20話(コミュニティ)
20話
「定例会議を始めます」
職員室の窓辺で、カーテンがゆらゆらと揺れている。
数豊が資料を握って立った。
「現時点で、高島市の人口は2500人に達しました」
花穗が眠そうに目を擦る。
「高島市の田んぼは、ほぼ全て刈り終えました」
短い沈黙が流れる。大地がそっと花穗の肩に手を置き、立ち上がった。
「現在、街では使えなくなった家屋の『家焼き(処分)』が始まっています」
学は頭を掻きながら言った。
「大地、石油は使わんといてな。それから大和、高島市を北上して、港がある福井県の敦賀市と合流できるように手を打ってくれ。話し合いでな」
「あぁ」大和は野太い声でそう言うだけだった。
数豊がそろばんを弾く手を止める。
「銀行に残っていた新札を流通させていますから、貨幣制度はなんとか機能し始めています」
誰も顔を上げず、それぞれの机にかじりついている。街の人も増えている。コミュニティを復活させるのには見えない重労働がある。高島一万人計画が始まってからみんな働きずめだった。花穗は泥のついた作業服のまま、信太の空席を横目でじっと見つめていた。
澄み渡るビーチを、理奈と学が並んで歩いている。
見たことのない顔の移住者たちが何人も、泳いだりビーチバレーをしたりして平和に遊んでいた。
反対側から、大地と花穗が歩いてくる。
「そろそろお昼にしようよ」
「学ともちょうどそう話しててん」
「バーベキューだよね!?」
大地と理奈が熱心に準備を始める横で、花穗は疲れたように鼻の付け根を指で押さえていた。その指の爪には、まだ落としきれていない農作業の泥が詰まっている。
学は隣で、ぼんやりと琵琶湖の奥に連なる山々を眺めていた。
「花穗、ごめんな。農業のことも牧畜のことも、全部任せっきりにして……」
「他にできる人が少ないんだから、仕方ないよ……。冬になったら学校を再開して、みんなに農業を教えるね」
「秋の間くらいは、しっかり休んでな」
「秋? ……あぁ、秋ね」
花穗は自分の腕を抱きしめ、ふとうつむいた。
背後の街からは、時折、家屋が焼かれる黒い煙が数本立ち上っていた。
いつしか町には、ぽつぽつと個人商店が並ぶようになってきた。山菜や川魚を売っているらしい。役所の前では米の配給が行われ、静かな列ができている。
職員室で古びた扇風機が、ガタガタと首を回している。大和の席の前には『防衛省』のプレートが置かれていた。
「防衛についてや」
大和の野太い声が響く。
「琵琶湖の北東である長浜市、米原市とは情報交流を始めている。けど、問題は南東部や。不安要素が多い。個々の集落の独立性が強く……」
学は、薄いクマのある目を半開きにしてその報告を聞いていた。花穗は静かに視線を逸らす。みんな疲れ切って、他を気に掛ける余裕はなかった。国の礎を整えると言っても、稲刈りもあった。簡単な話ではなかった。
その時、会議室の扉がゆっくりと開いた。
それに気づいたのは花穗だけだった。一人の女性がそっと忍び込み、学の横にお茶の入った湯呑みを置いて立ち止まった。
「会議は一旦、中止です。夜から再開しましょう。皆さん、まずは休んでください」
半開きだった学の視界を、その女性の顔が横から遮る。学は驚いてパチパチと瞬きをした。
「あぁ……秋か。どうしたん、戻ってきたんか」
「学もみんなも、休みを取らずに働きすぎやで。私もみんなのために何かできることないかと思って、こうして動いてるの」
みんなが安堵のため息をつきながら、ぞろぞろと部屋を出ていく。
扉の前で、花穗が秋を待っていた。
「私は元々、歯科医の1年生やったから。これからは歯医者の勉強始める。医療従事者、まだ足りひんねやろ?」
「うん」
「花穗ちゃん、行こ」
秋と花穗が連れ立って退室していく。
「フーッ……」
学は大きな息を吐き出し、誰もいなくなった会議室の椅子に深く身体を沈めて、泥のように眠りについた。
――夢を見ていた。
私立の、綺麗な学校の前にいる。
周りでは、小学生の子どもたちが親と手を握り合い、張り出された掲示板をじっと見つめている。掲示板の紙がめくられた。数字がずらりと並ぶ。
幼い学は、その掲示板の前で、ポロポロと涙を流して立ち尽くしていた。
場面が変わる。
大きな総合病院の入り口。綺麗に化粧をしてめかし込んだ女性が、見知らぬ医者と親しげにキスを交わしている。それを遠くから見ている。
次の瞬間、学は父親に強く抱きしめられていた。父親は震える声で、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。
「学は悪くないよ。お前は悪くない。悪くないんやで……」
幼い学は、ただ感情を無くしたように立ち尽くしていた。視線の先には、『三浦歯科』と書かれた、古びた小さな一軒家が見えていた。
目が覚めると、頬に冷たい涙が伝っていた。
鼻の付け根を指で押さえる。手のひらが濡れていた。重いため息をつき、腕時計で時間を確認する。
その日の夜、学は保健室に残っていた理奈と一緒に、静かな帰り道を歩いた。
役所近くの街のメインストリートには、いつの間にか色鮮やかな提灯が掲げられている。白と赤の横断幕が秋風に揺れている。
学は法被に身を包み、即席のお立ち台の上に登った。下から市民が見上げている。
「この度は豊作を祝い、こうして無事に『だんじり祭り』を開催できたことを、皆様に深く感謝したいと思います!」自由信党の党首として、このような仕事もするように大和に助言されたのだ。
それを見上げる観客の中で、秋だけは「学には法被が似合っていない」と感じていた。メインストリートの両脇には、信じられないほどの大勢の人だかりができている。
「ピピーーッ!」
鋭い笛の音が響き渡り、威勢のいい掛け声とともにお神輿が練り歩いていく。お腹に響く太鼓の音と人々の歓声が入り混じり、町はかつての賑わいを取り戻したかのように騒がしくなった。
そこには『祝 高島一万人計画達成』と書かれた大きな看板が誇らしげに立っている。
出店では、収穫されたばかりの栗や柿が売られ、凄まじい行列を作っていた。私服の人、寝間着姿の人、浴衣を引っ張り出してきた人――様々な背景を持つ人々が混在する、どこかカオスで、けれど圧倒的に希望に満ちた風景だった。
高島市の防衛ラインは、入り口から少し離れた大津市の『近江舞子』まで拡大されていた。
近江舞子の学校の運動場には機動戦闘車が整然と並び、京阪神から高島市への南側の侵入経路を完全に封鎖している。頑強なバリケードが築かれ、小銃を肩に下げた男たちが鋭い目を光らせていた。他所からやってきた移民は何人もいたが、容赦なく堅田まで引き返させた。
やがて季節が移り変わり、戦闘車が誇る巨大な主砲の先端に、赤とんぼが止まるようになった。町の並木道は鮮やかに色を変え、やがてハラハラと葉を落としていった。
学の自由信党政権は、土地、法律、行政、インフラ、を最低限だけだが整えることができた。




