24話(敦賀市)
24話(敦賀市)
湖西線の電車が、ガタゴトと音を立てて走っている。車内の電光掲示板には、細かく揺れる文字で「敦賀行」と表示されていた。
学はスーツに身を包み、窓の外に広がる琵琶湖を眺めていた。湖の奥にそびえる伊吹山の頂からは、冬のなごりだった雪がすっかり消え去っている。車内には、つぎはぎだらけの服を着て、大きな荷物を抱えた人々が溢れ、必死に吊り革を握りしめていた。小綺麗に身を整えた地元民が、彼らの油気のないカサカサの髪を忌々しげに一瞥する。
「お姉ちゃん、あの人たち顔色悪いな」
「移民なんやて。目ぇ合わせたらアカンよ」
山を越え、長いトンネルを抜けると、列車は終着駅に滑り込んだ。駅名標のペイントは所々が剥げ落ち、かすれている。
『敦賀』
大荷物の人々が、堰を切ったように次々とホームへ降りていく。彼らはそこから見える敦賀の街並みを眺め、呆然と立ち尽くした。やがて、これまでピクリとも動かなかった移民たちの頬が、安堵からか、わずかに緩む。駅前ロータリーのコンクリートの上には、一枚の看板が立てられていた。
『ようこそ! 港の街へ』
学は改札を抜け、ロータリーへと向かった。深く息を吸い込み、ネクタイの結び目をきゅっと締める。その姿を見つけた事務服姿の職員が、慌てて駆け寄ってきた。
「おはようございます、三浦連合知事」
「おはようございます。自転車、借りますね」
ロータリーには、ぞろぞろと移民たちが集まり、長い行列を作り始めていた。手袋をはめた事務員たちが、彼らの持ち物や身体を厳重に検査していく。
学は、車一台走らない殺風景な道路を、自転車を漕いで進んだ。沿道では、使えなくなった民家を焼く「家焼き」の作業が行われており、あちこちから黒煙が立ち上っている。その前で、作業着を着た男たちが帽子を脱ぎ、静かに黙祷を捧げていた。
やがて、屋上に巨大なアンテナを備えた、現代的な4階建ての建物が現れた。中に入り、エレベーターに乗り込む。「4階」のボタンが点灯し、静かに扉が開いた。
「おお、学」
「大地、お疲れ」
大地と合流した学は、さらに階段を登って屋上へと出た。そこからは、敦賀の街と港が一望できた。山々に囲まれた天然の良港には、一隻の巨大なタンカーが、まるで眠るように静かに停泊している。
「大地、漁業の状況はどう?」
「石油は極力使わせてない。蟹はもう食べられへんな」
「……仕方ないな」
後ろから、規則正しい足音が近づいてきた。
「学。僕らが今回受け入れた移民は、滋賀側も含めておよそ三千人ってところやで」
数豊がノートを片手に、数字を読み上げながら歩いてきた。
学が柵を握る右手に目を落とす。そこには、かつて信太が身につけていた腕時計が静かに時を刻んでいた。
「あちこちに分散させてはいるけど、地元民との反発が起こるやろうな。焦らず、ゆっくりやろう」
敦賀市役所を後にし、学は再び自転車を押して歩き出した。役所の前には、薄汚れた身なりの人々が人だかりを作っている。どうやら募集掲示板を見ているようだ。
「家焼きの作業員募集だってよ。日給、米140グラムか」
「おい、こっちの方が給料いいぞ。米150グラムだ」
しかし、そのすぐ左隣にある別の掲示板には、誰も目を向けていなかった。真新しい白い紙が、寂しげに風に揺れている。
『高度人材募集中! 教師、医師、農家——少しの経験でも可!』
自転車にまたがり、市街地を抜ける。滋賀とは風景がまるで違う。どこを向いても、遠くには必ず重々しい山々がそびえ立っていた。
あたりに青々とした田んぼが広がり始める。錆びついた自転車のチェーンが「カラカラ」と頼りない音を立てた。ビニールハウスの横で、一人の女性を囲むようにして、人々が必死にノートにメモを取っているのが見えた。作業帽を深くかぶり、健康的に日焼けした女性——花穗が、通る声を張り上げた。
「皆さん、苗は深く植えすぎないでください。二、三センチの『浅植え』が基本です」
学は自転車を止め、輪の後ろからその様子を見守った。
「花穗さん、水の深さはどれくらいに保てばいいですか?」
「三から五センチです。しばらくは水位を変えないように管理してください」
指導が一段落したところで、学が声をかけた。
「花穗、いけそう?」
「なんとかな」
花穗は額の汗を拭い、水筒の水をゴクゴクと飲み干した。彼女の口から出た自然な関西弁に、なんだか心地よいそよ風が吹いたような気がした。
「福井の南側……小浜市の方はどうなってる?」
「湖北から応援の人が入って手伝ってくれてるよ。あっちの田んぼも何とかなると思う」
ビニールハウスの中では、瑞々しい緑の苗が、初夏の太陽を浴びてきらきらと輝いていた。
日が暮れ、街全体が赤く染まっていく。学は大地たちと共に役所の重い扉を出た。夕闇の駐車場には、配給を待つ人々の長い行列ができていた。
「はい、次の人ー!」
「就労証明書とスマホを出して」
煤で黒く汚れた手が、プラスチックの袋や古びた茶碗を差し出す。
「ジャラジャラ」と乾いた音を立てて、茶碗に米が盛られていった。
「はい、140グラムね」
虚ろな目をした子供たちが並ぶすぐ横で、腰に拳銃を下げた警官が、威圧するように台の上に立って見下ろしている。
一年前にも高島市で見たような、既視感のある光景。しかし、この敦賀の夕暮れは、どこか滋賀よりも薄暗く、冷気に満ちているように感じられた。
夕食のため、大地たちと地元の寿司屋へと向かう。花穗と大地は並んで親しげに話し込み、数豊と敦賀市長でさえ、今後の行政について意見を交わしていた。学は先頭を歩きながら、右手の信太の腕時計に目をやり、時間を確認する。
やがて、年季の入った木造の店舗が現れた。古びた暖簾が掛かっている。
「ガラガラ……」
「すみません、六人で予約していた者ですが」
「ああ、役所の人やざ(だね)? そっちの奥の座敷へどうぞ」
案内されるまま、畳の席に上がった。学の右隣には数豊が座り、左側の座布団はぽつんと空いたままだった。
ねじり鉢巻を締めた若い店主が、伝票を手に威勢のいい声をかけてくる。
「団体さんなら、今の時期は『桜鯛』のお造りが一押しですねぇ! ちょうどいけぇ(大きい)鯛が入ったところでしてね」
「じゃあ、それでお願いします」
しばらくして、見事な大皿が運ばれてきた。
「すんません、醤油ないですからね。塩をまぶして食べてください」
水色の大皿の上で、桜鯛の刺身が美しく花を咲かせていた。うっすらと透明感のある白い身が、店内の淡い灯りを反射して輝いている。
「ガラガラ」
店の扉が開き、大和が鋭い視線で店内を見回した。
「大和、こっちや」
「学、お疲れ」
大和が閉めた扉の向こうのガラス越しに、帰宅途中らしき子供が、物欲しそうに店内の刺身を覗き込みながら通り過ぎていくのが見えた。
「遅れてすまん。食べよう」
大和はそう言って、空いていた学の左側の座布団に腰を下ろした。
「大和、何かあったんか?」
学は、数豊と熱心に話し込んでいる敦賀市長の様子を横目で気にしながら、小声で尋ねた。
「いや……ちょっとな。自転車の調子が悪かっただけや」
運ばれた桜鯛は、またたく間に皿から消えていった。一切れを口に運べば、凝縮された旨味が塩によって引き立ち、舌の上でとろけるように広がる。
「市長。移民の受け入れですが、一旦ペースを落とします」
学の言葉に、市長は深く頷いた。
「ええ、分かりました。現状の配給量を考えても、その方が賢明ですね」
やがて、店主が手際よく皿を片付け始めた。
「お会計で……紙幣と米どっちがいいですかね?」
「ここは、まだ、米で払ってもらった方が嬉しいですよ」
数豊が懐から小分けにされた米の袋を取り出し、重い口を開いた。
「高島市に残ってる新札(旧政府紙幣)の数にも、限りがある。学、いつかは補充しななぁ」
学は頷いて、差し出しかけた財布をポケットにしまい、店を出た。
夜の帳が下り、家々の窓から漏れる頼りない明かりが、ポツポツと街を斑に灯していく。学は大和と並び、歩く一行の最後尾をついていった。最前列では、敦賀市長と数豊がまだ熱心に議論を続けている。
「学。諜報部が、気になる電波を掴んだ」
大和が周囲を警戒しながら、声を潜めて言った。
「電波? 何を掴んだん?」
「これ、片方つけてみろ」
大和から手渡された無線用のイヤホンを、学は耳に装着した。
ザー、という激しいノイズの向こうから、途切れ途切れの電子音声が響く。
『This is I…… station. Do you copy? 』
『Loud and clear. This is A32. 』
『May your course remain true. Over. 』
学はイヤホンを外し、前方を歩く市長たちの背中を見つめながら、囁き返した。
「station?……これって、世界のどっかの駅ってことか?」
「日本から英語圏の国は遠い。『駅』の電波が、ここまで届くと思うか?」
「……駅じゃなくて、別の意味かもしれんな。『コース』と言ってたから、海の上の航路かも……」
「何にせよ合流を急がんとな、学」
「分かってる」
学は心の中で毒づいた。
(この地域を安定させるだけで手一杯や……)
学がふと見上げた夜空には、厚い雲が立ち込めており、月は不気味に薄暗く霞んでいた。それでも今日は、火星の光がよく見えた。




