実家の魔法陣、全部調べる
翌朝。
シルヴァーヌ侯爵邸の廊下には、いつもより一人多く大人が立っていた。
父サイラス。
侍女長のマリー。
屋敷付きの魔術師、ロアン。
そして、五歳のリゼットである。
なお、一番やる気に満ちているのは五歳児だった。
「本日の点検対象は、二階東廊下の照明用魔法陣です」
リゼットは、バインダー代わりの板に挟んだ羊皮紙を掲げた。
そこには、きっちりした文字で題名が書かれている。
『侯爵邸魔法陣・限定点検チェックリスト』
その下には、さらに細かい項目が並んでいた。
『対象:照明用魔法陣』
『範囲:二階東廊下のみ』
『実物接触:禁止』
『模型実験:可』
『大人の立会い:必須』
五歳児にここまで書かれると、大人側の方が逃げられない。
「……本当に、今日は見るだけだぞ」
サイラスが念を押した。
「承知しています。実物には触れません。まず観測、次に模型術式、最後に改善案の提出です」
「言っていることは正しいのに、なぜこんなに不安になるのだろうな」
「旦那様。私も同感でございます」
マリーが小さく頷いた。
ロアンは困った顔で笑っている。
彼は四十代の落ち着いた魔術師で、長年この屋敷の生活用魔法陣を管理してきた人物だった。
「お嬢様、照明陣は単純に見えて、屋敷全体の魔力回路とつながっています。不用意に手を入れると、別の部屋の明かりが落ちることもあります」
「はい。ですので、今日は触りません」
「それを聞いて安心しました」
「ただし、欠陥は観測します」
「安心が短命でした」
ロアンの笑顔が少し固まった。
リゼットは廊下の壁に刻まれた小さな魔法陣の前にしゃがみ込む。
五歳児なので、しゃがむとほとんど床である。
マリーがそっと膝掛けを差し出した。
「床は冷えますので」
「ありがとうございます。観測効率が上がります」
「そういう理由でも、敷いてくださるなら結構です」
リゼットは膝掛けの上に座り、照明陣をじっと見つめた。
円。
光属性の基礎記号。
魔力供給線。
光量調整の補助記号。
そして、壁の奥へ伸びる細い分配線。
(図面より線が一本多い)
リゼットの目が細くなった。
「ロアン。この照明陣は、設計図では補助線が三本ですね」
「はい。主線が一本、光量調整が一本、緊急消灯用が一本です」
「実物には、四本あります」
「……四本?」
ロアンが顔を近づけた。
サイラスも眉を寄せる。
壁の魔法陣は、ぱっと見ただけなら何の変哲もない生活用術式だ。
だが、リゼットが指さした先には、主線の裏側を這うように、薄い補助線が一本だけ刻まれていた。
「これは……後から追加された補修線でしょうか」
「可能性はあります。ただ、形が少し妙です」
リゼットは懐から小さな紙を取り出した。
そこには、以前、シルヴァーヌ家の書庫で模型術式を調べた際に現れた未知の記号が写されている。
既存の本には載っていない。
分類もできない。
なのに、何度見ても頭から離れない記号。
「この曲がり方が、未知記号の一部に似ています」
その場の空気が、少しだけ冷えた。
マリーが目を瞬かせる。
「お嬢様。その、例の分からない記号でございますか」
「はい。分からない記号です」
「お嬢様が分からないとおっしゃるたびに、私の胃がきゅっとなります」
「それは胃の問題です。あとで温かいお茶を飲んでください」
「原因がお嬢様なのでございます」
リゼットは聞かなかったことにした。
すぐに実物へ手を伸ばしたい。
とても伸ばしたい。
だが、約束は約束である。
(実物接触は禁止。ならば模型です)
リゼットは用意していた白紙を床に置き、照明陣の構造を写し取った。
ただし、出力は実物の百分の一以下。
失敗しても、紙が焦げる程度の規模だ。
「模型術式を作ります。ロアン、魔力供給を最小でお願いします」
「承知しました」
ロアンが慎重に魔力を流す。
紙に描かれた小さな魔法陣が、淡く光った。
最初は安定している。
だが、リゼットが問題の四本目の線を再現した瞬間、光がぐにゃりと曲がった。
「……あ」
マリーが小さく声を漏らす。
光は一瞬だけ二重になった。
まるで、廊下の同じ場所に、別の廊下の影が重なったように見えた。
次の瞬間。
ぱちん、と乾いた音がして、紙の端が黒く焦げた。
模型術式は停止した。
成功ではない。
完全な失敗でもない。
「……今のは、何だ」
サイラスの声が低くなる。
「分かりません」
リゼットは即答した。
その場にいた大人三人が、そろって黙った。
リゼットが分からないと言う。
それは、屋敷の床が急に一段抜けたような不安を連れてくる言葉だった。
「照明陣としては、不要な挙動です。ですが、単なる欠陥とも言い切れません。光量調整の線に見せかけて、別の役割を持っている可能性があります」
「別の役割、とは」
「現時点では不明です」
リゼットは焦げた紙を丁寧に切り取り、未知記号の写しと並べた。
似ている。
だが、一致はしない。
似ているのに、違う。
違うのに、無関係とは言い切れない。
気持ち悪い。
とても気持ち悪い。
「改善案を変更します」
リゼットは新しい羊皮紙に、すばやく書き込んだ。
『四本目の補助線:削除禁止』
『用途不明。既存理論外の挙動あり』
『照明効率改善は、主線と光量調整線のみ対象』
『未知記号との関連を継続調査』
ロアンが目を丸くした。
「お嬢様。欠陥だと判断して、すぐ消すのではないのですね」
「分からないものを消すのは危険です」
リゼットは真顔で答えた。
「分からないものは、まず隔離して、記録して、再現条件を探します。壊すのは最後です」
サイラスは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
以前のリゼットなら、正しさで押し切ったかもしれない。
今のリゼットは、分からないものを分からないまま扱っている。
危険ではある。
だが、成長でもあった。
「では、照明の改善はできないのか?」
「できます。ただし、範囲を限定します」
リゼットは問題の四本目には触れず、主線と光量調整線だけを使った模型術式を描いた。
今度は、光が歪まない。
淡く、安定した明かりが紙の上に灯る。
「光量のむらを減らし、魔力消費を一割から一割二分ほど削減できます。三割は無理です」
「三割と言わないところが、かえって信用できるな」
サイラスが苦笑した。
「盛った数値は、あとで首を絞めます」
「五歳の娘から聞くには渋すぎる教訓だ」
その後、ロアンの立会いのもと、二階東廊下の照明陣だけに、ごく小さな調整が加えられた。
結果は、地味だった。
廊下の角の暗がりが少し薄くなる。
光のちらつきが減る。
魔石の消費量は、測定上で約一割一分の低下。
料理長が泣いて拝むような奇跡ではない。
メイドたちが神と呼ぶほどの劇的改善でもない。
だが、数字は確かだった。
「……成功、でよろしいのでしょうか」
マリーが恐る恐る尋ねる。
「部分成功です」
リゼットは即答した。
「照明効率の改善は成功。未知補助線の解明は失敗。総合評価は、保留です」
「お嬢様は、ご自分に厳しいですね」
「未知のものを残したまま成功と言うのは、気持ちが悪いので」
マリーは、リゼットの横顔を見た。
五歳の子どもとは思えない。
だが、万能の天才にも見えない。
分からないものの前で、きちんと立ち止まっている。
それが少しだけ、マリーには救いだった。
* * *
その日の午後。
サイラスの執務室に、リゼットの報告書が提出された。
前回の報告書を思い出して、サイラスは覚悟して表紙をめくった。
七ページである。
サイラスは、まずそこに安心した。
安心する基準がだいぶおかしくなっている自覚はあった。
『二階東廊下照明陣・限定点検報告』
『改善効果:魔石消費量 約十一パーセント低下』
『居住者体感:廊下角の暗がり軽減』
『未解決事項:四本目の補助線』
『備考:未知記号との類似あり。削除不可』
サイラスは最後の一行で、安心を返却した。
「……リゼット」
「はい」
「この未知記号に似た線は、屋敷中にあるのか?」
「まだ分かりません。ですが、二階東廊下だけに存在する可能性は低いです」
「なぜそう思う」
「ここだけなら意図的です。他にもあるなら共通仕様です」
どちらでも嫌だった。
サイラスは静かに目を閉じた。
「屋敷全体の調査を許可する。ただし、同じ条件だ。実物には勝手に触れない。未知の線は消さない。危険な陣には近づかない」
「承知しました」
「それと、屋敷の外にはまだ出ない」
リゼットの動きが、ぴたりと止まった。
「……領地の灌漑用魔法陣も、確認対象として有益ですが」
「まだ出ない」
「農業生産性は、国家への説明材料として重要です」
「まだ出ない」
「三回言いましたね」
「何度でも言う」
サイラスは疲れた顔で、しかしきっぱりと言った。
「まず屋敷内だ。屋敷内の照明、暖房、水回り。生活用の陣に限る。防衛結界は最後だ」
「妥当です」
リゼットは頷いた。
そして、新しい羊皮紙を取り出す。
『侯爵邸生活魔法陣・段階的点検計画』
サイラスはそれを見て、額を押さえた。
「……計画書が増えていくな」
「計画のない調査は危険です」
「正しい。正しいのだが」
正しいことは、時に人の胃を痛める。
マリーがそっと胃薬の小瓶を机に置いた。
いつの間に用意したのかは、誰も聞かなかった。
* * *
夕方。
リゼットは自室の机で、焦げた模型術式の紙片を見つめていた。
照明陣の補助線。
未知記号。
二重になった光。
それらを並べても、まだ答えは出ない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
この屋敷の魔法陣は、ただ古いだけではない。
どこかに、現行理論では説明できないものが混ざっている。
「……面白いですね」
リゼットは小さく呟いた。
その声は、楽しげで。
少しだけ、危なかった。
こうして、王太子へ接触するための第一実績作りは、予定よりずっと地味に、しかし予定よりずっと不穏な方向へ進み始めた。
そして、謎というものは。調べる者が現れた瞬間から、静かに、目を覚ます。




