びてさっぱりした体で書斎へ向かう。机の上には、処理しきれない書類がうずたかく積まれていた。学はその山をどかし、引き出しから取り出した鮮やかな色彩のバースデーカードに、ゆっくりとペンを走らせた。
『理奈、誕生日おめでとう』
高島中央病院の外には、夜になっても受診を待つ人々の暗い列が途切れずに続いていた。
過酷なシフトを終えた理奈は、きつく団子に結んでいた髪のゴムをようやくほどいた。ひどく重い頭をさすりながら看護師に口を開く。
「あの……申し訳ありません、本日の一般診療はここまでで……」
「ピー、ピー、ピー」
患者たちに頭を下げようとしたその瞬間、けたたましい電子音と共に緊迫した院内放送が響き渡った。
『救急救命要請。登山中に崖から転落した重傷者が搬送されます。多発骨折、および活動性出血を認めます。至急——』
手を強く握りしめてから、理奈はほどいたばかりの髪を乱暴にかき上げ、再び処置室へと走った。
完全に日が落ち、窓の外には冷たい星空が広がっていた。
学は書斎の机に向かったまま、何度も、何度もスマートフォンの画面を確認していた。時間はとうに日付を越えようとしている。
病院の薄暗い休憩室では、理奈がパイプ椅子に腰掛けたまま、両手で頭を抱えていた。
「たった一年じゃ……全部学びきれるわけないよ……。もっと、もっと時間があれば……救えたのに……」
こらえきれなくなった涙が溢れ出し、彼女の端正な表情が痛々しく崩れていく。その震える手の中には、冷たく光るスマートフォンが握られていた。
東の空から、ゆっくりと朝日が昇ってきた。
机に突っ伏して浅い眠りに落ちていた学は、スマートフォンの微かな振動で目を覚ました。画面をタップし、届いていた一行だけの返信を開く。
【別れよう】
その四文字だけが、学の網膜に焼き付いた。
学はスマートフォンを持ったまま、呆然と立ち尽くした。
窓の外からは、何事もなかったかのように平然とした朝の光が差し込み、学の血の気の引いた顔を容赦なく照らし出す。
胸の奥が引き裂かれるように疼いているのに、なぜか、涙は一滴も流れてこなかった。
数分後、書斎のゴミ箱には、数枚の公文書と共に、丁寧に宛名が書かれたはずの、あの鮮やかなバースデーカードが静かに捨てられていた。
ジリジリと照りつける容赦ない太陽の下を、学はトボトボと役所へ向かって歩いていた。その胸には、いくつかの重要書類が乱暴に抱えられている。
途中の空き地で、誰かが狂ったように大声を張り上げていた。「平等民主党」ののぼり旗が、熱風にパタパタと揺れている。榊原の街頭演説だった。
「みなさん! 三浦首相の正体を知ってください! 彼は少し前まで、国家の財務大臣に『中学生』を据えていたような男ですよ! そんな人間が、果たして一国のリーダーに値するでしょうか!」
学は下を向いて、何も言わずにその前を通り過ぎていく。背後から榊原の鋭い声が執拗に追いかけるようだった。
「自由信党政権は地方を徹底的に軽視している! この前のテレビ放送制限の布告だって、我が湖南テレビがようやく放送事業を軌道に乗せた途端に狙い澄まして規制をかけてきたんです!」
猫背のまま、魂が抜けたように歩く学の姿に気づく者など、集まった民衆の中には一人もいなかった。
閣議室の席についても、学の表情はピクリとも動かなかった。
「——これより閣議を始めます」
誰かが発言している。
「新たに合流した各県の議席配分が決定しました。これにより——」
その報告も、学の鼓膜を素通りしていくようだった。
それから何日かが、ただ流れる水のように虚しく過ぎ去っていった。
ある日の午後、総理作業室のドアが控えめにノックされ、数豊が入ってきた。
「ああ……数か」
「学。僕……官僚、辞めようかと思う」
「どうしたんや、急に」
学がクマのついた濁った目を向ける。
「榊原さんの演説、僕も聞いた。……僕が財務にいるだけで、学の政権が批判される。一応、他で新しい職も見つけてあるし」
「数は官僚や。……辞める必要なんてない」
「でも……これ以上組織を身内だけで固めるのは限界やで。職員を増やすべきやろ?新しく入ってきた日本海側の人たちを、もっと中枢に受け入れないと」
学は数豊から視線をそらし、力なく答えた。
「……わかったよ。手配する」
新たな合同会議が始まった。
学はただぼんやりと机の一点を見つめたまま、微動だにしない。
日本海側の各県にも「自由信党」の支部が発足し、今日からは現地から選出された見慣れぬ代表者たちがずらりと席を埋めていた。かつて数豊が座っていた財務大臣の席には、長浜出身の尾瀬が収まっている。秋は、その緊迫した空気のなか、日本海側の議員たちに緊張した面持ちでお茶を配ってまわっていた。
若手の官僚が正面のモニターに資料を映し出し、説明を始める。
「現在は高校までの教育機関しか復旧できていません。しかし、各地で深刻化する医師不足を抜本的に軽減するためには、医学系の大学を先行して最開学させることが急務です。本日は、その件について現場の重要参考人にお越しいただいています」
会議室の重厚な扉が静かに開いた。
一歩を踏み出してきた女性の姿を見た瞬間、秋は持っていたやかんを取り落としそうになり、目を見開いた。
そこにいたのは、理奈だった。
だが、かつての面影はどこにもない。彼女の髪は肩のあたりでばっさりと切り落とされており、あの待ち合わせに揺れていたポニーテールの名残は完全に消え去っていた。
「重要参考人として参りました、医師の鷹野です。現在の医療現場の逼迫具合は、過酷という言葉すら生ぬるいのが実態です」
理奈の声には、感情を極限まで削ぎ落としたような冷徹な響きがあった。
「首相は今すぐに、いや、もっと前から医療従事者の育成に予算と人員を割くべきでした」
秋はたまらず、正面の席に座る学へと視線を走らせた。
(そんな……なんで?)
学は、机の下で両手を血がにじむほどきつく握りしめ、ただひたすらにうつむいていた。
秋の脳裏に、かつて長浜の外遊で、みんなで古い旅館に泊まった夜の光景が鮮烈に蘇る。
あの時はまだ、みんなで学の部屋に集まって、長浜と米原の合流を笑顔で祝っていた。
学がふとこぼした言葉。
『理奈か秋には、医療関係の官僚の仕事をしてほしいな』
それを聞いた理奈は、笑ってこう返した。
『いま言う?天国の信太に笑われちゃうわ』
秋は胸が締め付けられるような痛みを覚え、眉をひそめることしかできなかった。
学は、誰の耳にも届かないほどの蚊の鳴くような声で、ボソボソと何かを呟いていた。
理奈の痛烈な糾弾はまだ続いている。
「——首相は、この破綻寸前の現場の実態を、どう収拾するんですか」
学の視界に、机の下で震える己の手が映る。その手首には、あの日から片時も離さず身につけている、信太の遺品の腕時計が静かに時を刻んでいた。
(そうだよな。信太……)
学は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、驚くほど静かに据わっていた。
「……この失態は、すべて私の責任です。即座に医学教育の再開と医療従事者の育成に全力を注ぎます」
その凛とした、何もなかったかのように何気ない学の表情を見て、秋はひどい寒気を覚えた。
会議が終了し、議員たちが退室していくなか、学は大和だけをその場に引き留めた。
「大和。数豊の言う通り、これからは他県からの職員も議員も大幅に増やす」
「……いいんか、学」
「防衛省の機密や自衛隊の運用に関することは、今後の閣議では絶対に話すな」
「わかった。防衛の核心は、高島の人間だけで握る」
夜、総理作業室には、かつての「高島」からのなじみのメンバーだけが集まった。
大地がスマートフォンを片手に、困惑したように声を出す。
「なぁ皆、これからの仕事の振り分けどうする? 差し当たって、この医学大学の再開プロジェクトがとんでもない大仕事になるけど……」
「俺は防衛大臣の職務と小松・舞鶴の統合で手が回らん。無理や」
大和が首を振る。すると、部屋の奥からかすれた声が響いた。
「……俺がやる」
学だった。
「学が大学の件を直接仕切るって……そんなの負担が大きすぎるよ。そうでなくても学はほかの仕事してるやろ……」
「雑務や地方の調整は、新しく入ってきた他県の人間に投げればいい。榊原の『身内政治』の批判に丁度いい」
秋は自分の腕をさすりながら、目を伏せながら学に言う。
「学……ちょっと、休んだら? 」
「大学の件は、俺がやる。新参の議員に示しがつかん」
「でも、学は長浜の時からずっと働きっぱなしやろ?私も手伝うよ」
結局、学は頑なに譲らず、方針が決定して夜更けに皆が解散した。
役所の廊下を歩きながら、秋は隣を歩く花穂にそっと声をかけた。
「花穂……学、やっぱり仕事をしすぎだよ。おかしいよ」
「……理奈ちゃんにあんな風に言われて、責任を感じてるのかな」
花穂が悲しそうに目を伏せる。
秋は一瞬、言葉を詰まらせ、それから首を小さく横に振った。
「なんか……違う気がする。自分で進んで仕事をしてるみたい……」




