29話(北海道との交渉)
29話(北海道との交渉)
学は今津駐屯地に足を運んだ。精密機械がひしめく薄暗い部屋に入っていくと、大和が腕を組んで待っていた。
「学、任せるぞ」
大和はそう言って、マイクのある席へと学を促した。
迷彩服を着てヘッドホンをつけた隊員が、手で合図を送る。
ザーッという電子音の雑音がピタリと止まった。
「こちら滋賀・福井連合。聞こえますか?」
『こちら北海道。聞こえている』
ヘッドホンから冷淡な声が返ってきた。
「電話会談の機会を設けていただき、ありがとうございます」
『……』
学は一度、深く息を整えた。
「我々は前回同様、石油を適正な価格で売っていただくことを、貴国に対して切に願う旨をお伝えしたいと思います」
スピーカーから、どこかふてぶてしい声が流れてくる。
『……前回も申し上げたはずです。その件に関して値下げの余地はありません。北陸側ともその値段で合意しています』
横では兵士が慌ただしくメモを取っている。
「あなた方が提示した額は、サハリンから直接買い付けるよりも高値ですよ」
大和が学の左側で、苛立ったように机をコツコツと叩き始めた。
『フッ、それなら直接サハリンから買えばいいんじゃないですか?』
男の言い方には、明らかな見下しが含まれていた。
『何度言わせるんですか。この値段が嫌なら直接買う。普通、それくらい分かりますよね?』
学は受話器を握る手に力を込めた。
「交渉はどうか、どうか続けさせてくだ……」
「ブチッ……」
大和が容赦なく回線を切った。
「学、この前の最終手段を使おう」
学は小さく唇を噛み、黙り込んだ。部屋の奥では、隊員たちが頭を抱えている。
「学、わかってるやろ。本州が力を合わせれば北海道には余裕で勝てる。お前が使わんなら……」
大和が椅子に座り込んだ学を見下ろす。
「学、いつ使うんや?」
学の脳裏に理奈の声がよみがえる。
「戦争はいけないよ」
学が苦い顔で口を開く。
「……まだや。サハリンから直接買う」
大和が学の肩を激しく揺さぶった。
「京阪神の金銀が底を突いたらどうすんねん!」
「……人口は増えてる。水力発電だけではもう無理がある。今はこれしかないやろ……」
「使うべきや。お前がトップなんやぞ?」
学はうつむくことしかできなかった。薄暗い通信室の中は、やけに寒かった。
「これより閣議を始めます」
「山形県から島根県にかけての日本海側の地域とは、現在も交流を続けています。やはりあちらは人口も少なく、社会が安定していますね。湖南とは大違いだ……」
会議室の席に、榊原の姿はなかった。
誰かが小声で囁き合う。
「最近、榊原さんを見かけないな」
「噂、聞いた? 新しい政党を作るらしいよ」
学は資料に機械的にハンコを押しがら、重い口を開いた。
「日本海側の県の人々を、国会の見学に招待しよう」
学は一度言葉を切った。
「それから——サハリンの石油を直接買い付ける。そのための資金となる金銀を、京阪神の『死んだ街』から回収する」
夜、冷たい月光が役所の窓を照らしていた。
学が役所を出て歩いていると、ベビーカーを押した人が通り過ぎていく。道沿いには、建築途中の家がポツポツと点在していた。
中華屋の暖簾をくぐると、救命服を着た理奈がぽつんと座っていた。店の中は厨房にしか明かりが灯っておらず、薄暗い。
「チャーハンを一つ」
学が注文すると、理奈が顔を上げた。
「学、次いつデート行ける?」
理奈のトーンは、いつもより低く沈んでいた。
学は手帳を取り出した。カレンダーは真っ黒になるほど予定で埋め尽くされている。
「7月20日の昼からなら、なんとかなるかな」
「長浜市に大きい服屋さんができたんやって。駅で待ち合わせしよ」
そう言うと理奈は髪を団子に結び直し、そそくさと店を出ていってしまった。
(長浜って……遠いねん……)
運ばれてきたチャーハンを口に急ぎ足でかき込みながら、学は店内を見渡した。
「店長、なんで厨房しか明かりをつけてないん?」
「電気代がちょっとずつ上がっててな。この時間に来るんは役所の人だけやし、暗くても気にせんやろ」
いつもは氷が浮かんでいるグラスの水は、ぬるかった。
蒸し暑い日の下、街の電気屋の前に人だかりができている。
人々はショーウィンドウの中に置かれたテレビを食い入るように見つめている。画面の右下には「湖南放送局」のテロップ。
カメラが映し出したのは、役所の記者会見室の壇上に立つ学の姿だった。
『えー、三浦内閣は、深刻な電力不足を解消するために2つの政策を打ち出しました』
『1つ目は、石油をサハリンから直接購入することです』
人混みをかき分けるようにして、ふみと榊原がテレビの前に並んで立った。画面の中の学は言葉を続ける。
『2つ目は、節電の徹底であります。テレビの放送時間は、昼と夜の合計4時間に限定させていただきます』
テレビの前で、ふみと榊原が深刻な顔で何かを密談していた。
湖西線の列車が、琵琶湖沿いを静かに走っていく。
車内に一般乗客の姿はなく、迷彩服に身を包んだ自衛隊員だけが押し黙って座っていた。
列車は高島市を抜け、大津市に入った。いくつもの駅を通り過ぎる。列車から見える街並みにはバスも、自転車さえ走っていない。どの駅のホームにも人影はない。光を失った電光掲示板だけが、虚しく駅名を告げていた。
「大津——」
列車がトンネルを抜けると、もう琵琶湖は見えなくなった。
やがて、その列車はある駅に停車した。
学が大声を張り上げる。
「中隊整列! これより京都に入る。ゾンビは枯れて死んでるはずだが、警戒を怠るな!」
隊長が進み出てきた。
「全員、マスク着用!」
ガスマスクを装着した男たちが、次々と駅のロータリーへと降りていく。数人は小銃を低く構えていた。
ロータリーには、深い緑色の装甲車が停まっている。その車両から大和が降りてきた。
「大和、お疲れ。始めてくれ」
「わかった」
大和が整列した兵隊たちを振り返る。
「中隊、かかれ!」
男たちが、静まり返った街へと侵入していく。街は骨抜きにされたかのように不気味な静寂が広がっていた。誰も住まなくなった家々は半壊し、容赦なく蔦が巻き付いている。まさに死んだ街だ。
隊長がある民家の前で足を止めた。
「全員、黙とう——」
ドアをこじ開け、兵隊たちが中へと入っていく。
ネックレス、指輪——かつて誰かの生活を彩っていたあらゆる貴金属が、道路に停められたトラックの荷台へと集められていく。去年に大阪から滋賀に行くときに通った山科の街だった。だがこの時、その思い出を語り合える仲間はここにはいない。学は一人でトラックに詰められる金銀を眺めるしかなかった。
夕暮れの光が、死んだ街を血のように赤く染めていた。
「中隊、整列! 撤収の準備をしろ!」
琵琶湖沿いを引き返す列車の床には、袋いっぱいの金銀が鈍く輝いていた。袋の口からはみ出た仏像を、平気な顔で見つめられる者は一人もいなかった。
敦賀港。タンカーへの積み込み作業が急ピッチで進んでいる。
大地が学を呼ぶ。
「学、こっち! テレビ局が来てる」
秋がすかさず学を止めた。
「学、待って。目の下のクマがすごいよ。化粧で少しはごまかせるから」
「そうか……ごめん」
学が大人しく化粧を施されている間、大地は穏やかな笑みを浮かべていた。
「よかったな、学! やっと石油が手に入る」
大地のそんな笑顔を見るのは、ずいぶんと久しぶりのような気がした。
ふと船から窓の外を見下ろすと、大和がじっと学を見つめていた。
『お前がトップなんやぞ。最終手段を使え、学』
大和のあの声が耳の奥で蘇る。
(わかってるよ……)
ただ晴れ渡った空を、海鳥が優雅に舞っていた。
船の上に記者たちが上がってきた。少し前までは常に1台きりだったカメラが、今日は2台に増えている。記者がメモ帳を開いた。
「高島テレビの者です。三浦知事、今回の石油購入は成功すると思われますか?」
「はい。これまで石油輸入のためにサハリン側と交信を重ねてきました。成功すると確信しています」
これまで見かけたことのない記者が手を挙げた。
「湖南テレビの者です。北海道との交渉はすでに決裂したとの情報がありますが、それは事実ですか?」
学の眉がピクリと跳ねた。
「……交渉はまだ継続中です」
(なぜそれを知っている?)
タンカーの重苦しい汽笛が港に響き渡った。
甲板には、秋と大地、そして学の3人が並んでいる。岸壁からは、花穂が船上の大地へと大きく手を振っていた。
「大地ー! 気をつけてねー!」
大地が手を振り返す。
「いつもありがとうな、花穂!」
その様子を見て、秋が優しい声で何気なく呟いた。
「花穂ちゃんと大地は仲がいいよね。いつもお互いに支え合ってる」
その言葉が、学の鼓膜に妙に重く響いた。
「お互いに……支え合ってる……」
脳裏に、理奈の姿が浮かぶ。
中華屋で学の肩に頭を寄せていた理奈。
学の首元に顔を埋めていた理奈。
彼女のちいさな声が、頭蓋骨の奥で不気味に反響する。
『学はいつも癒やしてくれる』
喉の奥が急に激しく渇き、学は水筒の水を口いっぱいに含んだ。
最後に、あの病院の光景がフラッシュバックする。扉の奥に続く、終わりなき人々の列。
学の唇から、水が一筋こぼれ落ちた。
腕で手荒に口元を拭い、学はただ、どこまでも続く暗い海を睨みつけた。




