25話(国会)
25話(国会)
高島市役所の向かいにある中学校。その体育館にはパイプ椅子が規則正しく並べられ、壇上には一本のマイクスタンドがぽつんと立っていた。
湖西線の列車が駅に到着するたび、スーツに身を包んだ人々が続々と降りてくる。道路にできた黒い一筋の列は、吸い込まれるように体育館へと向かっていた。校門の前には、手書きの看板が佇んでいる。
『湖北連合国会 五月十日』
体育館の待合室で、学は深く息を吸い込み、ネクタイの結び目を強く締めた。隣にいた大地が、その肩をぽんと叩く。
「学、緊張してるで」
「……行ってくる」
学は小さく頷き、壇の袖からマイクへと歩を進めた。重い幕が、ゆっくりと上がっていく。
並べられたパイプ椅子には、各市町から集まったスーツ姿の代表たちが腰を下ろしていた。だが、一番後ろの壁際を振り返ると、そこにはラフなシャツを着た男たちが、腕を組んでこちらを睨みつけている。湖南の榊原もその中に混じり、冷徹な視線をこちらへ寄せていた。体育館の二階の廊下からは、テレビ局のカメラが、太いケーブルを何本も床へ垂らしている。
学は錆びついたマイクスタンドを軽く握った。手のひらには、じっとりと冷たい汗がにじむ。そのザラついた金属の感触が、妙にリアルだった。
「この度は、ご一同、ご足労いただきありがとうございます」
マイクに向かって一礼する。
「長浜市、米原市、そして福井県の敦賀市、小浜市の合流を完了し、初めて執り行う連合国会であります」
スピーカーから自分の声が響くのを聞きながら、学は言葉を続けた。
「ご存じの通り、これより自由信党の信任決議を行いたいと思います——」
閉会後、人々がぞろぞろと体育館を後にしていく。後ろで壁にもたれていた男たちは、何かひそひそと私語を交わしていた。
待合室に戻った学の首筋には、だらだらと汗が垂れていた。
秋がそっとハンカチと冷えた水を手渡す。
「学、お疲れさま」
「ありがとう」
パイプ椅子に腰掛けていた大和が立ち上がり、待合室に野太い声を響かせた。
「信任、おめでとう」
大地もいつもの優しい笑顔を浮かべる。
「これからは本当の意味で国の礎をつくらなあかん。忙しなるで!」
「ああ……大地、大和、みんな。これからも手を貸してくれな」
その頃、数豊は一人、市役所の窓から駅へと歩いていく群衆の姿を、ただ黙って見つめていた。
学は駅のホームの壁にもたれ、遠くの山並みを眺めていた。空は突き抜けるような快晴なのに、なぜかあの山の上にだけは、不気味な雲が低く垂れ込めている。駅前の花壇では、手入れの行き届かない雑草が風に揺れていた。
頭上を支えるコンクリートの柱から、ゴトゴトと振動が伝わってくる。「プシュー」という排気音とともに、列車が滑り込んできた。
「学、遅れてごめん!」
改札から走ってきた理奈が、息を弾ませて笑顔を見せる。
「いいよ。行こうか」
『近江舞子』と書かれた駅名標を後ろに、二人は歩き出した。少し進むと、きらきらと輝く琵琶湖が見えてきた。
「学! あっち見て!」
理奈が指さした先には、一年前にみんなで身を寄せ合って泊まった、琵琶湖沿いのホテルがあった。
「懐かしいな。あの時、みんなでバケツリレーして水風呂やったっけ」
「そうそう!」
ホテルのベランダには、今やシーツが何枚も干されている。
「一年でここまで街を発展させるなんて、学は本当にすごいよ」
理奈の無邪気な言葉に、学は視線を落とした。脇を流れる水路の底には、干からびた石ころが寂しげに転がっている。
やがて、青々とした松の並木道へと入った。木々の隙間から、白いビーチが見え隠れしている。簡易テントからは、中でお昼寝をしているのだろう、誰かの足がはみ出ていた。浮き輪を抱えた子供たちが笑いながら走り回り、反対側からは香ばしい出店の匂いが漂ってくる。肉を焼くジューという音と、子供たちの歓声が混ざり合っていた。
「国会のニュース、見たよ。テレビで映ってた。緊張してたでしょ」
「してないよ。無事に信任された。週六で働いてる甲斐があったわ」
学は歩きながら、理奈の横顔を盗み見た。
「よかったな」
理奈はただそれだけを言って、優しく微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、肩の力がすっと抜けていくのが分かった。
松林の奥に、いくつかのコテージが現れた。
「理奈、ここやで」
「わぁ、きれいなところ!」
敷き詰められた砂利の道を進むと、小さな管理小屋があった。中では店員がのんびりと編み物をしている。受付の机の上には、竹で作られた手製の天秤が置かれていた。
「バーベキューコンロは、あちらのスペースになります」
案内された場所は、琵琶湖が一望できる絶景の特等席だった。理奈が嬉しそうに一人で駆けていく。少し離れた場所から、彼女の弾んだ声が響いた。
「学ー! 来て来て! ハンモックあるよ!」
「今行く、ちょっと待っとって!」
荷物を抱えた学に、店員が少し申し訳なさそうに、苦笑いを浮かべながら告げた。
「恐れ入ります。当店、料金は先払いでお願いしておりまして……」
「あ、いくらですか?」
「二千円と、米二百グラムになります」
(……少し高いな)
学はリュックサックを開け、計量用の枡と財布を取り出した。財布から引き出した新札の表面には、割り印のようなハンコが押されている。ハンコはまるで、「勘合貿易」の勘合符のようだ。
コテージの横にあるコンロに、二人は並んで立った。理奈が手渡されたクーラーボックスをパカッと開ける。
「学、見て! お肉が入ってる!」
学は納得したようにつぶやいた。
「だから高かったんか」
「お肉なんて本当に久しぶりやな! 花穗ちゃんの牧場のんかな?早く食べよ!」
寄せ返るさざなみの音が心地よく響く。かき氷を嬉しそうに持ったカップルが、何度か目の前のビーチを通り過ぎていった。
「おいしーい!」
理奈が嬉しそうに自分の頬をさする。
肉は、塩を少し振って大葉でくるんで口に運んだ。
「このシソ、ちょっと雑味があるな」
事前に茹でてあったのか、少ししなびている。
「野生のシソを摘んできたんちゃう?」
「ふーん、なるほどね」
食後、理奈はハンモックに揺られながら、分厚い医学書を熱心に読み始めた。学はそのすぐ横の椅子に腰掛け、スマホに表示された行政資料に目を走らせながら、鉛筆を走らせる。
作業の合間、学がふと顔を上げた。
「……病院の件、どう?」
「あ、復旧はできたよ。でもさー」
理奈はパタンと本を閉じ、それを抱きしめるようにしてため息をついた。
「どうしたん?」
「五つもある市をさぁ、全部、私一人で診てるんやで?」
「しんどいよな?」
「うーん、今のところ、まだ余裕はある方なんやけどな……。でも、これからも移民の人がどんどん増えるやん?」
理奈はハンモックから、学の目をまっすぐに見つめた。
学はほんの一瞬だけ目をそらし、それから無理に作るような笑顔を浮かべた。
「……大丈夫。俺がなんとかするから、心配せんでええよ」
笑う学の目元に、うっすらとクマができていることを理奈は気づいていた。
学は、琵琶湖の方を向いて本を開く理奈の後ろ姿を、いつまでも静かに見つめていた。
やがて日が暮れ、夕闇に包まれた湖が赤く染まっていく。
二人は駅のホームにある、塗装の剥げかけたベンチに並んで座った。誰もいない線路が、どこまでも真っ直ぐに伸びている。
学が再び視線を山へと向けると、夕闇の中でもなお、あの黒い雲だけが、執拗に山頂へとかかったまま動かずにいた。




