1話(出発)
Pサピエンス
本作はシナリオに近いものです。急ぎ足になる部分もありますがご理解ください。漫画化したいできたらこれ以上の喜びはありません。
「少子化は止められない。もはや国民一人ひとりの幸福を追求することしかできないんですよ」
「子供につけを払わせるのか? このままじゃ国が沈んでしまう」
「だいたい、これは大衆主義の問題でしょ。明日のことしか考えられない民衆が政治をするなんて……」
老人ホームのテレビから流れる憂鬱な声を、学はぼんやりと聞いていた。
「学、お前何してんねん。こっち手伝えよ」
眠った老人の真ん前で流れるニュースを、じっくり眺める一瞬すら学には与えられなかった。
「人手不足やねんぞ」
上司の小声が降ってくる。背後でまた、テレビの音が響いた。
「新札のデザインが完成し、地方の銀行に供給されています。再来月から流通するとのことです」
誰かが言う。
――このままで人類は存続し、進化し続けられるか?
――人類は、自分たちが作った文明に飲み込まれている。
――種としての限界なんじゃないだろうか……。
夕暮れ時、駅前の大型ビジョンにニュースが映し出されていた。
「先々週から、世界で新種のインフルエンザウイルスが急拡大しています」
帰宅中の人々が足を止め、画面を見上げる。
「すでに死者は10万人にものぼります。感染力が非常に強く、現在調査中です。――次のニュースです。大阪府内の市長が建設事業を巡り、賄賂を受け取っていたことが分かり……」
人々はニュースが終わる前に、何事もなかったかのように歩きはじめた。
学もまた、帰路につく。
『三浦歯科』という、明かりの消えた看板が見えた。その下で家の鍵を開ける。
「おかえり。晩飯できてるぞ」
「いらん」
「うちは金ある方やし、大学の金ぐらい払えるぞ。バイトなんかせんでも……」
か細い父親の声が聞こえた。
「払える分は自分で払うから」
学はリビングを通らず、自分の部屋に入った。
「何で頼らんねん……」
閉め切ったドアの向こう、父親の小さな呟きは、もう学の耳には届かなかった。
歯を磨こうと洗面台に向かい、二つ並んだ歯ブラシの一つを手に取ったとき、父親が見ているテレビの音が聞こえてきた。
「世界最大級の製薬会社が、ワクチンの製造に成功しました」
ニュースを確かめようと居間に近づいた学の目に、ぽつんと置かれたスーツケースが留まった。
「旅行?」
「来週な。三日間」
男二人の会話は、いつも通り味気ない。
大学の食堂。学は一人で昼飯を食べていた。
(機械工学のレポート、どうしよかな……)
近くで、誰かがイヤホンをつけずにスマホでニュースを見ている。不快な音が耳障りだった。
「WHOは新たな計画を発表しました。世界中の政府と協力し、一週間で全人類にワクチン接種を行う――通称『世界一週間計画』です。七月一日に実行されるとのことです」
画面の中のコメンテーターが指摘する。
「一週間という過密日程では、離島の住民や先住民の部族など、どうしても行き届かない人々が出てくるでしょうね」
だが、計画は強行され、そして成功した。
地域の診療所では流れ作業のように、次から次へとワクチンが打たれていった。もちろん、島や部族といった世界の末端にいる人々は取り残されたが、大都市の人間は九割以上が接種を完了した。
七月の、少し蒸し暑い朝だった。
学は、激しい蝉の鳴き声と、人生で経験したことのないほどの割り切るような頭痛で目を覚ました。
「ウゥッ、クッソ痛いわ……」
壁に寄りかかりながらなんとか台所まで這っていき、水を飲み干す。氷嚢を頭に乗せたが、ものの数分で溶けきるほどの熱があった。
父親は予定通り旅行に出かけたようだった。だが、机の上に抗うつ剤のシートが置き忘れてある。
学はそれをしばらく見つめたあと、下を向いて呟いた。
「こんなもん、忘れんなや……」
父が薬を服用しているなんて、今の今まで知らなかった。同時に、母のことを思い出す。父は長期間、薬を飲んでいたはずだ。父はそれを学に見せまいと、ずっと隠していたのだろう。
昔の、父との思い出が脳裏をよぎる。
『学は車が好きやな』
『学はな、将来世界一速い車つくんねん』
それは優しくも、今の学には少し冷たく感じられる記憶だった。
スマホを取り出し、「最近体調いける?」とだけメールを送った。味気ない文面だが、薬の存在に気づいたことを伏せたかった。
頭をねじ切られるような痛みに耐えかね、近くのコンビニへ頭痛薬を買いに行くことにした。
だが、コンビニは閉まっていた。それどころか、街を行き交う人々がみな、一様に頭を押さえてうめいている。
(何や、この不気味さは……)
恐怖を覚えた学は家に引き返し、ベッドに横たわってニュースを開いた。
「新型ウイルスのワクチン接種後、激しい頭痛や高熱を訴えるケースが世界中で多発しています。重症化すると脳機能に障害をきたし、自我が薄れるとの報告もありますが、詳しい原因は分かっていません」
アナウンサーのトーンからは、明らかな動揺が伝わってきた。
「政府は緊急事態宣言を発令し、各店舗に休業を呼びかけて――」
ドサッ、という重い音が響いた。画面の画角が急に天井を向く。
「大丈夫ですか!?」
スタッフの怒号が遠のいていく。学はスマホを消し、意識を失うように眠りに落ちた。
家から出ようにも、頭痛と吐き気で身動きが取れない。かろうじて食事は摂ったが、洗い物をする気力などなく、台所のシンクには四日も五日も食器が溜まり続けた。
ある朝、目が覚めると、少しだけ頭が軽くなっていた。
父からの返信は、まだない。
鏡の前に立つと、頬骨が浮き出るほどに痩せこけ、目の下には酷いクマが刻まれていた。
(何か、食うものがいる……)
食料を求め、再びコンビニへと向かう。
少し歩くと、人の姿が見えた。だが、歩いているというよりは、壁にもたれかかってかろうじて立っている状態だった。背を向けているその姿に不気味さを覚え、学は少し離れた場所から声をかけた。
「大丈夫ですか」
声に反応し、その人影がゆっくりとこちらを振り向く。
横顔が見えた瞬間、学は息を呑んだ。
ずっと壁を擦って歩いていたのか、顔面には生々しい切り傷が走っている。目のクマは「どす黒い」としか表現できない色をしていた。破れた服の隙間からは、尋常ではないほど痩せ細った腕が覗く。
思わず一歩後退りしたとき、かすかな声が漏れた。
「……ご……はん……」
そいつの濁った眼球が、まっすぐに学を突き刺した。
次の瞬間、弾かれたような速度で突進し、手を伸ばしてきた。とっさに体をひねって避けたが、本能が警鐘を鳴らしていた。
(これは、人間じゃない!)
痩せ細った体に鞭を打ち、死に物狂いで走った。肺が焼けつくように痛み、立ちくらみがする。一歩踏み出すたびに足の関節が悲鳴を上げた。
ある程度距離を取ると、そいつは走るのをやめ、またゆっくりと壁を伝って歩き始めた。学は喉の奥が燃えるような痛みに耐えながら、一歩一歩を確実に行き、家へと逃げ帰った。
玄関に入るなり即座に鍵を閉め、冷蔵庫へ飛びつく。
(ろくなもんがない……)
台所にへたり込んだまま、冷凍室にあったカチコチの冷凍野菜をボリボリと貪った。ネットニュースを見ると、自我を失った人間が他者を襲う動画がいくつか上がっていたが、再生回数が異常に少ない。
強烈な不快感に襲われながらも、咀嚼する手は止まらない。野菜を消化し終える頃には、解凍しかけていた肉もふやけたまま、冷凍室が空になるまで食べ尽くしてしまった。
「ハァ、ハァ……」
(これから、どうしたらいいんだよ……)
食欲はあるのに、胃の奥からは猛烈な吐き気がせり上がってくる。それでも胃袋へ詰め込めるだけ詰め込んだ。最後の肉片を飲み込んだとき、一筋の涙が頬を伝った。
涙を流したことで妙な安心感が訪れ、そのまま深い眠りに落ちた。
目が覚めると、窓を透過した西日が学の額を刺していた。
夕方、彼はもう一度コンビニへ行く決意を固めた。冷凍庫にはもう、野菜と肉が数切れしか残っていない。
(行かなきゃ、死ぬ)
家の中にあった物干し竿と包丁を手に取り、リュックを背負う。
家から遠ざかるほど、比例して恐怖が増していく。死角から突然奴らが現れるのではないか、という不安が拭えない。ある民家の窓に、人影が立っているのが見えた。だが、その表情に人間らしさは微塵もなく、ただ虚無の目で学をじっと見つめていた。
コンビニに到着したが、一人で入るのが恐ろしかった。学は意を決し、割れたガラスの隙間から一目散に店内へ侵入した。冷凍食品はすでに溶けきって異臭を放っていたため、缶詰とお菓子、そして生ぬるくなった飲料水を急いでリュックに詰め込む。
帰ろうと窓から這い出ようとした、その時だった。
「ゴトッ……」
店内の奥で、重い音が響いた。
背筋が一瞬で凍りつき、身体が硬直する。声すら出ない。
後ろを振り返る余裕などなかった。ただひたすらに、前だけを向いて走り続けた。あそこに奴らがいたのかどうか、もはや確かめる術はなかった。
家に辿り着いたとき、初めて全身から滝のような汗が流れていることに気づいた。
(もう、外には出たくない……)
何度も鍵がかかっているかを確認する。
(これで四日は生きられる。でも、こんなことをずっと続けるのか? 苦しい。誰か、誰か一緒にいてくれ……)
玄関に座り込み、ただ震えるしかなかった。パックの白米を温め、賞味期限ギリギリの惣菜と共に口に運んだ。
次の日も、父からの返信はなかった。
何か武器になるものはないかと家中をひっくり返していると、一通の手紙が見つかった。それは、母親に宛てた、父からの手紙だった。
『元気ですか? 学に会ってやってほしいです。過去の記憶がなくなることはありません。しかし、あの子はもう大人なので、あなたに対して嫌悪感を示すことはないと考えます。あれ以来、学の笑顔はめったに見ません。あの子には、過去から解放されて生きてほしいです。どうかお願いします』
学は涙を抑えられなかった。
「父さんも、笑ってなかったやんけ……。……ありがとう」
拭っても、拭っても、涙は溢れ続けた。震える声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「父さん、行くよ。俺、生きるよ」
あくる日、学は玄関に立った。
「行ってきます」




