26話(軍事演習)
26話(軍事演習)
カーテンの閉め切られた薄暗い部屋の中で、学は机に向かっていた。デスクライトの淡い光の下、鉛筆を握る手の影だけが、書類の上を忙しく動いている。
「コンコン」
控えめなノックの音が静寂を破った。
学は頭をガシガシとかきむしる。
「……どうぞ」
「カチャ」とドアが開き、数豊が入ってきた。
「学。琵琶湖の南にある市が、いくつか合流を希望してきたよ」
「どこの市だ?」
学はそう言いながら、山積みの書類の底から、地図を引き抜いた。
「彦根市と、近江八幡市」
「榊原のところか……」
「榊原さんは、僕たちの『自由信党』に入るって。近々、党の支部を現地に置くっていう話も出ててるらしい」
学の鉛筆がピタリと止まった。
「……らしい、って?」
「本来、合流の交渉は大地の仕事やけどな。インフラ整備の件で手一杯やから、僕の方に案件が流されてきた」
「そうやったな……大地も限界か」
数豊は部屋を出ていこうとしたが、ふと足を止め、散らかった室内を見渡しながら何かを言いかけた。
「学。そろそろ、役所の職員を増やさないと、みんな潰れてしまうよ……」
数豊が去った後、学は小さく息を吐いて部屋を見渡した。いつの間にか、カーテンの隙間から眩しい朝の光が差し込んでいる。窓を開けると、初夏の涼しい風が部屋の澱んだ空気をかき消すように吹き込んできた。
窓の下の駐車場では、正装した職員たちが、一台のバスを丁寧に磨き上げているのが見える。
(車、か……)
『世界一速い車、作るねん』
ふと、かつての言葉が、鼓膜の奥をよぎった。
手首を返し、右手に目を落とす。信太の形見である腕時計は、無頓着に、ただ刻々と、正確な時間を刻み続けていた。
学はたまらず、机に突っ伏してそっと目を閉じた。
——夢を見ていた。
学は、夕暮れの赤に染まった水路の中を、一歩ずつ水を蹴って進んでいた。
背中には、ずっしりとした誰かの重みがある。
『学、日本を元に戻すんや』
『……一人でも、やれるよな』
『一人でも、やるんやぞ』
見上げた空は、残酷なほどに、どこまでも青く晴れ渡っていた。
学は、高島市役所を背に自転車を走らせている。
街には、買い物袋を下げた市民たちが穏やかに行き交っている。信号機はまだ消灯したままだが、脇を流れる水路には、勢いよく大量の水が流れていた。
道沿いに見えてきた病院のガラス扉の奥には、診察を待つ患者たちの長い列ができている。理奈が手を挙げて患者を診察室に引き入れているのが、遠くからでもよく見えた。街路樹は、生命力に満ちた緑の葉を陽光に輝かせていた。
交差点を曲がろうとした、その時だった。
「危ない、止まってください!」
「キーッ!」
鋭い叫び声に、学は驚いて勢いよくブレーキをかけた。
「ガタガタガタ……」
鈍いエンジン音を響かせながら、一台の古びたトラクターが目の前を横切っていく。麦わら帽子をかぶった男が運転するその荷台には、青々とした米の苗がうずたかく積まれていた。
運転席の男が、学の顔を見て親しげに手を振った。
「お、知事さんやねー!」
「あ、こんにちは。田植え、ご苦労さまです」
自転車で近江今津の駅を通り過ぎ、さらに山道へと入っていくと、一本の重々しい看板が立っていた。
『この先立ち入り禁止 今津駐屯地』
コンクリートの重々しい門の側には自衛隊の隊員がいて、学を見るなり姿勢を正して敬礼した。門衛の横を抜けると、広大な敷地に宿舎や巨大な倉庫がそびえ立っている。小銃を肩にかけた何人もの兵士たちが、鋭い目つきで見回りをしていた。
その奥にある大きな倉庫の前に、大勢の人だかりができている。学は自転車を降り、ネクタイをきゅっと締め直した。
「大和」
「おお、学。来たか、こっちへ来い」
人だかりの中にいた大和が、すぐに学の手を引いて前へと連れ出した。
「学、あちらが『舞鶴』から来られた方々や」
大和が周囲に、響き渡る野太い声を張り上げる。
「皆さん、ご紹介します。こちらが我らが湖北連合の三浦学知事です」
学は、胸元に『舞鶴』と書かれた名札をつけた男に右手を差し出した。
「本日は遠方からご足労いただき、ありがとうございます」
「こちらこそご招待ありがとうございます」
舞鶴からの来賓は髪をかき上げていて、いかにも長という感じだったが親しみやすさがあった。
学が手招きをすると、少し離れた場所にいた榊原が近づいてきた。
「こちらが近江八幡市の榊原さんです。今回、我々の連合に合流することになりました。滋賀の団結も、一歩ずつですが着実に進んでいます」
舞鶴の男はにこやかに笑い、学の手を力強く握り返した。
「ゴオーーーッ!!」
凄まじい砂ぼこりを巻き上げながら、十六式機動戦闘車が轟音を立てて走ってきた。それは見学者たちの目の前で、ピタリと停止する。排気ガスの匂いと土の匂いが混じっている。
大和が手を振り上げ、すかさず声を張る。
「打ち方始め!」
「撃て!」
鼓膜を震わせるほどの轟音とともに、砲口から真っ白な煙が吹き出した。
「パーーン!」
「弾着……今!」
次の瞬間、遥か遠方に設置された標的が、激しく爆発して四散した。着弾点から巨大な粉塵が舞い上がる。
「おお……」「これはすごいな……」
見学の男たちが、釘付けになってその破壊力を見つめていた。
しかし、学の視線はその少し後ろ、ひそひそと話し合っている男たちに向いた。彼らの胸札には『湖南』とある。その一行だけは、他の出席者のような綺麗なスーツではなく、着古した服のままだった。
(やっぱり、心の底から融和するのには、まだ時間がかかるよな……)
学は、寒気とも違う違和感に自分の腕をさすった。吹き抜ける春風は、思いのほか冷たく肌を刺す。
大和がカツカツとブーツの硬い足音を響かせて歩み寄ってきた。
「学。できれば、舞鶴の人だけでも最優先で合流させたいな」
野太い声が、耳元で低く続く。
「あの舞鶴基地(海上自衛隊拠点)の設備さえ手に入れば……」
学は何も答えられなかった。
ここには、秋も、花穗もいない。
学はただ、言葉を飲み込むように、小さく頷くことしかできなかった。
夕暮れ時、学は『万楽』と書かれた赤い暖簾をくぐった。
歴史を感じる中華料理店のカウンター席に、青い救命服を着た理奈の後ろ姿が見えた。彼女の美しい髪は、今は作業用に小さなお団子状にまとめられている。
「理奈、遅れてごめん」
「ううん、大丈夫」
理奈は首を振ると、髪のゴムをパッとほどいて、いつものポニーテールへと戻した。
「仕事が多くて、なかなか抜け出せんくてな」
学が理奈の前の席に目をやると、皿はすでに空っぽで、スプーンが寂しげに横たわっていた。彼女は、ずっと学を待ちながら、一人で食事を終えていた。
「すみません、チャーハン一つください」
理奈が、じっと学の顔を見つめてくる。
学は笑って見せて言う。
「理奈、こっちおいで。……今日もお疲れさま」
理奈は小さく息をつき、学の肩に、こてんと頭を乗せた。
「はいよ、チャーハンいっちょ!」
店主が威勢の良い声を狭い店内に響かせ、湯気の立つ皿を差し出した。
その時、店の隅に置かれた小さなブラウン管テレビが、パッと明るくなった。
『十九時のニュースをお伝えします——』
その音にハッとしたように、理奈は学の肩から頭を上げ、手際よく髪をまたお団子結びに戻して立ち上がった。
「理奈。俺、会計しとくわ」
「そう? ありがとう」
理奈は一瞬だけ、いつもの優しい微笑みを学に向けた。
「じゃあ、またね」
彼女は再び赤い暖簾を押し上げ、夜の街へと忙しなく歩いていった。
「……ハァ」
店内に一人取り残された学は、重いため息をつき、凝り固まった首筋に手を当てた。
目の前のチャーハンには一切手を付けず、一番端の席で、ただ力なく壁にもたれかかる。店前の道路を、家路を急ぐいくつかの自転車の影が、カラカラと音を立てて通り過ぎていった。
どれくらい時間が経っただろうか。
「ガラガラ……」と、店の引き戸が再び勢いよく開いた。
「あ、学だ。やっぱりおった」
入ってきたのは、大和と数豊だった。その後ろから、花穗もひょっこりと顔を覗かせる。
大和は店主と顔馴染みのようで、親しげに挨拶を交わした。
「大将、久しぶり! チャーハン三つな」
注文を終えた大和が学の隣にドカリと座り、耳元で野太い声を響かせる。
「学、数豊のことなんやけどな。お前、こないだの国会で、数豊を参加させへんかったやろ」
「……うん。数豊はまだ中2や。国民が騒ぐ」
大和の背中から顔を出した数豊は、しばらくの間、複雑な表情で黙り込んでいた。
やがて、覚悟を決めたように、ぽつりと言った。
「学。僕、財務大臣を辞めようと思う」
数豊はそう言って、寂しげに視線を床へと落とした。
「え……? やってくれよ。数がおらんと……」
学の目元には、隠しきれない色濃いクマが浮かんでいた。
「大臣は辞める。でも、これからは官僚として、裏から支える。だから……」
数豊のまっすぐな瞳を見て、学はそれ以上言葉を続けられなかった。
「……そっか。なら、いいけど。頼むわ、数」
学の絞り出すような声が、小さな店内に静かに消えていった。




