22話(長浜、米原、合流)
22話(長浜、米原、合流)
3月14日、学はペーパーバッグを手に理奈の家を訪ねた。インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開く。
「学、どうしたん?」
「これ、お返しの……洋服なんやけど」
手渡された包みを、理奈は白い息を吐きながら開けた。
「これって、サマーニット?」
「うん」
理奈はニヤリと笑って学を見上げた。
「着るにはちょっと早いね」
雪が積もった道を花穗が横目に微笑んで通り過ぎた。
「二人はやっぱり前から付き合ってたんやな」
ずっと真っ白に覆われていた山肌が、少しずつその茶色い素肌を覗かせ始めていた。
高島市役所の会議室。窓外のつららから、絶え間なく水滴が滴り落ちている。
「港のある福井県敦賀市とは、無事に合流することができました」
大地の報告に、学は顔を上げた。
「長かったな、大地。ありがとう」
「あちらは人口が少なすぎて、田んぼも土地も余っている状態です」
「タンカーはあったんか?」
「あります」
一同の顔がパッと明るくなった。
「よし!」「これで石油が手に入るな」と歓声が上がる。
「大和、防衛省の報告を頼む」
学の指名に、大和がむくっと腰を上げ、滋賀の地図を指さした。
「琵琶湖東北の米原市、長浜市とは、昨年末から交流を続けて三ヶ月が経ちます……」
花穗の横にいた官僚が、小声でささやいた。
「花穗さん、長浜も米原も田舎ですよね。どうして合流に三ヶ月もかかっているんですか?」
「高島市を封鎖したから、京阪神からの移民が琵琶湖の南東に集中しちゃってね。地元の人が北の米原や長浜に逃げ込んだんだよ」
「なるほど、だから余計に外部への警戒心が強くなって、合流が遅れているんですね」
大和が水を一口飲み、言葉を継ぐ。
「琵琶湖南東では、移民が集中しすぎたことで、食料が減り、小競り合いが絶えません。個々の地域が独立して、争ってます」
学はペンを回す手を止めた。
「食料が底をつけば、次は高島に牙を向けてくる。春までに策を考えとく」
街角の雪は目に見えて減っていた。学と理奈は並んで歩く。町中のバス停に掲げられた時刻表には、相変わらず一日に二つの時刻しか記されていない。時折、ベビーカーを押す夫婦とすれ違う。
二人は『万楽』と書かれた赤い暖簾をくぐり、中華料理店のカウンター席に座った。学の定位置は、いつも右端だ。
「敦賀海鮮のチャーハン、二つ」
注文を終えると、理奈が切り出した。
「私な、引っ越そうと思ってて……。医者するなら、古賀よりも町中のほうがいいやん?」
「俺もしようと思ってた」
「雪が解けて病院の復旧が始まったら、息つく暇もなくなるし。私は再来週に動くつもり」
「そうなんや」学はうつむいた。
「私は一軒家と、小さいアパートを見つけてさぁ。どっちにしようか迷ってんねん」
学の脳裏に、不意に母親の顔が浮かんだ。きれいに化粧をして、めかしこんだ母の姿。
「俺は……自分で見つけた一軒家に住もうかなって」
理奈はあからさまにムスッとした表情を浮かべた。
学はコップを握りしめ、絞り出すように言った。「……近かったら、いいかもな」
「そうやね」
理奈はたちまち微笑み、チャーハンを口に運んだ。その唇は、瑞々しく潤っていた。学には、中華屋の部屋の温度が冷たいのか温かいのか分からなかった。
会議室の窓からは、琵琶湖の対岸にある一際巨大な山が見える。長浜市にある伊吹山という山らしい。町も高島市の山々も雪の衣を脱いだというのに、その山の山頂だけは頑なに白いままだ。
「定例会議を始めます」
今日からは敦賀市の自由信党員の代表も席を並べている。
大和が自衛隊の迷彩服姿で立ち上がった。
「石油はもって二年や。合流を急いで滋賀を安定させんと、安全保障が成り立たん。物資が底をつけば、他県だって攻めてくるぞ」
秋が全員にお茶を配っていく。花穗は、今日からまた作業着に身を包むようになった。田植えの準備が始まっているらしい。
学が地図の前に立った。
「先日話していた、長浜・米原市との合流の策についてです」
そう言って地図を指し示す。
「策は『安全の保証』です。琵琶湖南東の情勢不安に怯える長浜と米原の、後ろ盾になる」
敦賀市の代表が腕を組み、恐る恐る手を挙げた。
「……しかし、こちらも弾薬が無限にあるわけじゃありません。他所の地域まで守るとなると、いけぇことやの(大ごとだ)」
「湖の南東の人口は多すぎます。安定もしていない。高島と敦賀を合わせても敵わない。だからこそ、長浜・米原と合流すべきなんです」
大和が資料を手に、野太い声を響かせる。
「自衛隊の戦力には、まだある程度の余裕があります」
数豊が眼鏡をかけ直しながら補足した。
「長浜と米原は米どころです。合流すれば、米の生産量は約三倍になります」
数豊が眼鏡をかけるようになったのは、冬の間はずっと勉強してたからだろうと考えを回せた。
「彦根城が琵琶湖の東側を南北に分断している。そこに自衛隊の拠点を置こう」
「異議なし」
会議が終わり、数豊、大和、大地、学の四人は市役所の階段を降りて食堂へ向かった。
看板には『ふきのとう、もうすぐ無くなります』と手書きの文字がある。
「学、こっち!」
数豊が端のテーブルから手を挙げた。大和が白米を平らげる横で、大地は手をつけずに待っていた。
食堂の列に並ぶ一人の女性職員が、学たちのテーブルをじっと見つめている。いくつかテーブルは空いているのに、職員たちは決して学たちの席に近づこうとしない。大臣たちには近づかないという暗黙の了解があった。
「大和、諜報はどうなってる?」
「進めてる。舞鶴とも繋がれそうや」
「穏便にな」
大地が全員にお茶を注ぎながら言った。
「米原と長浜に防衛の件を打診したら、すごく喜んでくれたわ。四月下旬に会談になるかな」
数豊が電卓を叩きながら相槌を打つ。
「順調ですね。でも、石油はあと二年です。学、そっちはどう?」
「北海道と連絡を取ってるけど、相手にしてもらえへん」
大和が拳を握りしめた。
「学、あいつら、何を考えてるんや?」
「まぁ、それも穏便にやるしかない。……大地、病院の復旧が始まったら、理奈のこと手伝ってやって」
大地はいつものように、優しい笑みを浮かべて頷いた。
「学、石油は二年やぞ? 穏便なんて言ってられるか」大和の野太い声が大きくなる。
「分かってるから」学は頭をかき、眉をひそめた。
「ちょっとは休みや、みんな」
優しい声が聞こえて、お盆を持った女性がやってきた。数豊が慌てて席を詰める。
「秋さん、お疲れ様です」
大地がお茶を注いだ。「秋ちゃん、事務の仕事はどう?」
「昼までやから、何とかなってる。夕方からは歯科の勉強漬けやけどね」
秋の目元には、うっすらとクマが浮き出ていた。
「たまに会議の途中で、みんなの雰囲気が暗くなるから心配やわぁ。私の入れるお茶で、ちょっとでもホッとしてくれたらいいんやけど」
秋の笑顔には、まだどこか小さな陰りが混じっているように見えた。
カチャカチャと、周囲から皿と箸の音が響く。遠くの席から他の職員たちの、のどかな会話が聞こえていた。
「菜の花が品薄だって」
「雪も溶けてきたしなぁ。工事にインフラ整備、忙しくなりますね」
「昨日のテレビ、おもっしょかったの(面白かったね)」
四月下旬。市役所前には、黒塗りの高級車と自衛隊の機動戦闘車が列をなしていた。
学はスーツに身を包み、理奈はあのサマーニットの上にテーラードジャケットを綺麗に着こなしている。
「理奈、行こう」
二人は並んで黒塗りの車に乗り込んだ。テレビ局のカメラが一向の姿を捉えている。
『ご覧ください。たった今、高島市の一団が、長浜市・米原市へ向けて出発します!』
迷彩服姿の大和が、戦闘車のハッチから顔を出して周囲を警戒していた。
車は琵琶湖を右手に捉えながら北上する。しばらく走ると、左手の山並みが急に近づいてきた。学が窓を開ける。
「理奈、琵琶湖の方を見てみ」
「え、何?」
その瞬間、世界が淡い桃色に染まった。道路沿いに、延々と続く桜の並木。琵琶湖の湖面に向かって、今を盛りと桜の枝が垂れ下がっている。
「学! すごい……!」
「ここらへんで降りようか」
一団は車を停めた。
「学、来て!」
「理奈、これを見せたかったんや」
二人は並んで歩き、写真を撮り合った。
花穗と秋も並んで桜を見上げていた。
「ここ、海津大崎だって」
「はい、チーズ!」
全員が集まり、琵琶湖と満開の桜を背に、集合写真を残した。
山道を抜けると、視界が一気に開けた。インターチェンジから高速道路に入る。高島市とは比較にならないほど、広大な水田がどこまでも広がっていた。遠くには、高島から見えていたあのひときわ大きな伊吹山がそびえ立っている。
高速を降り、長浜市の町へと入った。
公園に車を停めると、物腰の柔らかい男が、若い衆を連れてお辞儀をしながら歩み寄ってきた。
「どうも、長浜市長の尾瀬です。本日はよろしくお願いします」
高い声だった。長浜の子供たちが、柵越しに自衛隊の戦闘車を珍しそうにじっと眺めている。
「店を開けてありますから、お好きなように回ってくださいね。うちはまだ物々交換ですけどねえ」
尾瀬の高い声がメインストリートに響く。理奈は学の腕にそっと手を添えて歩いた。フレアパンツの裾が、春風にしなやかにたなびいている。
「理奈、今日の服、綺麗やな」
「んー、そうでしょ?」
理奈の弾むような横顔を見て、学の口角が自然と上がった。
商店街に入ると、理奈が声を弾ませた。
「学、これ見て!」
露店に、蒼く輝くガラス細工の皿が並んでいる。
「理奈はどれが好きなん?」
「うーん……これとか、綺麗じゃない?」
理奈は学の目をまっすぐに見つめながら、一枚の皿を持ち上げた。
「ホンマに綺麗やな」
ひと通り回り終え、再び車へ乗り込む。高速を走って米原市に到着した。
少し山を登っていくと、背の低い家々の間を、美しい水路が走っていた。
「ここで降りてください。みなさーん!」
尾瀬が手を挙げる。
「この水路をご覧ください」
木陰のそばに、人の背丈ほどの幅を持つ石造りの水路があった。透き通った水の底で、青々とした水草と、まるで雪の結晶のような白い小さな花が、せせらぎに揺られている。
「梅花藻といいます。天候が安定していないと、なかなか見られないんですよ」
清流は日の光を浴びて銀色にきらめき、心地よい涼運を運んでくる。
「うわあ……きれい!」
理奈が石段を降りて、冷たい水に触れた。彼女の肌に光が反射し、淡く輝いている。
花穗と大地が親しげに話しながら通り過ぎ、その奥では、秋が一人静かにカメラのシャッターを切っていた。
理奈がマイカメラを取り出す。
「学、写真撮って!」
昼過ぎ、一行は彦根城を登った。
天守閣を背に、学は尾瀬とがっちりと握手を交わす。テレビ局の巨大なレンズが、その瞬間を克明に捉えていた。
学はカメラに向けて微笑んだ。
「これからは兄弟として、長浜、米原の皆さんと共に歩んでいきたいと思います」
彦根城の城堀のそばには、重々しい戦闘車がずらりと並んだ。その大砲の銃口は、まっすぐに彦根市、そして雲がかった湖南の空を睨みつけている。
夕暮れ時。長浜の琵琶湖を一望できる旅館へ案内された。
豪勢な宴会場の前には、『祝! 長浜、米原、高島、敦賀、合流』と大きな看板が掲げられている。
着物姿の仲居たちが、次々に料理を運んできた。
学の隣には尾瀬が座っている。給仕をする仲居の中に、ひどく腰の曲がった、高齢の女性が混ざっていた。学は不審に思い、尾瀬の耳元でささやいた。
「……あの方のような成人した方は、生存していないと思っていました」
「ああ、あの人は沖島っていう、琵琶湖で唯一の有人島の人なんですよ。島だから隔離されていて、感染しなかったんでしょうね」
尾瀬の高い声が耳元で跳ねる。
「そうですか……」
「では、失礼」
尾瀬は席を立ち、宴会場のお立ち台へと向かい、マイクを握る。
「えー、この度は湖北と高島市の合流を祝しまして……乾杯!」
「さっさ」と、先ほどの老女が大和のコップにお茶を注ぐ。「どうも」大和が短く返す。
「湖北名物、千三百年の歴史を誇る『朝日豊年太鼓踊り』をお見せしたいと思います!」
尾瀬の呼びかけで、太鼓の音が響き渡る。
「地元の人が多いと、こういう伝統が残るのがいいですね。高島市では、大阪の祭りを再開しましたよ」
宴が夜深くまで進むと、会場はどんちゃん騒ぎの熱気に包まれた。
時間が過ぎた。
理奈が、学の宿泊する部屋のチャイムを押した。
「ピーンポーン」
ガチャリと扉が開く。
「理奈、お疲れ様。もうみんな集まってるよ」
女子たちは全員、色鮮やかな浴衣姿だった。
奥のベッドにいた花穗が、ドアの方を向いて叫ぶ。「理奈ちゃん、こっちこっちー!」
理奈は手を振り返し、学に尋ねた。
「大和さんは?」
「近江今津の地元の連中と集まってるみたいやわ」
数豊が、ベッドの上に置かれたビニール袋をつついた。
「学、何なんこれ」
「敦賀ポテチやで。塩が手に入るようになったから作れたらしい」
「ポテチなんか、一年ぶりやな……」
秋が勢いよく袋を裂いた。「食べよ、食べよ!」
「トランプするなら、手ぇ拭けよー」
全員でババ抜きが始まった。何人かが勝ち抜け、部屋の中がふっと静かになって、学が口を開いた。
「秋か理奈、どっちかに厚労省の医療の仕事を引き受けてほしい」
一瞬、時間が止まった。
理奈が苦笑いを浮かべる。
「……いま言う? 学はほんまに……天国の信太に笑われるで」
花穗と学が一瞬で秋の顔を見た。秋もまた、引きつったような苦笑いを浮かべている。
学は立ち上がり、慌てて両手を合わせた。
「ほんまごめん! 今から、信太御用達の一発芸やります!」
大地がすかさず声を張る。「いいぞー!」
学の、あまりにもぎこちない一発芸を見て、全員がドッと吹き出した。
秋も涙を流して笑っていた。
「学がやっても、なんもおもろないわ」
夜は更けていく。女子三人はベッドに横たわり、ひそひそと恋バナに興じている。男子たちはトランプで賭け事に熱中していた。
「うわー、負けた!」大地が頭を抱える。
「僕の勝ちですね。大地、千円没収」
数豊が不敵に笑う。
後ろで見ていた女子たちが呆れた声を出す。
「男って、ほんまに……」
学が、右手に巻かれた信太の形見の腕時計に目を落とした。
「……もうそろそろ、お開きにしようか」
大地と花穗が、綺麗にシンクロして立ち上がる。「そうしよか」
「ばいばーい」と、それぞれが部屋を去っていく。
学は、扉から出ようとした理奈の腕を掴み、引き留めた。
「理奈、待って」
「なーに?」
理奈は少し上機嫌そうに、髪をいじった。
「明日、俺は湖の南東(湖南)に行く。理奈は高島市に帰れ」
理奈の動きが止まった。「何で?」
「あそこは危ないやろ?」
「でも、私は医者やし。あっちには助けが必要な人がたくさんおるやん」
「けどな……頼むから。あそこには、もう『法』が無いねん。な?」
「そんなに私が大事なら——」
理奈が部屋に入り込んで「バタン」と、扉がしまった。
朝が来た。
ベッドの上には、まだ安らかな息を立てている理奈の寝顔がある。
学は鏡の前に立っていた。
鏡の中に、自分の顔が映る。
いや――母親の顔が映っている。
自分の顔。母親の顔。
自分、母親。自分、母親。
学は、信太の腕時計をはめた右手で、激しく頭を掻きむしった。
もう一度、ベッドの理奈を見る。
気がつけば、自分の左手が不自然に小刻みに震えていた。
(……………………俺は…………同じだ……)
学の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
理奈の横顔は何よりも美しかった。
窓の外の空は、どこまでも低く、どんよりと曇っていた。




