外を見てみたい
過去のやり取りを、ふと思い出していた。
学院を卒業する少し前のことだ。
僕は氏族の長男。
跡取り候補。
幼い頃からそう言われて育ってきた。
剣も学んだ。
魔法も学んだ。
礼儀も、歴史も、貴族として必要になる知識も一通り教えられた。
学院を卒業した後は家へ戻り、いずれ父から家督を受け継ぐ。
それが僕に用意されていた未来だった。
別に、それが嫌だったわけではない。
父を嫌っているわけでもない。
家族と仲が悪いわけでもない。
むしろ、帰る場所があることは分かっていた。
だからこそ、
少しだけ、気になってしまった。
学院で耳にする、冒険者たちの話。
そして、その先にあるものを考える。
その場所には何があるのだろう。
どんな魔物がいるのだろう。
どんな人間がいるのだろう。
学院で学んだ知識だけでは分からないものが、外にはいくらでもある。
そう考えると、どうしても一度くらい見てみたくなった。
だから、父の前に立った。
「父上。大事な話がある」
父は執務机から顔を上げた。
「何だ」
「冒険者になる」
「……何?」
空気が止まった。
本当に、音が消えたようだった。
父の顔から表情が抜け落ちる。
「冒険者をやってくる」
「なぜ?」
「外が見たいから」
自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出てきた。
父はしばらく僕を見ていた。
「学院はどうするつもりだ?」
「ちゃんと卒業する」
「そういう問題ではない」
「分かっている」
父の目に、徐々に気迫が宿っていく。
「お前は何者なのか、分かっているのか」
「この家の長男だ」
「ならば――」
「だから帰ってくる」
父の言葉を遮った。
「家はどうするつもりだ?」
「ちゃんと帰ってくる。家督も継ぐさ」
父は黙った。
長い沈黙だった。
僕も黙って待った。
ここで冗談にしてはいけない。
僕だって遊び半分で言っているわけではない。
やってみたい。
だから、やる。
ただ、それだけだ。
「……それは、いつになる?」
その問いに、少しだけ言葉が詰まった。
「……それは分からない」
父の眉が僅かに動く。
「一度なると決めた以上は、上を目指したい。中途半端なところで帰るのは嫌なんだ」
「成果を残してから、ということか」
「ああ」
「その間、家はどうする」
「父上がいるだろう?」
「お前な……」
呆れたような声。
けれど、その奥に怒りだけではないものがあるのも分かった。
心配している。
それくらいは、僕にも分かる。
「危険なのは分かっている」
「分かっているようには見えん」
「死ぬつもりはないさ」
「死ぬつもりで行く者などいない」
それには何も言い返せなかった。
確かに、その通りだ。
僕は苦笑する。
「……気をつける」
結局、その話はそこで終わった。
父が何を思ったのかは、最後まで分からなかった。
ただ、止められなかった。
いや、
止められなかったというより――
最後には、僕自身の意思を認めてくれたのだと思う。
そして、もう一人。
僕が家を出ると知って、話を聞きに来た人物がいた。
「兄さん!」
「ん?」
振り返る。
そこにいたのは、三つ下の妹だった。
まだ学院生。
魔術に関しては特に優秀で、教師たちからも将来を期待されている。
僕にとっては、昔から変わらない可愛い妹だ。
……ただし。
今は、ずいぶん怒っている。
「どうして相談してくれなかったんですか!?」
「相談したら止められるだろ?」
「当たり前でしょう!!」
即答だった。
「自分が何者なのか分かっているんですか!?」
「分かってるよ」
「本当に分かっているなら、どうしてそんな勝手なことをするんですか!」
「勝手って言われてもなぁ」
「勝手でしょう!」
正論だった。
僕は思わず笑ってしまう。
「はは」
「笑い事じゃありません!」
「いや、でも――」
彼女の頭に手を置いた。
そのまま、ぐしゃぐしゃと髪を撫でる。
「兄さん!」
「大丈夫だって」
「そういう問題じゃありません!」
手を払われた。
乱れた髪を整えながら、妹は僕を睨んでいる。
「父には話を通してある」
「それでもです!」
「やるからには、お前も中途半端は嫌いだろ?」
「話を逸らさないでください!」
「逸らしてないさ」
僕は笑った。
「危ないのは分かっている。でも、何かを得ようと思ったら、それなりの危険はつきものだろ?」
そう言うと、妹は黙った。
先ほどまで矢継ぎ早に飛んできていた言葉が、急に途切れる。
「……兄さん」
「ん?」
「兄さんは、本当に分かっているんですか?」
「何が?」
「危険があるってことです」
真っ直ぐに見つめられる。
いつもの彼女なら、すぐに言い返してくるところだ。
けれど、今は違った。
「学院で聞く冒険者の話なら、私も知っています」
「魔物を倒したとか、遺跡を見つけたとか……兄さんが楽しそうに話していたのも知っています」
「でも」
妹の声が、少しだけ小さくなる。
「そこに行って、実際に魔物と向き合うのは……話を聞くのとは違うでしょう?」
僕は黙った。
「兄さんは強いです。剣も魔法も使える。学院の成績だって悪くない。だから、大丈夫だと思っているんでしょう?」
「まあ、そうだな」
「でも、強いから死なないわけじゃありません」
その言葉だけは、妙にはっきりと聞こえた。
「怪我をするかもしれない。戻ってこられないかもしれない」
「だから私は――」
言葉が止まる。
妹は一度、俯いた。
それから顔を上げる。
「……心配なんです」
それだけだった。
怒っているのだと思っていた。
勝手なことをする兄を叱っているのだと。
けれど、そうじゃなかったらしい。
僕は少しだけ困ってしまった。
「大丈夫だって」
「その言葉が一番信用できません」
「ひどいな」
「本当のことです」
妹はそう言って、また僕を見る。
その目は、怒っているというより――困っていた。
「……ちゃんと帰ってきてください」
その言葉に、僕は少しだけ笑った。
「ああ」
今度は、軽く答えなかった。
「ちゃんと帰ってくるよ」
妹はしばらく僕を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「……約束ですよ」
「ああ。約束だ」
僕は家を出た。
背中に荷物を背負う。
玄関を出た。
外の空気は、思っていたよりも少し冷たかった。
背負った荷物を軽く持ち直す。
これで準備は終わった。
あとは歩くだけだ。
そう思って、数歩進んだところで――ふと足を止めた。
振り返れば、見慣れた家がある。
何度も出入りした玄関。
幼い頃から見てきた庭。
帰ってくれば、いつもそこにある景色。
別に、これが最後になるわけじゃない。
また帰ってくる。
父にもそう言った。
妹にも約束した。
だから、今さら寂しがる必要もない。
……ないはずなのに。
少しだけ、立ち止まっていた。
「……行ってくる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事はない。
当然だ。
もう家の中にいる家族には聞こえていない。
それでも、なぜか言っておきたかった。
もう一度だけ家を見る。
そして、今度こそ前を向いて、歩き出す。
不思議と、足取りは軽かった。
怖くないわけではない。
不安がないわけでもない。
ただ――楽しみだった。
知らない場所へ行く。
知らない人に会う。
知らない魔物を見る。
学院で聞いていた話の、その先へ。
僕は歩き出す。
金はある。
学院に通っていた頃、毎月渡されていたものを使い切らずに残していた。
装備も、最低限なら揃っている。
学院で使っていたロングソードを腰に下げる。
冒険者は、騎士のように鉄製の装備で全身を固めるより、動きやすさを重視することが多い。
学院で聞いた話や、冒険者についての資料で知っていた。
取り回しのいいナイフ。
予備の革袋。
簡素な着替え。
水筒。
食料。
必要そうなものを一つずつ考えていく。
持っていけば安心なものはいくらでもある。
だが、全部持っていけば重くなる。
重くなれば動きにくい。
動きにくくなれば、それだけ危険になる。
なら、必要最低限でいい。
僕は荷物をまとめた。
学院で学んだこと。
家で教えられたこと。
剣。
魔法。
金。
最低限の装備。
そして――好奇心。
それだけあれば、十分だと思った。
だが今は、それでいい。
知らないものがある。
だったら――見に行けばいい。
僕は、そう思っていた。




