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27話(石油)

27話(石油)

 田植えの季節が終わりを告げると、鉛色の空から何日も激しい雨が降り続くようになった。梅雨の始まりだった。

「六月十八日、閣議を始めます」

 高島市役所の会議室。重苦しい空気の中、一同が机を囲んでいた。今日からは、正式に合流した近江八幡の榊原もその列に加わっている。

 若い官僚が全員に資料を配り終え、前方へと進み出た。

「我が方の生命線である、石油の確保についてです。現在、日本から最も近い位置にある稼働中の油田は、ロシアのサハリン(樺太)です」

 学がさりげなく視線をやると、榊原は配られた資料に熱心に目を落としていた。学の肩から知らず知らずのうちに入っていた強張りが、少しだけ抜けていく。

 官僚が説明を続けた。

「ですが、サハリンの石油供給ルートは現在、北海道政府によって完全に独占されています」

 すかさず榊原が手を挙げた。

「独占、とは? 北海道が武力でサハリンを支配しているということですか?」

「いえ、違います」

 机の上に、大きな東アジアの地図が広げられた。大和は不機嫌そうに、爪でコツコツと机を叩いている。

 官僚がサハリンの島を指さした。

「石油を買い付けるには、当然、相応の対価が必要です。サハリンは寒帯の島であるため、自給自足が難しく、穀物や家畜の飼料を全面的に外部に依存しています」

 数豊が手元の資料をめくり、大人のような落ち着いた声で補足した。

「北海道は、旧日本において最大の農業地帯です。パンデミック後の現在でも、穀物や飼料の生産能力は僕たちの比ではありません。サハリン側が必要とする食料を、安定して供給できる唯一の存在なんです」

 榊原の視線が数豊へと向く。大人たちに囲まれながら、淡々と経済の現実を語るこの少年は、会議室の中で妙に浮いて見えた。

 長浜市長の尾瀬が、困惑したように首を傾げ、細い声を絞り出す。

「あの……世界的なパンデミックで、どこも劇的に人口が減りましたよね? サハリンに、そんな膨大な穀物が今でも必要なんですか?」

 学が静かに立ち上がった。

「サハリンはパンデミックの死者が全く出ていない」

 その言葉に、会議室の面々が顔を見合わせた。

「えぇ……?」「そんなことがあり得るのか」

「じゃあ、当時の人口がそのまま生き残ってるってことか?」

 ひそひそとした動揺の声が広がる。

 大和が学の言葉を引き継ぐように、野太い声を響かせた。

「ロシア本土は未だにまともな統一政府がない。だからこそ、サハリンにとって今の北海道は、飢えをしのぐための絶対的な生命線になってる」

 尾瀬が再び、縋るような声を出す。

「だったら……穀物をサハリンに売って、直接石油を買えばいいのでは……」

 大和が机を叩く手を止め、太い指で北海道と滋賀を交互に指し示した。

「滋賀から日本海を北上してサハリンへ向かうのと、北海道から船を出すのとじゃ、距離が二倍以上違う。燃料代も、航海中の保管コストも文字通り桁違いだ」

 花穗が自分の腕をさすりながら、悲しげに呟いた。

「輸送コストのせいで、北海道に価格競争で勝てないんだね……」

 学は押し寄せる頭痛をこらえるように、片手で額を押さえた。

「去年から、石油を適正価格で融通してもらえるよう、北海道政府と何度も交渉を重ねてきた。けど、あいつらはその対価として、法外な量の金銀を要求してきてる」

「バンッ!」

 突然、大和が猛然と机を叩いた。一同がびくりとして顔を上げる。

 大和は怒りに顔を真っ赤に染め、野太い声を張り上げた。

「サハリンから直に買い付けるより、何倍も高い値段を吹っかけられてるんやぞ!」

 威圧的な態度に、榊原が思わず大和を鋭く睨みつける。空気がピリついた瞬間、榊原が花穗の肩をそっと叩いた。榊原が声を潜め、花穗に囁く。

「……いっつもこんな感じなんですか、あの人は」

「いつもは優しい人だよ。もう何ヶ月も交渉を続けてきたから……」

 その時、会議室の重い扉が静かに開いた。秋が、大きめのやかんを抱えて入ってきた。

「ジョロジョロジョロ……」

 それぞれの湯呑みに、温かいお茶が注がれていく。湿気を孕んだ会議室は、妙に蒸し暑く、そして静まり返っていた。

「花穗ちゃん、みんな、どうしたの?」

 秋が心配そうに尋ねる。

「ちょっと、行き詰まっててな……」

 秋は全員の沈んだ顔、疲弊した表情を見渡し、少しの間、思案するように黙り込んだ。そして、おずおずと口を開いた。

「みんな。煮詰まってるみたいだし、一旦休憩にしない?」

 花穗が救われたように苦笑した。

「……うん、そうしよっか。みんな、少し頭を冷やそう」

 休憩に入ると、大地は力尽きたように机に突っ伏した。

 学はただ一人窓辺へと歩み寄り、雨に濡れる駐車場のバスをぼんやりと眺めていた。

 そして榊原は、周囲の大人たちが脱力する中で、一人黙々と鉛筆を動かして計算を続けている数豊の横顔を、複雑な眼差しで見つめていた。

(この子、どう見てもまだ中学生くらいだろう)


「肥料も電気も石油がないと作れないからね……」

 そんな小言が交わされながら会議が始まる。

「——閣議を再開します」

 学が再び正面に立ち、声を張った。

「北海道とは、これからも交渉を続ける。適正な価格での取引を取れるよう、全力を尽くそう」

 学が方針を述べる間、大和はバツが悪そうに頭をボリボリとかいていた。

「それと同時に、交渉を少しでも有利に進めるため、我々の『湖北連合』という集団そのものを大きくしていく必要がある」

 榊原が腕を組み、冷徹な現実を突きつける。

「石油がなければ、これ以上の規模の米作りだってままならない。無理に人口や領土を増やしても、共倒れになるんじゃないですか」

「いや、勝算はある。人が手薄になっている日本海側の地域を、積極的にこちらへ合流させるんだ。今の世界、食料はかね以上の価値を持つ最大の通貨になる。もし新潟や秋田といった大穀倉地帯が我々湖北連合と手を結べば、サハリン以外の石油入手ルートも視野に入ってくるはずや」

 花穗が、暗かった会議室にパッと花が咲くような笑顔をみんなに向けた。

「学の言う通りだよ! 」

「ありがとう、花穗。……よし、今日の会議はここまでにしよう。みんな、早く帰って寝てくれ」

 榊原は小さく眉をひそめていた。学の後ろ姿を見つめながら、心の中で懐疑的な言葉を呟く。

(そんな簡単にいくかよ)


 一同が去った後、学は作業室の窓から、雨の中を家路につく仲間たちの背中を見送っていた。秋が最後に役所を出ていくのを確認すると、学はデスクライトのスイッチを入れ、再び山積みの書類へと向かった。


 ある朝、学は久しぶりに役所を出て、静かな街の道路を歩いていた。近くの中学校の脇を通りかかると、開け放たれた窓から、子供たちの賑やかで健康的な笑い声が聞こえてきた。

 学が今暮らしている、瓦屋根の古い一軒家へと帰宅する。

 庭先には、タイヤや、錆びかけた電気機械が転がっていた。かつてトマトやキュウリを植えていたはずの植木鉢には、今や行き場を失った雑草が青々と茂っている。

 風呂場に入り、歩き疲れた靴下を脱ぐ。白い布地は、連日の激務の汚れを吸って、どす黒く変色していた。シャワーの蛇口を限界までひねると、冷え切った管から、頼りない細さで水が流れ出した。

「……ぬるいな」

 汚れも満足に落ちない温水に打たれながら、学は目を閉じた。風呂場の小さな窓から、容赦のない夏の太陽の光が差し込んでいた。

 居間の小さなソファに深く腰掛け、骨董品のようなテレビの電源を入れる。

 ふと視線をやると、ローテーブルの上には、一年前に古賀の夏祭りで撮った一枚の写真が飾られていた。額縁の中で、信太も、他の仲間たちも、みんな無邪気に笑っている。

(……お前なら、もっと上手くみんなをまとめられたよな、信太)

 学は、自分の弱音を裏切るように、その写真立てをバタンと机にうつ伏せに倒した。こめかみを強い力で押さえ、そのまま深く、泥のような眠りに落ちていく。

 チチチ、という電子音でハッと目が覚めた。

 ゆっくりと目を開けると、いつの間にか天井が不気味なほど赤く、どろりとした夕焼けに染まっていた。テレビからは、聞き慣れたアナウンサーの声が流れている。

『——一九時のニュースです。政府は本日、福井県、富山県、そして新潟県をはじめとする日本海側の各県と、交流を始めることを正式に発表しました』

 学はポケットから、振動するスマホを取り出した。画面には、理奈からの新着メッセージが表示されている。

『次、いつ会える?』

 その文字の下で、呑気な猫のキャラクターのスタンプが、満面の笑みを浮かべて踊っていた。

 返信を打つ気力も湧かないままスマホを消すと、テレビの鮮烈な光が、学の生気のない瞳を青白く照らし出す。

『次のニュースです。福井県敦賀市では、高島市での成功例を元に通貨制度の導入が完了し、本日、政府の銀行が再開されました。現地と中継がつながっています』

 画面が切り替わり、現在の敦賀の街並みが映し出された。

 学は静かに目を見張る。ついこの前訪れた時とは、街の雰囲気が劇的に変わっていたのだ。かつては暗くまばらだった夜の街灯や家々の明かりが、今や本拠地である高島市と何ら遜色のないほど、眩い光の海となってきらめいている。

『銀行の再開について、どう思われますか?』

 街頭インタビューに応じた地元の男が、白い歯を見せて快活に笑った。

「いやぁ、本当にいいことですよ! これから敦賀は、高島市のようにもっともっと栄えていきますよ!」

 男の後ろの路地を、何人もの市民が歩いていく。

 映像に映る彼らの誰も、あの薄汚れた、つぎはぎだらけの服を着ている者はいなかった。みんな、新しく綺麗な衣服に身を包み、未来の希望に目を輝かせている。

 誰もが、豊かになっていく。

 その眩しすぎる復興の光景を、学は一人、薄暗い部屋の中で、ただじっと見つめ続けていた。

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