30話(サハリン)
30話
滋賀のあの肌を刺すような暑さが嘘のように、海上の風は和らいでいた。見渡す海は濃い青色を湛え、どこまでも深く続いているように錯覚させる。
やがて、水平線の向こうに広大な島影が見えてきた。サハリンの港に入ると、すでに先客である別のタンカーが停泊し、何やら食料を運び降ろしていた。
港町は、まるで「旧世界」そのものだった。
行き交う人々は、本国の人間よりもどこか生き生きとして活気にあふれている。ふと売店に立ち寄ると、紙幣は崩壊前の古いものがそのまま流通していた。滋賀の街で見慣れた、黒く焼け焦げた家屋は一切ない。それどころか、新築の家まで建ち並んでいた。
大地が学にそっと距離を詰めてきた。
「学、やっぱりおかしい。ここだけ完全な別世界や」
「うん……戻ったら原因を調べよう」
西洋風の趣ある家々を横目に歩き、一行は現地の役所へと案内された。そこで大きく髭をたくわえた青い瞳の中年の男と対面し、握手を交わす。
スマートフォンの翻訳アプリが、無機質な電子音で男の言葉を紡いだ。
『お会いできて光栄です、三浦さん』
「こちらこそ。これからも貿易を絶やすことなく、両国が平和と繁栄を享受できることを願っています」
大人が死んだ世界なのにもかかわらず、サハリンには旧世界と同じように大人も子供もいた。
港に戻ると、タンカーにはすでに石油を注ぎ込む太いパイプが接続されていた。
船に乗り込もうとした、その時だった。
反対側に停泊していた例のタンカーの甲板に、数人の日本人の姿があることに気づいた。
大地が目を凝らす。
「学、あいつら……北海道の奴らちゃうか」
「……ああ」
彼らは、こちらを盗み見るようにしてコソコソと耳打ちし合っている。
驚いたことに、そいつらの首元には太い金色のネックレスが揺れ、腕には高級そうな腕時計が鈍い光を放っていた。だが、その船を操縦している制服姿の乗組員たちは、そんな華美な装飾品など一切身につけてはいない。
学の目が、冷徹に据わった。
「……なるほどな」
(大和を連れてこなくて正解だったな)
敦賀港に帰港すると、岸壁には大勢の市民が出迎えてくれた。
学は甲板から、隣の大地に低くささやいた。
「大地、日本海側の各県に、石油を確保したことを知らせてくれ。舞鶴も忘れずにな」
「よし、任せろ!」
歓声のなかに、「湖南テレビ」のカメラの姿はなかった。
船を降りると、学はすぐに大和を呼び出した。周囲の目を警戒しながら、二人だけで群衆に背を向けて話す。
「大和、関東の情報を集めてくれ」
「関東か。わかった」
大和は鋭い目配せを一つ残すと、駐屯地に向けてバイクを急発進させた。
まもなく、燃料タンクを積んだ大型車が滋賀と福井の各地を巡回し始めた。再開されたガソリンスタンドには、待ちわびた多くの農家たちがトラクターと共に駆けつけた。
朝、日の光が首都である高島市の街並みを淡く照らし出す。
石油を輸入できても通勤する人々は、未だに不便な自転車を漕いでいた。
学は書類が山積みにされた作業室の窓辺で、大きくあくびをして背伸びをした。役所に吸い込まれていく職員たちを、ぼんやりと見下ろす。
(駅に行く前に、シャワーくらい浴びないとな……)
手で顎をさすると、うっすらと無精髭が伸びていた。
「——7月20日、閣議を始めます」
学が席から立ち上がった。
「今日の議題は手短に終わらせよう」
すぐに資料が配られていく。
「これまで同様、石油の使用は原則として『農業のみ』に限定します。火力発電、および公共バスについては例外と認めますが、それ以外は認めません」
「知事、せっかく石油が入ったのに、自家用車も使えないとなれば市民は納得しますか?」
参会者の一人が異議を唱えた。
「今の石油の確保方法には限界がある。それに、これ以上生活を便利にして人口が増えれば、さらに多くの石油が必要になるだけです」
会議室がしんと静まり返り、次いで少しばかりざわついた。
秋がそれぞれのコップにお茶を注いでまわる。
「……こんな簡単なこと、俺が理解できるんやから、市民だって理解できるやろ?」
目の下にドス黒いクマをこしらえた学の顔は、あまりにも何気なく、平然としていた。
お茶を注いでいた秋の手が、ピタリと止まる。彼女は大きく目を見開いて学の横顔を凝視した。気づけば、注がれたお茶はコップからあふれ出し、机の表面へとみるみる広がっていた。
その時だった。
「バタン!」
激しい音を立てて、会議室の扉が撥ね開けられた。
大和が鋭い視線をそちらに向ける。
「会議中やぞ」
扉の前に立っていた職員は、滝のような汗を額に浮かべながら息を切らせていた。
「ハァ、ハァ……舞鶴が、舞鶴が!連合への合流を打診しています!」
「……本当に書状が来たのか?」
会議室の空気が一瞬で一変した。
「やったぞ!」
「これなら、一気に安全保障の基盤が……!」
並み居る幹部たちの顔が、一斉に明るく輝く。
だが、秋だけは違った。彼女はまるで何かに怯えるように青ざめた顔で、恐る恐る学のそばへ歩み寄り、その肩に手を置いた。
「学……大丈夫?」
学は感情の読めない顔で、秋を振り返った。
「ん? ああ。舞鶴はな、日本海側で最大の海上自衛隊の基地がある。ヘリもイージス艦も揃ってるんや」
秋は息を呑み、そのまま一歩、後ずさりした。
(学……?)
震える彼女の声は、歓喜に沸く室内の騒音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
職員が興奮を抑えきれない様子で笑みを浮かべる。
「知事! 舞鶴の代表の方々が、合流の具体的な条件について話したいと。今すぐ電話会談を繋ぎたいとおっしゃっています!」
「え?あぁ……すぐにやろう」
「準備します!」
学は肩の力が抜けたように、椅子に吸い込まれるようにして腰を下ろした。壁の時計に目をやる。
「……11時か」
会議室の窓からは、すぐ近くの駅が見える。
ポニーテールにして、一張羅の服を着て待っているはずの理奈の姿が、鮮明に脳裏をよぎった。形見である信太の腕時計の秒針が、無頓着に時間を刻んでいる。
(理奈は……理奈なら、わかってくれるよな……)
再び、扉が勢いよく開いた。
「知事、電話会談の準備、整いました!」
「……」
学は窓の外を見つめたまま、動かない。
「学、準備できてるぞ!」
大和の野太い声が、学の背中を叩いた。
「……ああ、今行く」
その頃、長浜駅のホームには、いつものように綺麗な服を着た理奈がポツンと立っていた。
髪を揺らしながら、改札の向こうを何度も見渡している。
『——今回の会談は非常に有意義ですね。いったん休憩を挟みましょう』
受話器の向こうから舞鶴の長の声が聞こえた瞬間、学は窓外に一瞥をくれ、即座にスマートフォンを取り出した。
【ごめん、急な仕事が入った。また今度行こう】
それだけのメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。
長浜駅のホーム。行き交う人々の中で、理奈はただ一人、スマートフォンの画面をじっと見つめたまま、石のように立ち尽くしていた。
『それでは、会談を再開します』
スピーカーから声が響く。
すでに、窓の向こうの駅ホームに、理奈の姿はなかった。
すべての会談が終わり、大きく一息ついた学は、再びスマートフォンを開いた。
画面には、何の返信も届いていなかった。
【8月の理奈の誕生日、俺の家で祝おう】
今度はそう打ち込んで送信すると、学はそれ以上画面を見るのをやめ、重い頭を机の官舎のデスクへと突っ伏した。




