31話(日本海外遊)
31話(日本海外遊)
学は私服の下着を買い足すため、近所の小さな衣料品店へと向かった。道沿いの田んぼでは、青々とした稲が人間の膝の高さほどにまで実を伸ばしている。店内に入り、いくつか手頃な品を選んでいると、近くにいた客たちのひそひそ話が耳に届いた。
「……なぁ、最近また服の値段、上がってへん?」
「ほんまやね。じわじわ高うなってるわ」
「——これより閣議を行います」
大地が弾んだ様子で腰を上げた。
「みなさん、重大な発表があります。石川県、富山県、新潟県、そして山形県が、我が連合への合流を正式に決定しました!」
「よし……!」
大和が学のすぐ横で、低く弾んだ声で囁く。
「学、石川には小松基地があるぞ」
「ああ、航空自衛隊やな」
大地はいつもの優しい笑顔を浮かべながら、どこか自慢げに口元を緩めた。
「やっぱり、舞鶴との合流と石油の確保が決定打になったな」
眼鏡を丁寧に拭きながら、数豊が静かに口を開く。
「それだけではありませんよ。僕たちが日本海側の要人を国会見学に招き、復興した街の姿を見せ続けてきた、地道な努力の成果です」
「ほんまやね」
「知事! 各県から正式な招待状が届いています。一刻も早く、現地で首脳会談を行いたいとのことです」
学は小さくあくびを噛み殺した。
「うん、そうやな。すぐに準備を進めよう」
張り詰めていた肩の荷が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
学は作業室に戻ると、スマートフォンを取り出して理奈にメッセージを送った。
【石川から山形まで、各県へ外遊に行くことになった。理奈も一緒に来て、向こうで観光せえへん?】
敦賀湾には、いつの間にか威風堂々とした舞鶴基地から来航した護衛艦が常駐するようになっていた。
艦首には「まつゆき」の文字が白く刻まれている。
港岸では、大和が自衛隊員たちに向かって大声を張り上げていた。
「そこ! もっと細部まで磨き上げろ! 」
学が大地を伴って歩み寄る。
「大和、お疲れ」
「おう、学。この『まつゆき』を外遊の足に使おうと思う」
大地が巨大な船体を見上げた。
「これで行けば、日本海側の人らも安心してくれるよ」
学の強張っていた顔が、わずかに緩んだ。
「大地、今、標準語になってたぞ」
「あ……いや、花穂の話し方がうつってもうてん」
大地は照れくさそうに頭を掻いた。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。理奈に送ったメッセージの下に、一通の返信が届いている。
【ワンピースは、もう無くした】
学の表情が、凍りついたように強張った。
胸の奥に冷たい塊が落ちていくのを感じながら、濁った港の海底へと視線を落とした。海の底は真っ暗の深淵だった。
敦賀港には、一目見ようと大勢の市民が集まっていた。
巨大な護衛艦を背に、学は詰めかけたメディアの取材に応じる。
「高島テレビです。今回の護衛艦を用いた大規模な外遊には、どのような狙いがあるのでしょうか?」
「新しく合流される日本海側の諸県の方々に、我が連合の防衛力を示し、安心してもらうためです」
その傍らで、「湖南テレビ」のクルーは何の質問も投げかけることなく、ただ黙々と護衛艦の重厚な姿をレンズに収めていた。
大歓声に見送られ、船はゆっくりと港を離れた。
最初の目的地である石川県に到着すると、学は現地の長によって見事な日本庭園へと案内された。
「ここは兼六園と申しましてね、旧世界では日本三名園の一つに数えられていたんですよ」
笑顔で固い握手を交わす二人の姿が、幾重ものカメラのフラッシュに照らされる。
富山では瑞泉寺の荘厳な佇まいに息を呑み、新潟では弥彦神社の鳥居をくぐって熱心に参拝した。
役所の壁に貼られた日本地図の、福井と滋賀だけだった「黄色い領域」が、北へ向かって少しずつ、確実に広がっていった。
各地の長と過密な会談をこなし、一行はさらに北へと進む。
山形県に入ると、車は深い緑に囲まれた山道を進んでいった。やがて、西洋を思わせる重厚な石造りの古めかしい建物が姿を現す。格式高い門柱には、その名が深く刻まれていた。
「文翔館——」
その美しいホールの特等席に招かれ、歓迎の催しが厳かに執り行われた。山形の長は、豪奢な着物に身を包んだ妻を誇らしげに伴っている。
だが、その歴史ある石造りの空間は、学の目にはどこか不気味なほど冷徹に映った。
地元局のカメラがホール全体を広く映し出す。
「高島テレビです。三浦知事、いや、三浦首相。今回の日本海側外遊の大成功、本当におめでとうございます!」
学は小さく息を吐き、ネクタイの結び目をきつく締め直した。
「ありがとうございます。山形から京都に至る日本海側の全域は、民主主義の理念のもとに一つとなりました。私たちは、この日本を二度と混迷の戦国時代へと戻してはならない。再び、日本を復活させるのです」
割れんばかりの拍手が沸き起こった。
石壁に反響し、幾重にも増幅されて鳴り響くその歓声は、疲弊しきった学の鼓膜に、ただひたすらにやかましく、頭痛を誘う雑音として響くだけだった。
過密日程の最後に、一行は銀山温泉へと立ち寄った。
静かに流れる小川の両岸に、大正ロマンを思わせる木造の古い旅館が立ち並んでいる。
割り当てられた学の客室には、かつて長浜の旅館で集まった「古賀」の仲間たちが自然と集まっていた。
花穂、秋、大地、数豊。気心の知れた顔ぶれが揃っているのに、そこにはやはり、理奈の姿だけがなかった。
温かい茶をすすりながら、秋がぽつりと言った。
「こういう外遊って、前も長浜の時にみんなでやったよね」
「そうだね、なんだか懐かしいな」
大地が同意する。
「……あれから、まだ四ヶ月しか経ってないんやな」
数豊の言葉に、一同は黙り込んだ。あまりにも激動が続き、まるで何十年もの長い年月が過ぎ去ったかのような錯覚を覚えていた。
日本海側は人口こそ少ないものの、前年の米の収穫量は有り余るほどだったという。その流通が始まったせいか、8月上旬の田んぼの安定期とも重なり、復興の象徴となった滋賀には他県から大勢の観光客や商人が押し寄せていた。
高島市役所の一角に設けられた「米と紙幣の両替所」には、朝から途切れることのない長蛇の列ができていた。
学は大地と数豊を連れて、いつもの中華屋へと足を運んだ。
大地がメニューを眺めながら、思い出したように口を開く。
「学、敦賀湾での漁業を、期間限定で試験的に再開させたで」
「うん。石油の備蓄には多少の余裕ができたし、市民の食糧事情のためなら少しぐらいは構わんと思う」
数豊は手元のスマートフォンで、最新の財政データを確認しながら眉をひそめた。
「学、観光客が増えるのはいいけど、市場に出回る紙幣の流通量が増えてる。このままだと現金が足りなくなるで」
「大和にはもう指示を出してある。京阪神の『死んだ街』で、これからは金銀だけじゃなく、放棄された銀行の新札も狙うようにって」
「……京阪神の銀行から、すべてを取り尽くした後はどうするん?」
数豊の懸念に、大地が目を丸くして学を見た。
「っていうか学、結局まだ、数豊に財務のこと任せたままなんか? この前、数豊は財務大臣を辞めたんやろ?」
「……まあな」
学は濁した。
以前は生ぬるかったグラスの水には、今や当然のように涼しげな氷が浮かべられていた。
豊かさと引き換えかのよに、彼らの心は少しずつ影を見せている。
店の前を通り過ぎていく人々は、一様に色鮮やかな観光パンフレットを手に、楽しげに談笑していた。
学は手首を返し、信太の腕時計に目をやった。
(信太……順調や、俺は)
昼食を終えると、学は休む間もなく役所の作業室へと戻った。デスクの端に置かれたアクリル製のネームプレートは、いつの間にか『知事 三浦学』から『内閣総理大臣 三浦学』へと差し替えられていた。
一方で、高島中央病院には、まともな医療を求めて他県から押し寄せた患者たちで溢れかえっていた。おとなたちが死んでしまい、医者などどの地域にもほとんどいなかった。冷房の効かない建物の外にまで、行列が延々と伸びている。
理奈はクマをつけ、せわしなく働いている。
普通は六年で学ぶ医学を、たった一年で全て網羅することなどできない。冬の間に勉強していたとはいえ、仕事と勉強の両立など不可能だった。
それから、何日かが過ぎた。
とある夜、勤務を終えた理奈は、診療を待つその重苦しい行列を横目に、冷たい足取りで病院を後にした。列に並ぶ患者たちは理奈の救命服姿を見つめていた。
いつもの中華屋へと向かう途中、駅前の広場で、にぎやかな人だかりができているのが見えた。手作りの街宣台の上には、「平等民主党」と染め抜かれた旗が夜風にパタパタと揺れている。
胸騒ぎを覚えながら理奈が人混みに近づくと、マイクを握りしめて熱弁を振るっていたのは、あの榊原だった。
「——我々は、高島市による、この独善的な政治を一掃しなくてはなりません!」
頭にハチマキを巻いた榊原が、血管を浮き上がらせて叫ぶ。
「現政権の『自由信党』は、地方の困窮などこれっぽっちも気にかけてはいない! その証拠に、彼らは湖南地域に対して、紙幣を発行するための公式なハンコを頑なに貸し出さなかった!」
集まった民衆は、物珍しそうにその演説に耳を傾けている。
「何よりも! 私は三浦学という男が、一国の政治を司る器などではないと、ここに断言いたします!」
榊原の姿を執拗に追いかけるビデオカメラの側面には、くっきりと「湖南テレビ」のロゴが入っていた。
「私はかつて、あの役所の内側にいた。職員たちは常に、常軌を逸した重労働を強いられている! なぜか? 三浦首相が、自分の身内にしか重要な仕事を任せないからだ!」
理奈はただ、夜の闇に紛れて立ち尽くしている。
「要するに、首相は極度の人間不信なのです! 連合の合流と美名を謳いながら、その実、自分に都合のいい側近しか政治の中枢に置かない! 彼は到底信用に足る人物ではなく、その本質は『軟弱』であると言い切れます!」
「軟弱——」
その言葉が、理奈の胸の奥底に、鋭い棘となって突き刺さった。そしてその棘は、何の抵抗もなく、彼女の冷え切った心へと溶けて馴染んでいく。
理奈は中華屋へ行くのをやめ、そのまま暗い夜道へと引き返していった。




