2話(数豊)
2話(数豊)
学はそれから三日ほど、大阪の街を放浪した。
緊急事態宣言で閉鎖された食料品店を巡り、夜は人の気配がない民家に忍び込んで眠った。
(食料も、そろそろ尽きかけてるな……)
スマホで周辺の店を探し、一軒のコンビニに目をつけた。
(よし。正面の扉が閉まってる。閉鎖された店だ)
開かなくなった自動ドアのガラスを叩き割り、中に入る。いつものように缶詰と水をリュックに詰めていた、その時だった。
――カツカツカツカツ
硬い足音が、瞬く間に近づいてくる。
「うわっ」
「ガシャン」
とっさに物干し竿を突き出し、襲いかかってきた感染者を振り払う。
「なんでいんだよ……!」
感染者は物干し竿にかぶりつき、鉄と歯が激しく擦れ合う嫌な音が至近距離で響いた。カリカリ、という感触が手に伝わる。学は力を振り絞り、そいつを壁へと押し付けた。その刹那、ポケットから包丁を抜き取り、首筋へと突き刺す。
骨に引っかかった刃を力任せに引き抜き、そのまま蹴飛ばした。
一旦外へ飛び出し、物干し竿で奴の足元を払う。幸運なことにバランスを崩した感染者は、コンビニの割れたガラスの破片に自ら突き刺さった。
「ウゥ……、ゥ……」
感染者の枯れたうめき声が漏れる。学のゴム手袋に、赤黒い返り血が飛び散っていた。
奴が完全に動かなくなったのを確認して緊張が解けると、一気に強烈な不快感が襲い、その場に嘔吐した。
「ハァ、ハァ……」
吐き出した息に、胃液の酸っぱい匂いが混じる。
(もっとうまくやらないと、こっちが感染する……)
食料を持てるだけ集め、その夜は近くの見知らぬ民家で過ごした。枕元には常に包丁を置き、布団にくるまって身を潜めるように眠った。
翌朝、家の周囲でかすかな物音を察知した。
二階の窓をそっと開けて外を覗くと、十三歳くらいの男の子が一人、警戒しながら歩いているのが見えた。
考えるより先に、声がこぼれていた。
「おうい」
男の子はびくりと肩を跳ね上がらせ、こちらを見上げて言った。
「ぼ、僕は噛まれてませんよ!」
「鍵開けるから、待ってろ」
学は包丁を握りしめ、一階に降りて玄関の鍵を開けた。
「早く入れ、鍵閉めろ!」
「はい……」
互いに服をめくり、身体に噛まれた痕がないかを厳重にチェックし合う。ようやく、学は包丁を床に置いた。
「名前は?」
「数豊です」
「俺は学」
「……生きてるな」
「ええ」
気まずくも、どこか安堵の混じった温かい空気が二人の間に流れる。
学はスマホのマップを開いた。
「どこから来たん?」
「大東市です。ここって……?」
「門真市やで。道中、生存者は見てないんか」
「一回見ましたけど、もう手遅れでした……」
「そうか。俺も生存者に会ったんは初めてや。大東市は、感染者どれくらいおる?」
「ゾンビのことですか?」
「ああ。多いん?」
「多いです。けど、動きは遅いし……なんか、共食いばっかりしてます」
「共食いか……。飯を探す時はどうしてたん?」
「ずっと逃げっぱなしで……。あの……お腹空いてて……」
数豊が申し訳なさそうにお腹をさすった。
「飯、作るわ」
残っていた食料で簡単な食事を用意してやった。
「明日はここを出ようと思ってるけど……どうする?」
数豊は答えず、ただ必死に缶詰の中身を貪っている。
「この家、ガス給湯が生きてるからお湯使えるで。風呂、入りや」
「はい。ありがとうございます……」
明日の移動の準備を一段落させ、眠りについた頃、隣から微かなすすり泣きが聞こえてきた。数豊が寝たまま涙を流している。
「母さん……」
小さな、消え入りそうな呟きだった。年齢の割にどこか大人びた喋り方をする理由が、学には痛いほど分かった。学は何も言わず、暗い天井を見つめ続けた。
それから二、三日、二人は家屋を転々としながら大阪の街を歩き続けた。
ある時、数豊が口を開いた。
「もっと食料がいりますよね」
「うん。明日は学校を目指そう。防災倉庫があるし、敷地が塀で囲まれてるから安全や」
翌朝、二人は守口市に入り、小学校を目指した。
学が先頭に立って歩く。
「後ろは任せる」
「はい」
京阪神の大都市圏のただ中、遮るもののない広大な土地など存在しない。密集した住宅街の大通りを、二人は進む。
沿道に並ぶ家の窓には、時折ゾンビの影が佇んでいた。窓を開けるという概念すら消え失せたらしい。真夏の暑い気温の中、ひどく冷たく感じた。
「学さん、右後ろ。一匹います」
「右前にもおるな。走るぞ!」
開けた公園まで一気に駆け抜け、スマホのマップで現在地を確認し、再び歩き出す。
「スマホって、いつか使えなくならないんですか?」
「うん。電気が完全に止まったら使えへんな。でも大丈夫やで、いざとなったらマップなんかいらんから」
学は頭を掻きながら、安心させるように言った。
都市の中心部にいるというのに、昼間の街は車の音一つなく、不気味な静寂に包まれている。アスファルトとコンクリートに囲まれた世界で、カラスの鳴き声だけがいびつに響いていた。時折、建物に突っ込んだ車が激しく炎を上げているのが見えた。
目的地の小学校に到着すると、二人は校門をよじ登って敷地内へ侵入した。
「数豊、手ぇ貸せ」
「ありがとう……。ここ、閉校してるみたいですけど……」
「うん。油断はせんとこな」
校舎からできるだけ距離を取りながら、職員室へと向かう。外側から職員室の窓ガラスを叩き割り、中に手を伸ばして鍵を開けた。
(泥棒や……)
「職員室の鍵、閉まってますね」
中は薄暗く、すぐには入れそうにない。
「俺が外を見張るから、数豊、中で防災倉庫の鍵を見つけて」
太陽の光だけが唯一の救いであるこの状況で、薄暗い部屋の佇まいは数豊の恐怖心を煽った。誰も使わなくなった校庭には、ただ蝉の鳴き声だけが虚しく響き、寂しさを際立たせる。
しばらくして、数豊が戻ってきた。
「鍵、あったよ! あと、これも!」
数豊の小さな身体が、大きな『さすまた』を必死に担いでいた。
「でかした!」
開けた運動場を横切り、敷地隅にある防災倉庫の錆びついた鍵穴に鍵を差し込む。
「ガチャ……」
扉を開けた瞬間、数豊の表情がぱっと明るくなった。
「うわあ……!」
そこには毛布、乾パン、保存水、アルファ米など、二人では抱えきれないほどの食料が眠っていた。
「何日分あるんやろう」
数豊が初めて見せた無邪気な笑顔に、学も嬉しくなって笑い返した。
「二週間は確実に持つな」
学は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
(もう、一人じゃない)
校庭の水道で汚れを洗い流し、倉庫の中へと戻った。夕方、職員室から拝借してきたカセットコンロを使い、非常食の米を調理する。
(温かい飯なんて、二週間ぶりや……)
味気ない非常食のはずだったが、張り詰めた日々を過ごす二人にとっては、どんなご馳走よりも格別だった。
校門の外では、相変わらず数匹のゾンビが共食いを続けている。
「明日は薬局に行くべきやな。ゴム手袋とか歯磨き粉とか、生活雑貨が欲しい」
「……」
少しの沈黙のあと、数豊が言った。
「ついていきます」
「ごめんな……」
翌朝、事前に調べておいたドラッグストアへと向かった。街は死に絶えているのに、街路樹の蝉たちだけは、変わらずに命を謳歌している。
「見えました」
「周りを確認しろ。裏口も見るぞ」
「はい」
周囲の安全を確認し、店舗正面のガラスを叩き割る。
「取るもの覚えてるな? 耳澄ませとけよ」
学の首元には、鉄のホイッスルが鈍く光っていた。
「うん」
数豊は、懐中電灯の細い光だけを頼りに、薄暗い店内の奥へと足を踏み入れた。入り口の光が遠ざかるにつれ、闇が濃くなる。
(突然ゾンビが来て、僕だけ置いていかれたらどうしよう……)
そんな不安を打ち消すように、二人でリストアップした生活雑貨を急いでリュックに詰め込んでいく。ゴム手袋、電池、歯磨き粉――。
――ピーーーーッ!
突然、鋭い笛の音が店内に響き渡った。
「ハッ……!」
数豊は荷物を抱え、一目散に入り口へと走った。視界が開け、外の光が見えた時、学がさすまたで必死にゾンビを抑え込んでいる姿が目に飛び込んできた。数豊を先に逃がすため、学が囮になって引き受けていたのだ。
「はよ出ろ、数豊!」
「出た、出ました、学さん!」
数豊の返事を聞いた瞬間、学は全力を込め、ゾンビの首をさすまたで近くのフェンスへと押し付けた。
「数豊、見るな! 周りを見張っとけ!」
「コーッ……、クゥーッ……」
ゾンビが喘ぐような、不気味な音を立てて抵抗する。学は歯を食いしばり、体重をかけてさすまたを押し込み続けた。
やがて、ゾンビが口から泡を吹き、完全に動きを止めた。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
静まり返った空間に、自分の激しい鼓動だけが響く。
「学さん、怪我はない!?」
「……うん。こっち見んな。こんなん見たらあかん。帰ろ」
死体をその場に残し、二人は急ぎ足で学校への帰路についた。
「全部取れたか?」
「うん。ありがとう」
その夜、倉庫の中で手に入れたお菓子と飯をつまんでいる時、学が静かに切り出した。
「ちょっと考えたんやけどさ」
「うん?」
「もっと強力な武器がいる。今の包丁とさすまただけじゃ、これ以上は無理がある」
「警察の……ピストルとか?」
「そう。明日は交番に行ってみようと思う。ただ、危険や」
「……怖いけど、ついていくわ」
数豊はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。その真剣な眼差しを見て、学は心のどこかで救われるような気持ちになった。
翌朝から昼にかけて、二人は薬局で調達してきたゴムやビニール、布を使って、手製の『感染防護服』を作り上げた。ペットボトルを加工して空気を蓄え、口元に固定する。手先から足先まで隙間が出ないよう布をきつく縫い合わせ、万が一の時にすぐ脱ぎ捨てられるよう、背中側だけを開けた仕様にした。
昼過ぎ、その防護服を背負い、二人は交番へと向かった。
大通りの外れに、目的の交番が見えてきた。
近づいた学は「やっぱりか……」と顔をしかめた。
交番のガラス越しに、目が濁り、干からびた警察官の死骸が横たわっているのが見えた。「押せば開く」という簡単な構造のドアすら開けられず、閉じ込められたまま息絶えたようだった。
数豊は即座に手製の防護服を身にまとった。
「数豊、中ではできるだけ息はするなよ」
「うん」
数豊は恐る恐る交番のドアを押し開け、完全に死んでいることを確認した。流れるような動作で帯革から拳銃を奪い取り、すぐに外へと飛び出す。
「プハァッ! ハァ、ハァ……!」
交番から十分に離れたところで防護服を脱ぎ捨て、荒い息を吐く数豊に、学が注意を促した。
「ピストルにはまだ素手で触るな。消毒する」
数豊の身体と、手に入れた拳銃に念入りにアルコールを吹き付ける。
「よし、帰ろう」
「……なあ学。あの警官、死んでたよな。ゾンビって、死ぬんやな」
「ああ。ゾンビも食べ物がないと、飢え死にするってことやな」
(いつか、あいつらは全滅する。それだけで、希望はある――)
数豊の声が、少し明るさを取り戻した。
「やっぱり学校の外は落ち着かんな。早く帰って飯にしよう」
夕方。死に絶えた街が、燃えるような赤に染まっていく。
それは、学校への帰り道の途中だった。
唐突に、学が足を止めた。
「……聞こえたか?」
「え? 何が?」
「こっちや!」
学が弾かれたように走り出す。その直後、遠くから切迫した悲鳴が響き渡った。
「逃げろ――!!」
学と数豊は一瞬だけ顔を見合わせ、すぐさまその声の方向へと向かって地を蹴った。




