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冒険の始まり

 

 ギルドという場所は、思っていたよりも騒がしかった。


 扉を開けた瞬間から、いくつもの声が耳に飛び込んでくる。


 酒を頼む声。

 料理を注文する声。

 依頼について話し合う声。


 笑い声もあれば、誰かを怒鳴りつける声もある。

 学院の食堂とは、まるで違う。

 あそこにも人は多かったが、騒がしさの種類が違う。

 学院では、どこか皆が同じ方向を向いていた。


 剣を学ぶ者。

 魔法を学ぶ者。

 騎士になる者。

 家を継ぐ者。


 ここにいる人間は違う。

 それぞれが、それぞれの目的でここにいる。

 そう思うと、不思議と口元が緩んだ。


 僕は受付のカウンターへ向かった。


 受付嬢は何人かいたが、そのうち手の空いている一人の前に立つ。


「なぁ、受付のお姉さん。ここはギルドなんだろ?」


 少し身を乗り出し、カウンターに肘をつく。


「ここで身分証明証みたいなものが作れるって聞いたんだ。それを作るにはどうすればいい?」


 受付嬢は一瞬だけ僕の顔を見て、それから慣れた様子で微笑んだ。


「冒険者証の発行ですね。こちらの用紙にご記入いただき、発行手数料として銀貨三枚をお願いします」


「これか」


 差し出された用紙を受け取る。


 紙と、羽根ペン。


 拍子抜けするほど簡単だった。


 もっと何か特別な手続きが必要なのかと思っていた。


 学院に入学するときには、家の名や推薦状、それからいくつもの書類を揃えた覚えがある。


 それに比べれば、ずいぶん簡素だ。


 懐から小袋を取り出し、その中から金貨を一枚。

 銀貨三枚を探すより早い。

 金貨をカウンターへ置き、指先で受付嬢の側へ滑らせる。


「お釣りは銀貨でよろしいですか?」


「ああ」


「かしこまりました」


 用紙へ目を落とす。


 名前。

 年齢。

 いくつかの簡単な確認事項。

 犯罪歴の有無。

 そして、冒険者として活動することに関する契約。


 依頼中に発生した事故や負傷について、ギルドは一切の責任を負わない。

 依頼内容を確認せずに受注した場合も同様。


 要するに――自己責任。


 学院でも、似たような言葉は聞いたことがある。


 騎士として戦場に立つなら、自分の命は自分で守れ。

 剣を抜くのも、魔法を使うのも、自分自身の判断だ。


 だから、この程度なら特に気になることもない。


 ペンを取った。

 名前の欄に書き込む。


 レオン。

 それが僕の名だ。


 その下に年齢を書き、残りの項目にも一つずつ答えていく。


 最後まで書き終えると、用紙を受付嬢へ返した。


「はい。ありがとうございます」


 彼女は内容を確認し、受け取った金貨から手数料を差し引く。


 返ってきた釣りを受け取り、小袋へ戻す。


「では、こちらを」


「ん?」


 続いて差し出されたのは、小さな札だった。


「仮証です。三日後に正式な冒険者証を発行いたしますので、その際はこちらをお持ちください」


「三日後?」


「はい。冒険者証の発行には少々時間がかかりますので」


「なるほど」


 受け取った仮証を指先で眺める。

 交換手形のようなものか。

 どうやら、申し込んだその日に正式な冒険者証を手に入れられるわけではないらしい。


 学院を出る前に、冒険者ギルドについてはいくらか話を聞いていた。


 冒険者証が身分証明にもなること。

 依頼を受けるためには登録が必要なこと。

 ランクがあること。

 魔物を討伐したり、採取したり、護衛をしたり。


 それくらいなら知っている。


 だが、実際にこうして登録してみると、知識として知っていたものが少しずつ現実になっていくような感覚があった。


「なくさないようにしてくださいね」


「分かった。ありがとう」


 仮証を小袋へしまう。


「また来る」


 そう言ってカウンターを離れた。


 そのときだった。

 背後から声がした。


「この依頼を受けたいんだが……」


 振り返る。


 さっきまで僕の後ろに並んでいた男が、受付嬢へ紙を差し出していた。


 中年の男だった。

 身につけている防具は、かなり使い込まれている。


 革には擦れた跡があり、金属部分には細かな傷がある。

 肩のあたりには縫い直したような跡まであった。


 それでも、壊れかけているようには見えない。


 むしろ――手入れされている。

 傷も綻びも、そのまま放置されているわけではない。


 必要なところだけ補修され、動きを邪魔しないよう調整されている。


 騎士の装備とは違う。

 新品のような美しさはない。

 けれど、こちらのほうが妙に目を引いた。


 長く使い続けているものだけが持つ、馴染んだ形とでも言おうか。


 僕が見ていることに気付いたのか、男がこちらを振り向いた。


 目が合う。


「なんだ、兄ちゃん」


 男が眉を上げる。


「俺に何か用事でもあるのか?」


「いや」


 僕は首を横に振った。


「気にしないでくれ。先ほど冒険者の申し込みをした新人の好奇心だ」


「新人?」


 男は僕を頭の先から足元まで眺める。


 そして鼻で笑った。


「へっ。だったら、あんまり人をジロジロ見るんじゃねぇぞ」


「?」


「気に障ったやつは、すぐに殴りかかってくるからよ」


 男は肩をすくめた。


「気ぃつけるこった」


「なるほど」


 学院なら、そんな忠告をする者はいない。

 少なくとも、初対面の人間に向かって殴りかかる可能性を当然のように語る者はいなかった。


 けれど――ここはギルドだ。

 冒険者が集まる場所。

 それだけのことだろう。


「ああ。忠告、感謝する」


「……変な兄ちゃんだな」


 男はそう言って受付へ向き直った。


 僕もその場を離れ、改めて周囲を見渡す。


 テーブル席では冒険者らしき男たちが酒を煽っている。

 大皿に盛られた料理を囲みながら談笑している者たちもいる。

 地図を広げて話し合っている一団もいた。


 笑い声。

 怒鳴り声。

 食器のぶつかる音。

 酒の匂い。

 汗と革と金属の匂い。


 まるで住む世界が違う。

 ここには、僕の知らないものがたくさんある。



「北の街道で魔物が出た」

「Aランク冒険者が一人で討伐した」

「遠くの街には、古い遺跡が残っている」


 学院にいた頃、そんな話を何度も聞いた。


 そのたびに僕は、


 ――へえ。


 と、思っていた。


 それだけだった。

 どこか遠い場所の話。

 誰か別の人間が経験する話。

 そう思っていた。


 けれど今は違う。

 自分も、その話の中へ入れる。


 まだ仮証一枚しか持っていない。

 正式な冒険者証すらない。

 依頼も受けていない。

 魔物だって倒していない。


 それでも。

 今日、僕は冒険者になった。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「……楽しくなってきたな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 まだ何も始まっていない。

 だからこそ、楽しみだった。


 宿を探す。

 食事をする。


 そして三日後、冒険者証を受け取る。


 まずはそこからだ。

 僕はギルドを出た。


 外の空気を吸い込みながら、これから始まるものを思い浮かべる。


 学院で学んだ剣や知識。

 これまで積み上げてきたもの。


 それらが、実際の冒険でどこまで通用するのか。


 僕はまだ、冒険を知らない。

 だからこそ、

 少しだけ、胸が躍っていた。

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