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28話(榊原)

28話(榊原)

 薄暗い寝室のベッドで、理奈と学は向かい合って横になっていた。

 学は何も言わず、ただ静かに目を閉じると、理奈の細い首元に深く額を寄せた。

「学がこんな風に甘えてくるん、あんまりないよな」

 理奈がふふ、と小さく笑う。

「うん……」

 すぐに、理奈が耳元で囁いた。

「ねぇ、学?」

「……どうしたん?」

「私、最近……仕事、疲れちゃった……」

 理奈はシーツのシワに視線を落とし、寂しげに呟く。

 学は一瞬だけ息を止め、それからゆっくりと顔を上げた。

「理奈、おいで」

「やったあ」

 理奈はいつもの無邪気な笑顔を取り戻し、学の胸へと飛び込んで頭を預けた。

「学はやっぱり優しいな」

 ドクドクと刻まれる彼の鼓動に耳を当てながら、誇らしげに言う。

「本当に強い人。福井市とも、あっという間に合流しちゃったんでしょう?」

「うん……」

 学は胸の中の理奈を抱きしめたまま、ピクリとも動かない目で、暗い壁の一点を見つめていた。

 理奈が胸の中で嬉しそうに微笑む。

「学と一緒にいると、いっつも癒してもらえる」

「……」

 部屋の明かりが消えても、彼の目の下に刻まれた色濃い死斑のようなくまは、消えることがなかった。

 カーテンの隙間から、容赦のない朝日が差し込み、ベッドを照らし出す。

 隣で規則正しい寝息を立てる理奈の横顔は、息をのむほど美しかった。

 なぜか学の脳裏に、母親の顔が鮮烈によぎった。

(結局、俺も……同じだ)

だが、ただ強く、優しく、理奈を抱きしめるしかできなかった。


玄関の前。 

「学、じゃあまたね!」

「うん」

「私、またここに来たいな」

「理奈の誕生日は八月やったよな。その時にまたおいで」

「本当? 約束だよ!」

 理奈が見えなくなった途端、学は激しい目まいに襲われ、壁に荒々しく手をついて身体を支えた。

 外から聞こえる蝉のけたたましい鳴き声が、まるで脳味噌を直接針で突き刺すようにつんざいていた。


「閣議を始めます」

 大和が世界地図を机に広げ、野太い声を室内に響かせた。

「他国の状況をまとめた。第一に、日本と同様、世界中のどこの国も未だに国内を統一できていない。それどころか、あちこちで凄惨な内戦が勃発しとる」

 学は発言せず、ただ下を向いたまま、ノートの上で機械的に鉛筆を動かしていた。

「そして第二に、ペルシャ湾の石油情勢や」

 大和が苦そうにつばを飲み込み、重い口を開いた。

「結論から言う。中東からの石油輸入は、一切期待できへん」

 その言葉を聞いた途端、会議室の議員や市長たちが一斉にどよめき始めた。

「なんでだ!?」「パンデミックで世界的に人口は減っているんだろ?」

「油田が余っているはずじゃないか。これからどうするんだよ!」

 近江八幡の榊原だけは、腕を組んで黙ってその様子を観察していた。

大和が続けた。

「インドが、大量の食料を作って、中東の石油を買ってる」

「私たちだって穀物を売れば、買えるはずだろ! どうして日本に一滴も回ってこないんだ!」

 誰かの怒号のような疑問が飛んだ時、学の鉛筆がピタリと止まった。

「……インドだけで、現在の中東が求める食料の需要はすべて賄いきれる」

 学が、掠れた声で全員を遮った。

「世界的な飢餓の時代だ。中東の権力者たちだって、明日の食料が保証されない現状で、貴重な石油を安売りできるわけない」

 そこからは、せきを切ったように悲観論が飛び交った。

「アメリカは! アメリカならどうなんだ!?」

「あそこは国土が広すぎて、自国のインフラを維持するだけで精一杯だ。激しい内戦も続いている」

「なぁ、どうすんの!? 人口はどんどん増えてるんやぞ! 水力発電だけじゃ冬を越せへん!」

「東南アジアやオセアニアの小規模な油田なら、交渉の余地があるんじゃ……」

「石油がないと肥料さえ作れない。食糧危機にもつながるぞ」

「本当に大丈夫なのか?」

「どうするんだよ、学!」

 詰め寄る声を浴びながら、学は右腕の時計に目をやった。そして、泥のように重い腰をゆっくりと上げた。

「……俺が、何とかする。だからみんな、安心してくれ」

「何とかって、具体的にどうするんです?」

 冷徹な榊原の声が、学の言葉を刺した。

「最終手段もある。最悪の状況になれば、それを使う」

 榊原が、不気味なものを見るように学へ眉をひそめた。

(最終手段? こいつは、一体何を考えてる……)

「とりあえず、もう一度北海道と交渉の席を設ける。それがもし、決裂したら……」

「決裂したら?」

「京阪神の死んだ街から金銀をかき集めて、サハリンのロシア勢力から直接、石油を買い付ける」

「……それなら、まだ希望はあるね」

 花穗が、ホッとしたように胸をなでおろした。

 閣議が終了し、重苦しい足取りで面々が出ていく。会議室には、学と大和だけが残された。

「大和、どうした」

「学……金銀を売るって言っても、それが底を突いたら終わりやぞ。どうするねん」

「大和、これからは二人だけの秘密にしろ。『最後の策』がある」

 その時、会議室の扉のわずかな隙間に、榊原がじっと聞き耳を立てて立っていた。しかし、疲れ果てた二人がそれに気づくことはなかった。


 だだっぴろい夏の青田の中を、一両編成の電車がガタゴトと走っていた。行先表示のガラスの奥は、手入れ不足のせいで白く曇っている。

『近江八幡行』

 車内には、高島市役所のスーツを着た官僚たちが何人も腰掛けていた。

「長浜はやっぱり、田んぼの規模がすごいな……」

 外には、瑞々しい緑の稲がすでに人間の膝下ほどまで伸び、夏の風に青い波を立てて揺れている。

 やがて、車窓の向こうにひときわ大きな伊吹山が見えてきた。

『次は、長浜、長浜です——』

 電車はのどかな田園地帯を抜け、少しずつ市街地へと入っていく。

 窓の外を見下ろすと、ピカピカのランドセルを背負った子どもたちが元気に登校しているのが見えた。通りでは、物資を満載したリアカーを押す大人や、自転車がせわしなく行き交っている。高島市や敦賀市と同じだ。長浜は、確実に復興を遂げている。

 駅に到着すると、長浜市長の尾瀬が、紙袋を抱えて車内に入ってきた。彼は遠慮がちに学の隣へと腰掛けた。

「三浦知事、福井市との合流おめでとうございます。あ、これどうぞ」

 尾瀬は、笹の葉に綺麗に包まれた地元の駅弁を差し出した。

「どうも。えっと代金は……」

 学はそう言って、内ポケットから高島市のハンコが押された、新札を一枚差し出した。

「いえいえ、お金なんて結構ですよ……。これで完全に福井県と合流できましたね」

 尾瀬は相変わらず細い声で恐縮している。

 電車は再び走り出す。琵琶湖沿いの線路を進むと、湖の遥か対岸に、うっすらと高島市の灰色の街並みが見えた。

 電車の前方の席では、理奈と秋が楽しげに喋っている。

「ねぇ、秋ちゃん! 花穗ちゃんもこれたら良かったのにね」

「花穗ちゃんは、福井の新しい田んぼの管理で現地に行ってるんよ」

「そっかぁ。せっかくまた一緒に、近江八幡に行けるのにな」

「そうやね……」

 秋は、理奈の笑顔に応えながらも、視線を後ろの席へと向けた。そこには、ただぼんやりと琵琶湖の濁った水面を見つめる学の横顔があった。

(学、この前近江八幡に行った時みたいに、ならんといいけど……。理奈ちゃんが……)

『次は、彦根、彦根です——』

 ふいに、今日のために新調した上品なワンピースを着た理奈が、学の席まで近寄ってきた。

「理奈、そういえばスーツは持ってこんかったんか?」

「うん、スーツじゃなくて、医療用の救命服を持ってきた。近江八幡の役所に着いたら、着替えようかな?」

 その言葉を聞いた瞬間、学の脳内で何かが火花を散らした。

 ハッと何かに取り憑かれたように、学の瞳孔が不自然に大きく開く。

「……いや、ワンピースのままでいい」

「 そう?」

「そのままでいてくれ」

「うん、分かった!」

 理奈はただ無邪気に笑った。


 電車の後方で、学は大地、大和の二人と声を潜めて話し合う。

「近江八幡のような湖南の地域は、まだ治安も経済も安定していない」

「彼らの中には、高島市を、まだ信用してへん奴らも大勢いるやろうな」

「あぁ。だからこそ、こちらの安定してるのを見せな」

 学はそう言って、前方の席で窓の外を見ている、美しいワンピース姿の理奈を振り返った。大和は何も言わず黙っていた。

『次は、終点、近江八幡、近江八幡です——』

 電車は小さな川を越えた。川沿いには、侵入者を防ぐための強固な木製の柵が延々と続いていた。その柵の間に時たま、小さいやぐらがあって竹やりを持った人が見張っている。柵を超えると田んぼが広がっている。

 そこでは、泥だらけになった多くの子どもたちが、大人に混じって必死に農作業をしていた。薄暗い曇りの下の光景だった。

「学! これ見て!」

 前方から秋の弾んだ声が響いた。学が近づき、彼女の差し出すスマホの画面を覗き込む。

 そこには、一人の若い男が、緊張した面持ちで赤いリボンをハサミでカットする姿が映し出されていた。

「これって……ふみ、やんな? 」

「ほんまやな」

 一年前、大阪から滋賀へ移動する最中、別れた仲間、ふみだった。冷え切っていた学の胸に、一瞬だけ確かな温もりが灯る。動画の音声が流れた。

『——えー、この度は、湖南テレビ局の開設に伴い……』

 画面の中のふみは、以前よりも少し声が低くなり、どこか大人びた表情をしていた。

 続いて、画面に仕立ての良いスーツを着た榊原が登場する。

『この湖南放送局には、いずれ全国放送を目指してもらいます。パンデミックで傷ついた人々の心を癒やす、最高の娯楽となることを願っています』

 そう言って、二人はカメラに向かって力強く握手を交わした。

「懐かしいな、学」

「あぁ……。ふみも、生きとったんやな」

 キィィ、と重いブレーキ音を立てて電車が止まった。

「近江八幡駅」のホームには、高島市の一団を一目見ようと、大勢の市民が群がっていた。スーツを着た高島の官僚たちが、降りていく。

 ホームの最前列では、榊原が待っていた。

「三浦知事、遠路はるばるお疲れ様です」

「榊原さんも、出迎えありがとうございます」

 一行は役所へと向かうため、近江八幡の街を歩いた。

 活気のある長浜と違い、ここは不気味なほど静まり返った街だった。学は、綺麗なワンピースを着た理奈と並んで歩く。

 道端に座り込む、つぎはぎだらけのボロ服を着た住民たちが、学たちを横目で見ていた。その視線が、理奈の衣服に集中する。

「あのワンピース、綺麗やな……」

 そこへ、すり切れたふくを着た小さな子どもが、おずおずと駆け寄ってきて、服を持ち上げた。

「これ……お米四〇〇グラムで交換してくれませんか?」

 理奈は引き攣った笑顔で首を振るしかなかった。

「ごめんなさい、私、今お米は持ってなくて……」

 ようやく近江八幡市役所に到着し、一行はエントランスの長椅子に腰掛けて一息ついた。

「理奈、ここで一般市民の診療をするなら、役所の中でやり。外は暑すぎるから」

「うん、分かった。学も無理しないでね」


 学たちは、奥の厳粛な会議室へと案内された。

「現在の状況をまとめました」

 近江八幡の職員たちが資料を配っていくが、彼らは高島の官僚と違い、誰もスーツを着ていなかった。ヨレヨレのシャツ姿の官僚が前に出る。

「まず、我が市は石油の確保ついては、湖北連合にできる限り協力します。……ただ、その代わりと言ってはなんですが、防衛の件です。我が市の境界線に、兵員をもう少し増強して配置していただきたい」

 すかさず、同席していた榊原が口を開いた。

「高島市は完全に安定している。人手不足ではないはずです。近江八幡の防衛に人員を割く余裕はありますよね?」

 榊原は学を見つめ、目が合うと、今度はその視線を意図的に、隣に座る背の低い数豊へと向けた。

 学は声を絞り出す。

「……兵員の増強については、理解しました。前向きに検討します」

 榊原が不満げに眉をひそめた。

「知事、兵員だけではありません。人員の増強は官僚も同様ですよ」

「……それを分かっているからこそ、我が方の閣議にあなたを迎え入れているんです」

 会議室に、一瞬だけ張り詰めた沈黙が流れた。

「……そうですか」

 

 会議がある程度進んだ。

榊原は表情を一切崩さずに切り出した。

「高島市では去年から、旧日本政府が発行した『新札』に、独自の承認ハンコを押して地域通貨として流通させていますね」

「えぇ」

 数豊が、子供とは思えない冷徹なトーンでゆっくりと言葉を挟む。

「パンデミック以降、中央銀行は機能していません。つまり、新札は新たに発行されていない。だからこそ、外部の地域から未承認の貨幣が大量に流入しない限り、高島市内の市場の安全は保証されています」

「素晴らしい。ですから、私たち近江八幡も、一刻も早く貨幣制度を復旧させ、経済を回したい。そのために、市内の銀行の金庫から、手に入る限りの新札をかき集めました」

 その頃、エントランスで待っていた理奈は、通りかかった水売りから冷たい水を買い、学に届けようと会議室へと近づいていた。

 だが、会議室の重い扉の手前で榊原の鋭い声が響き、理奈はノックする手を止め、外の廊下で息を潜めた。

『貨幣制度さえ導入できれば、我が近江八幡の経済も、高島市のように劇的に回復するはずです』

 榊原の言葉を聞いて、学は大和に目をやった。だが、大和は黙って窓の外へと視線をそらした。隣の大地も、気まずそうに目を伏せる。唯一、数豊だけが、学の決断をじっと見つめていた。

 学は喉の渇きを覚え、息を呑んでゆっくりと口を開く。

「……近江八幡の貨幣制度の復旧案については、喜ばしい提案だと思います」

『では知事、高島の『承認ハンコ』を、我が市にも貸し出してくださる、ということでよろしいですね?』

 会議室に、文字通り息もできないほどの重い静寂が落ちた。

 学は深く、ゆっくりと空気を吸い込む。

「……ハンコは、貸せません」

 その瞬間、近江八幡の職員たちが一斉に顔を見合わせ、小言を漏らし始めた。

「やっぱりな」「言った通りだろ、あいつら……」

 学は声を張り上げようとしたが、胸を強烈な力で押さえつけられるような過呼吸の感覚が襲い、声がかすれた。

「近江八幡を……信用していないわけでも、合流を渋るわけでもありません! もし、他地域から偽札や未承認の新札が我が国へ流入すれば、一気に、経済が崩壊します。ですから……!」

 ヒソヒソと小言が聞こえる。

「これで何が合流や!」

「ですから……紙幣を多様化することで……危険を分散しようと…」

 学は必死に声を繋ごうとした。だが、のどの奥が完全に閉ざされたように、言葉が一切出てこなくなった。頭が真っ白になり、冷や汗が全身から噴き出す。

 会議室の外で、壁に耳を押し当てていた理奈の瞳が、激しく震えていた。

 理奈の脳裏に、学の濡れた背中が蘇る。

 かつて、秋が寂しそうに語っていた言葉が、何度も何度も頭の中で反響した。

『理奈ちゃんは学にとって「憧れ」なんじゃない?』

(そんなことない……学は、弱くなんか……!)

 

 会議室では、榊原の氷のように冷たい声が響き渡っていた。

「新札の数は限りがある。何か具体的な対策はされているのですか」

「……もちろんです。あの……そちらが独自の、異なるハンコを作ることは構いません」

 学の声は、今や消え入るほどに小さかった。

 

 部屋の端で、秋は痛ましそうに顔を歪め、学の後ろ姿に向けて、祈るように両手をきつく握りしめていた。見かねた秋が、震える声を出す。

「——今日の会議は、ここまでにしましょう! また日を改めてお話しすれば良いことです!」

 会議が打ち切られ、秋はすぐに学に薬を飲ませた。

 高島市の一行が会議室を後にする。だが、外の廊下には、すでに理奈の姿はどこにもなかった。


 夕方、榊原たちは、近江八幡市役所の玄関口から、疲れ果てた様子で駅へと向かう学たちの背中を冷ややかに見送っていた。

 榊原が、隣の側近に、極小の声でささやいた。

「……仮にこっちが新しいハンコを作って同じ通貨を使ったところで、高島市の通貨と同等に扱ってもらえるわけがない。あいつらは、地方のことを軽視している」

 側近も、冷酷な目で頷く。

「紙幣の信用と価値の差が生まれますね。……榊原さん、私たちは、あなたについていきます」

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