23話(近江八幡)
23話(近江八幡)
曇った空の下でも、理奈だけは妙に鮮やかに見えた。気づけば、学の視線は彼女を追っていた。
長浜市長の尾瀬が用意してくれた船の甲板で、学と彼は話していた。
「湖の南東に明確なトップはいませんが、有力な人物ならいます。私も何度か話をしました」
船は近江八幡の浜に着いた。武装した同行の兵たちを引き連れ、琵琶湖に注ぐ水路で待機する。
少しすると、何隻かの木造の小舟が下ってきた。それに乗り換え、今度は水路を遡上していく。しばらく進むと、江戸時代を思わせる古い街並みが姿を現した。水路は立派な石垣に囲まれており、水は茶色く濁っている。理奈は物珍しそうにカメラを向けた。
「きれいなん撮れた!」
「大和、出迎えがないな」
「こっちの軍事力は分かってるはずやけどな」
何度も石橋をくぐりながら、学は側面に並ぶ古い家々を睨みつけた。どの家も窓を固く閉ざし、人の気配が無い。
やがて船が止まった。
「ここです」
笠で顔を隠した船頭が、低く言った。
船を降り、古風な街並みを歩き出す。
「大和、今日は暑いな」
「そうか?」
静寂が町を支配していた。狭い路地を挟む白壁と、その上にある黒い窓が、まるで自分たちを見下ろし、監視しているかのように感じられる。
その時、理奈が住民の様子をみるため、船頭を伴って脇道へ入っていった。だが、学は、そのことに気づかなかった。
大きな黒い門が行く手を阻むように現れた。古い木板には、力強い文字で『日牟禮八幡宮』(ひむれはちちまんぐう)と刻まれている。
門の左右に佇む仁王像は、荒々しい表情を浮かべていた。
大和が見上げる。
「迫力あるな」
門をくぐると、本殿へと続く石畳が伸びていた。鯉のぼりが、力なく垂れ下がっている。
広場に兵たちを待たせ、学たちは振り返ることもなく、薄暗い境内へと足を踏み入れた。
秋は、朝から様子がおかしい学に、ずっと違和感を抱いていた。
古びた本殿の奥に腰を下ろす。しばらくすると、ぞろぞろと若い男たちが押し寄せるように入ってきた。その中の一人が学の正面に座り、ゆっくりと口を開いた。
「お出迎えもできず、申し訳ありません。榊原です」
「……」
「このあたりは個々が独立してまして。防衛だけで手一杯なんです。本日は友好のためにいらしたと聞いておりますが……」
榊原の視線が、境内に控える兵たちに向けられた。
「その通りです。湖南は荒れていると聞いたため、自衛のために同行させました。これでも本来より最小限に抑えたつもりです」
学の首筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
「これ以上の武器をお持ちとは、恐れ入ります」
学がさりげなく周囲に目を走らせた。男たちは、いつの間にか自分たちを完全に囲むように座り込んでいる。
(……ゴクリ)
思わず唾を飲み込んだ。
「本題に入ります。高島、米原、長浜、敦賀は、これから確実に訪れる石油危機を警戒しています。その局面に至ってなお、近隣で小競り合いを続けられては困るのです。もし強大な勢力が攻めてくれば、共倒れになりかねない」
その時、周囲の男の一人が声を荒らげた。
「誰のおかげでこうなったと思ってるんだ!」
そいつの腰元に目をやった瞬間、学の心臓が跳ね上がった。ピストルが揺れている。
一気に鳥肌が立った。
榊原がその男を鋭く睨みつける。
「やめろ!……非礼をお詫びします。しかし、一方的に『合流しろ』と言われても、はいそうですかと頷くわけにはいかない」
学は目を凝らした。見間違いではない。そこにいる男たち全員が、衣服の隙間にピストルを忍ばせている。
息が詰まりそうになりながら、必死に声を絞り出す。
「ですから……議席を……」
(後ろを振り返りたい……理奈は、理奈はどこにいる?)
「議席を……保証、して……」
大和が怪訝そうに学の顔を覗き込んだ。
声が、うまく出ない。
「ですから、ですから……」
(理奈は……無事なのか?)
背中に大量の冷や汗が流れる。
隣の秋が見た学の瞳は、小刻みに震えていた。
すかさず、大地がその場を補うように口を開いた。
「議席は確実に保証します。また、こちらの人口集中を緩和するため、一万人ほどを我々のコミュニティで引き受ける用意もあります」
大和もそれに続いた。
「安全保障に関しても、我々にお任せください」
榊原がわずかに眉をひそめる。
「ずっと安全だった国の人間は平和ボケをする。我々はそれを無責任だと考えているのですよ」
大和が、上から見下ろすような冷徹な声で言った。
「我々は、戦争を経験しています」
男たちがひそひそと私語を交わし始める。
「こいつらなら、本当に大丈夫なんじゃないか……?」「けどな……」
榊原は、じっと学の様子を観察していた。やがて、真剣な面持ちで告げた。
「……分かりました。またこれからも、対話を続けましょう」
学は秋に背中をさすられながら門を出る。
水路へと戻る道中、理奈が地元の子供を診療している姿が目に入った。それを垣間見た榊原の表情が、わずかに和らぐ。
「医師がいるのですか」
すかさず大和が前に出た。
「はい。我々の優秀な医師です。今後の定期的な巡回診療も可能です」
その時、学の視線がいきなり鋭くなり、理奈の姿に釘付けになった。そして、突然、大声を張り上げた。
「理奈! 帰るぞ!」
理奈は驚いたように、遠くから学の姿を見つめ返した。
榊原に見送られ、浜に停めてあった尾瀬の船に乗り込む。
秋は学を船の端の席に座らせ、そっと薬を手渡した。用件を終えた大和が学のそばを離れ、入れ違いに彼の肩をポンと叩く。
「お前なら、もっと上手くやると思ってた」
「……ごめん。あいつらが、もし敵やったらって……そう考えたら」
学の手のひらは、信じられないほど冷や汗で濡れていた。
離れた場所で、大地と花穗が沈黙したまま琵琶湖の水面を見つめている。
理奈と秋は、学から少し離れた後方で言葉を交わしていた。
「秋ちゃん、なんで学はあんなに怒ってんの?」
「怒ってるんじゃないよ。……あれは、パニック障害に近い状態だと思う」
「そんなはず無いよ。学が……?」
「今になって振り返れば、理奈と合流する前から兆候はあったんだと思う。学、無意識に理奈にだけは隠そうとしてたんじゃないかな」
「そんな……いっつも、伝えてくれへんことばっかり」
二人は、小さく丸まった学の濡れた背中を見つめた。
「学にとって、理奈は憧れなんじゃない?だから……怖いんだよ」
「学は、そんな弱くなんか……。わかんないよ」
理奈の瞳が、かすかに揺れていた。
長浜市に到着し、船を降りる。高島市へ戻るため、車を停めてある駐車場へと歩いた。
学が力なく呟く。
「秋、車、代わってくれ」
秋は自分の腕をさすりながら、静かに頷いた。
「うん。……大地たちと、色々話さなアカンもんな」
「……ありがとう」
大地がハンドルを握る車内は、重苦しい静寂に包まれていた。
窓の外を流れる海津大崎の桜は、それほど美しくは映らなかった。




