12話(新たな故郷)
12話(新たな故郷)
早朝、空気を吸い込みながら支度を終え、車に乗り込んだ。琵琶湖沿いの道を、三台の車が列をなして進む。運転する信太の横で、学は助手席でノートを開いていた。
高島市へのルートは、琵琶湖沿いの一般道路と、湖西線の線路だけが唯一の入り口だ。
「あの山を越えたら高島市や。琵琶湖沿いを走れば、すぐに越えられる」
山の向こうには、夏の訪れを告げる巨大な積乱雲が湧き上がっていた。
途中、琵琶湖の中にぽつんと佇む大鳥居(白髭神社)が見え、車を止めてみんなで旅の安全を参拝した。
しばらく走ると、ついに町が見えてきた。
「あれが近江高島の駅か」
山のすぐ際にある静かな駅だった。車を進めるにつれ、視界が一気に開けていく。だだっ広い辺り一面の田んぼには、青々とした稲が太陽の光を浴びて輝いていた。みんなが車の窓に張り付き、その豊かな緑を眺めた。
安曇川駅の周辺には、それなりの規模の街並みが残っていた。安曇川に架かる大きな橋を渡り、左折して川沿いに上流へと向かう。いくつかのこじんまりとした集落を抜けると、次第に山が目前に迫ってきた。
ふと気づくと、アスファルトの道路が赤茶色に錆びたような色をしている。
「これ、冬の雪を溶かすための消雪パイプから出た、鉄分の色らしいで」
理奈が知識を披露する。
学が目を丸くした。
「なんで知ってるん?」
「スキーやってたからね」
右手には青い田んぼと山、左手には雄大な安曇川の流れ。数分ほど田園風景を走ると、昭和の雰囲気を色濃く残す、古びた集落へ辿り着いた。町というよりは、完全に「村」の規模だ。
「信太、ここを真っ直ぐ行くと学校があるはずや」
白い小さな校舎の前に、バスを停めた。
「みんな、安全を確認するまで車の中におって」
学と信太が武器を手に、校内へ足を踏み入れる。
「学、ここ少し前に廃校になったらしい」
「過疎化の進んだ田舎なら、よくあることやな」
地域のコミュニティセンターとして定期的に使われていたようで、校舎の中は驚くほど綺麗だった。安全を確認し、みんなを呼び寄せる。
「理奈、勝手に学校から出ないようにしてな。いくらゾンビが減ったとはいえ、油断は禁物やから」
「うん、わかった。ありがとう」
「学!」
校舎の奥から信太の呼ぶ声がした。「ここ、下古賀って地区や!」
「よし、まずは今後の会議やな」
子どもたちは安全な体育館へ移動させた。すぐにバレーやバスケを始める賑やかな音が響き渡る。
「みなと! パス、パス!」という三月の楽しそうな声を聞きながら、学は体育館の隅に年長組を集めた。
「まずはこの村の安全を確保したい。そのために、『家焼き』をやる」
理奈が怪訝そうな顔をした。「家焼き……って何ですか?」
「パンデミックの発生時、家の中でゾンビ化してそのまま死んだ人がたくさんいる。死体がある家は、感染予防と安全のために徹底的に燃やす。信太、頼めるか?」
「おう、任せとけ。学はどうする?」
「俺は、川の向こうにあるらしい牧場を、数と一緒に見に行ってくる」
信太がパンと手を叩いて立ち上がった。
「よし、やるか!」
信太が家焼きを開始する前に、学も立ち会った。
「全員、黙祷」
信太は子どもたちをあらかじめ体育館の奥に入れ、窓を閉め切らせた。
やがて、村のあちこちから黒い煙が立ち上り始める。
「水、用意できてるな!そこ、火に近づきすぎるなよ!」
信太の声が響く。子どもたちは体育館のガラス窓越しに、立ち上る黒煙を見つめていた。風に乗って、木が焦げる匂いが漂ってくる。そしてその中には、肉が焼けるような不快な匂いも混じっていた。
数豊と学は軽トラを走らせた。
「学、ほんまに広い土地やな。見渡す限り山と田んぼばっかりや」
「ずっと地図の上だけで見てたから、歩きでも何とかなると思ってたけど……実際に来るとスケールが違うな」
錆びかけた小さな橋を渡ると、田んぼの端に巨大な牧場の施設が見えてきた。
「学、パンデミックからもう時間が経ってるし、家畜なんて生き残ってないんちゃう?」
「……俺もそう思う。けど、一応な」
軽トラを停め、恐る恐る敷地内へ近づいた。
そして、二人は言葉を失った。
牛たちが、のんびりと尻尾をゆらゆらと揺らしていたのだ。ほとんどが少し痩せ気味だが青々とした草を貪っている。
「え……?」
呆然とする学の横で、数豊がパッと表情を明るくして走り出した。
「すみませーん!誰かいませんかー!」
事務所らしき建物のドアが開き、中から作業服を着た一人の女性が、水が入ったバケツを持って歩いてきた。
「あなたたち、誰?」
少し焼けて茶色い女性だった。
「あ、今日、下古賀の学校に来た者なんですけど……」
女性はそっけなく、しかしどこか慣れた様子でバケツを運びながら横切った。
「そろそろ、誰かしら流れてくると思ってたよ」
「あの、関西の方じゃないんですか?」
「おじいちゃんの実家に帰省してたら、この大騒ぎになって。ね?」
学が驚いて尋ねる。「牧畜の経験があるんですか?」
「一応、農業高校だからね」
女性はバシャーンとバケツの水を地面に流した。
「他に生存者は?」
「私のほかに、二人。上古賀の集落に暮らしてるよ。安曇川をもう少し下れば、地元の若い子たちもグループを作ってるみたいだね」
「そうですか……よかった。もしよければ、今日の夜、一緒にご飯でもどうですか?うちの仲間たちも喜びます」
女性は足を止め、学の方をじっと見つめた。その顔に、少しだけ優しい笑みが浮かぶ。
「……考えとく」
軽トラで周辺を軽く探索した後、二人は下古賀の学校へ戻った。村の数軒の家からは、まだくすぶる煙が上がっている。
「どうやった?」待ち構えていた信太が駆け寄る。
「信太! 大収穫や。牧場に、動物の世話ができる人がいた!」
「マジで!? よっしゃ!」
「今日の夜飯に、その人たち三人を誘った。あきー!」
学が遠くで作業していた秋を呼ぶ。秋が手を振り返した。「どうしたーん?」
「夜飯、15人分な!」
秋は一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑った。「はーい!よかったなー!」
「信太、家焼きの進捗は?」
「明日には終わるかな」
「死体がある家を処理するときは、なるべく息吸うなよ」
「わかってるって」
学校の職員室では、理奈がぽつんと椅子に座って、一冊の本を真剣に読んでいた。学が静かに近づき、声をかける。
「何してるん、理奈」
理奈はハッと振り向き、少しはにかむように微笑んだ。
「ん?私も、何か手伝える仕事がないかなと思って」
彼女が読んでいたのは、応急処置や保健に関する分厚い専門書だった。
「これ、読んでわかるん?」
「一応……医学部の1年生だったから」
「そう、か……」
学は暗い顔でうつむいた。
「学さん?どうしたん?」
「いや……良かったなと思って」
学は苦笑いしてみせた。
夕方、ガタガタと音を立てて、古く錆びついた軽トラが学校の校庭に滑り込んできた。
「おーい!」と信太が手を振る。運転席には昼間の焼けた女性が乗っており、荷台からは地元の男の子が、割れないように大切そうに卵の詰まったパックを抱えて降りてきた。
「卵、持ってきたよ」
「ありがとうございます!車はあっちに停めてください」
三人を受け入れ、体育館へと案内した。
体育館の中央に、これまで使ったことのないような大きな鍋が、理奈と秋の手によって運ばれてきた。
学が目を輝かせて指をさす。
「秋、これ何が入ってるん?」
「開けてからのお楽しみ!」
全員が大きな円になって座ると、理奈がそっと大鍋の蓋を開けた。一気に真っ白な湯気が立ち上り、出汁のいい匂いとともに、ふわふわの「卵とじスープ」が姿を現した。
秋が子どもたちに向かって声をかける。
「これはね、この人たちが持ってきてくれた、貴重な卵で作ったスープです!食べるときは、なんて言うの?」
「「「ありがとうございまーす!」」」
子どもたちの元気な声を聞いて、女性は張り詰めていた表情を和らげ、ホッとしたように息を吐いた。
「私は花穗です。高校3年です」
女性が自己紹介すると、学はスープの器を置いて尋ねた。
「花穗さんは、農業全般ができるんですか?」
「学校で一通りは学んでるよ」
その言葉に、その場にいた全員の顔に安堵の笑みが広がった。理奈が目を丸くして尋ねる。
「上古賀での暮らしはどうしてるの?」
「死体がない綺麗な家を選んで、三人で住んでる。たまに町まで下りて、缶詰とかの食料を集めたりしてね」
「へぇ……」
「こっちは、家を焼いてるんだね」
信太がすかさずノートを広げた。
「この下古賀には22軒の家があって、そのうち6軒を焼く予定です。村の周りに柵さえ立てれば、この村は完全に安全圏になりますよ」
花穗はメンバーたちの顔を見渡し、少し考えてから言った。
「……私たちも、こっちに一緒に住んだ方がいいかな、って思って」
学が満面の笑みで答えた。「歓迎します!」
食事の後は、ちょっとした歓迎会で盛り上がった。
信太が体育館の即席のステージに立ち、「今から一発芸しまーす!」と叫んで爆笑を誘う。
夜が更け、子どもたちが眠りについた後、職員室で再び年長組の会議が開かれた。学はチョークを握り、黒板に向かう。
「やるべきことを箇条書きにしていく。まず、一番最初は『水力発電所』の復旧。明日、俺と数で行ってくる」
(本当に、俺たちだけでできるんかな……)
ふと、学の声のトーンが不安げに下がった。それを察した信太が、力強く口を開く。
「俺は、この学校の横にある山に登るわ」
「山を登って、どうするん?」
「この山の上に、航空自衛隊の饗庭野分屯基地がある。そこから使える兵器や物資を、この運動場に集めてくる。他にやっとくことは?」
「ハイハイ!」
信太の頼もしい言葉に触発され、みんなが一斉に手を挙げた。
「じゃあ……理奈!」
「この村を囲う柵の資材集めと設計!」
「よし! 次は?」
そんな熱いやり取りを、花穗は少し離れた席から、嬉しそうに目を細めて眺めていた。
その夜は、体育館に全員で布団を並べて川の字になって寝た。開け放たれた窓からは、夏の虫たちの賑やかな大合唱が聞こえていた。
翌朝、学がリュックにあれこれと工具を詰め込んでいると、背中をツンツンと突つかれた。振り向くと、理奈が防犯用の「さすまた」を握りしめて立っていた。
「どうしたん、理奈」
「私も理系だし、発電所の復旧、ついていこうかなって」
「村の外に出るんやで? 危険やろ……」
理奈は少し上目遣いで学を見た。
「守ってくれるんでしょ?」
「それは、まぁ……。でも、食料の集計の仕事は?」
「もう終わらせたよ」
「……わかったよ」学は眉をひそめて頭をかいた。
校門の前では、信太が基地へ向かうメンバーを集めていた。
「学ー!そっちの赤いワゴン車使ってくれ!俺らは軽トラで行くから!」
「もう行く準備できたんか、気をつけろよ!」
学は助手席に回り、「理奈、運転頼む」とキーを渡した。
赤いワゴン車が、安曇川のせせらぎに沿って山道を登っていく。窓の外を、放置されたビニールハウスや静まり返った民家が通り過ぎていく。しばらく行くと、川のほとりに美しいキャンプ場が見えてきた。
「ねぇ学、今度みんなでここに遊びに来ようよ」
「ここが完全に落ち着いたら、みんなで来よう」
ものの数分で、景色は深い森へと変わった。車を停めてドアを閉めると、「バタン」という鈍い音に驚き、鳥たちが一斉に羽ばたいていった。
「ここ?」
「うん。『荒川発電所』。一年も放置されたら、道が木々で埋もれてまいそうやな。理奈は車で待ってて」
学が先行して見回りを行い、安全を確認してから理奈を呼び寄せた。
管理棟の指令室に足を踏み入れる。ずらりと並んだ制御盤には、専門用語の書かれたボタンやスイッチがびっしりと並んでいた。何が何だかさっぱりわからない。
(やっぱり、理奈に来てもらって正解やったな……)
「理奈、これ、わかる?」
「うーん……一つ一つ、ボタンの意味を調べていこう。こういうときは、地道にやるのが一番だよ」
二人は冷たい床に直接座り込み、ノートを開いてメモを取り始めた。文字はみるみるうちにページを埋めていく。
「ノート、もっと持ってくればよかったな」
一つのノートを二人でのぞき込むため、自然と距離が近くなる。文字を書くスペースがギリギリになり、お互いの鉛筆を持つ手が何度もコツンとぶつかった。そのたびに、少し気恥ずかしい空気が流れる。
数時間後、ようやく二人は全体の仕組みを把握した。
「このボタンが出力の……」
理奈が広げた配線図を、学がじっと見つめる。
「これがプラグで……そうか! そもそもタービンが回ってないんだ」
「水門を開けるスイッチなら、さっき押したよ?」
「おかしいな。ちょっと見に行こう」
外に出て水門を確認するが、頑丈な鉄の門は閉まったままだ。
「なんでやろ……」学は腕を組んで観察する。
「あ、理奈、わかった。非常用電源の回路が、ここに回ってきてないんだ」
「じゃあ、もしかして……」
「手動で開けるしかない」
水門の横にある、錆びついた大きな丸ペダル。学が力を込めて回そうとするが、ピクリとも動かない。
「学、私も手伝う!」
二人はペダルに手を重ね、全力を込めた。
「おらぁ……!」
「もう一回! せーのっ!」
「おりゃあーー!」
『キィィィィン……』と鈍い金属音が響き、ゆっくりと水門が上がり始めた。
「よしっ!」
ゴゴゴゴ、と凄まじい勢いで水が流れ落ちていく。
「ふぅー……!」学は額の汗を拭った。
二人は急いで指令室に走る。制御盤の出力量を示すデジタルパネルの数値が、勢いよく跳ね上がっていくのが見えた。
二人は顔を見合わせ、弾けたように笑った。
「やったぞ!」
「やったね、学! ……学はこうやって、みんなを引っ張ってきたんだね」
理奈の眼差しに、学は少し照れた。半日かかってようやく復旧した二人の手は、機械の錆で赤茶色に汚れていた。




