侯爵領へ、初の「研究視察」
二階東廊下の限定点検から、三日が経った。
シルヴァーヌ侯爵邸では、妙な光景が日常になりつつあった。
五歳の令嬢が、膝掛けを敷いて床に座る。
屋敷付き魔術師ロアンが、隣で魔力計を構える。
侍女長マリーが、胃を押さえながら温かいお茶を用意する。
父サイラスが、遠くから「触るなよ」と言う。
誰も驚かなくなってきた。
それが一番よくない。
「二階西廊下の照明陣にも、四本目の補助線があります」
リゼットは淡々と告げた。
ロアンが記録用の羊皮紙に書き込む。
『東廊下:あり』
『西廊下:あり』
『客間前:あり』
『厨房前:なし』
「場所によって有無が分かれていますね」
「はい。共通仕様ではありません。ですが、完全な個別追加でもない」
リゼットは小さく眉を寄せた。
四本目の補助線。
未知記号に似た曲線。
模型術式で起きた、光の二重化。
屋敷の生活用魔法陣を調べるほど、それは少しずつ姿を見せ始めていた。
ただし、答えはまだ出ない。
出ない。
非常に気持ち悪い。
「お嬢様。顔が怖くなっております」
マリーがそっと指摘した。
「分からないものが増えています」
「普通は分からないものがあると不安になるのですが、お嬢様は少し楽しそうでございます」
「不安と興味は両立します」
「両立しないでいただきたいです」
ロアンが苦笑した。
「しかし、お嬢様。これで屋敷内の生活用魔法陣は、かなり確認できました。照明と水回りは、どちらも一割前後の改善。暖房は安全上、まだ模型のみ。防衛結界は未着手」
「はい。計画通りです」
「計画通りに怖いですね」
ロアンは言ってから、自分が屋敷に馴染み始めていることに気づいた。
少し嫌だった。
* * *
その日の午後。
リゼットは、サイラスの執務室に報告書を持ち込んだ。
厚さは九ページ。
サイラスは、まず厚みを確認した。
父親としてではなく、胃を守る者としての本能だった。
「屋敷内生活魔法陣の中間報告です」
「……中間で九ページか」
「最終報告ではありませんので」
「それは慰めなのか、脅しなのか」
リゼットは答えず、報告書を開いた。
『照明陣:平均魔力消費 十一パーセント低下』
『水回り:模型上で九パーセント改善見込み。実物反映は保留』
『暖房陣:熱暴走リスクあり。実物接触禁止継続』
『未知補助線:複数箇所で確認』
サイラスは、最後の項目で手を止めた。
「未知補助線は、生活用の陣にだけあるのか?」
「現時点では不明です。ですが、水回りの陣にも似た線があります」
「水回り……」
サイラスの顔が曇った。
水。
それは屋敷だけの問題ではない。
領地全体に関わる。
リゼットは、そのわずかな表情の変化を見逃さなかった。
「お父様。侯爵領の灌漑用魔法陣を確認する必要があります」
「先日、屋敷の外にはまだ出ないと言ったはずだ」
「はい。ですので、申請書を作成しました」
リゼットは二枚目の羊皮紙を差し出した。
『侯爵領・灌漑魔法陣限定視察申請』
『目的:未知補助線の有無確認』
『対象:領都近郊の第一用水路のみ』
『実物接触:禁止』
『模型実験:現地で可』
『同行者:父、ロアン、マリー』
『最大リスク:泥』
サイラスは最後の一行を二度見した。
「最大リスクが泥なのか」
「マリーへの配慮です」
「お嬢様。配慮してくださるなら、外出しないという選択肢もございます」
「それは研究効率が下がります」
「知っておりました」
マリーは遠い目をした。
サイラスはしばらく黙っていた。
許可したくない。
とても許可したくない。
本来なら認めたくない。
父親としては、五歳の娘を屋敷の外の魔法陣調査になど連れ出したくない。
だが、水回りの陣に未知補助線がある。
それが領地の灌漑陣にもあるなら、放置はできない。
水は領地の命だ。
領主として、見なかったことにはできなかった。
怖い。
理解できるから、なお怖い。
「……条件をつける」
「どうぞ」
「第一用水路を見るだけだ。石碑には触れない。村人を集めない。実験は模型のみ。問題が見つかっても、その場で直さない」
「妥当です」
「それと、ドレスでは行かない」
リゼットが少しだけ首を傾げた。
「服装は研究成果に影響しますか」
「泥に影響する」
「重要ですね」
「お嬢様が分かってくださった……!」
マリーが両手を合わせた。
その感動は、少し低い位置にあった。
* * *
翌朝。
シルヴァーヌ侯爵領へ向かう馬車には、サイラス、リゼット、マリー、ロアンが乗っていた。
リゼットは動きやすい外出着を着ている。
マリーの粘り勝ちである。
馬車の窓の外には、王都近郊の田園が広がっていた。
春の風に、若い麦の穂が揺れている。
普通の令嬢なら、綺麗、と言うところだ。
リゼットは違った。
「水路の分岐が多いですね。管理点が増えすぎています」
「景色を見て、最初にそれを言う五歳児は珍しいだろうな」
サイラスがぼそりと言った。
リゼットは聞いていない。
視線はすでに、水の流れと畑の傾斜を追っていた。
しばらくして、馬車は第一用水路のそばに止まった。
村長が、突然の領主訪問に慌てて駆け寄ってくる。
「こ、これは侯爵閣下! 事前のお知らせもなく、いかがなさいましたか」
「大事ではない。用水路の状態を少し確認するだけだ」
サイラスが穏やかに告げる。
その横で、リゼットはすでに石碑を見ていた。
苔むした古い石碑。
表面には、灌漑用の魔法陣。
水を汲み上げ、用水路へ流し、畑へ分配するための基幹陣である。
古い。
かなり古い。
だが、ただ古いだけではなかった。
(ある)
リゼットは息を止めた。
石碑の端。
水属性の基礎記号と、分配線の接続部。
そこに、屋敷の照明陣で見たものと似た曲線が刻まれていた。
未知補助線。
形は違う。
属性も違う。
だが、曲がり方の癖が同じだった。
「お父様」
「あったのか」
「はい」
サイラスの顔が険しくなる。
村長が不安げに二人を見比べた。
「あ、あの、何か問題が……?」
「まだ問題とは断定しません」
リゼットは言った。
「ただ、分からないものがあります」
村長は余計に不安そうな顔になった。
五歳児に言われるには、かなり怖い台詞である。
「そういえば……この石碑だけは、昔から下手に触るなと言われておりまして」
村長が、ぽつりと付け足した。
「祖父の代には、雨の少ない夜だけ、石碑の線が青白く光ったのを見た者がいる、という話もございました。子どもを怖がらせるための昔話だと思っておりましたが……」
サイラスの表情が、さらに険しくなった。
リゼットは、石碑から目を離さなかった。
「模型を作ります。ロアン、最小出力でお願いします」
「承知しました」
リゼットは石碑に触れず、紙の上に灌漑陣の簡易模型を描いた。
水を実際に出す必要はない。
流れの向きと魔力消費だけを確認する、低出力の模型だ。
ロアンが魔力を流す。
紙の上で、小さな青い光が走った。
最初は、予定通り。
水属性の線が回り、分配線へ接続される。
だが、未知補助線を加えた瞬間。
光が、横にずれた。
一瞬だけ、紙の上に別の水路図が重なったように見えた。
そして、模型術式は止まった。
「……また二重化」
リゼットは小さく呟いた。
「照明でも起きた現象か」
「はい。ただし今回は、光ではなく水路の分配図がずれました」
サイラスは黙った。
ロアンも黙った。
マリーは胃を押さえた。
「改善は可能か?」
サイラスが尋ねる。
「部分的には可能です。ただし、未知補助線には触れません」
リゼットは別の紙に、未知補助線を除外した模型を描く。
古い変換処理を一つだけ省き、水量を測る補助記号を足す。
「これなら、魔石消費を五から七パーセント程度減らせます。水量そのものは増えません」
「少ないのですね」
村長が、思わず口を挟んだ。
以前なら、すぐに答えを出そうとしていたかもしれない。
だが、今のリゼットは首を振った。
「少ないですが、安全です。現時点で大規模修正は危険です」
その言葉に、ロアンが感心したように目を細めた。
「お嬢様は、ずいぶん慎重になられましたね」
「失敗したくないだけです」
「それを慎重と言います」
リゼットは少し考えた。
「では、慎重です」
マリーが小さく笑った。
ほんの少しだけ、空気がやわらいだ。
* * *
視察は、予定通り短時間で終わった。
石碑には触れていない。
村人も大勢は集めていない。
水路も爆発していない。
マリーは、それだけで今日を勝利判定にした。
帰りの馬車の中、リゼットは報告書を書いていた。
『第一用水路・灌漑魔法陣観測報告』
『未知補助線:確認』
『屋敷照明陣との共通点:曲線構造、二重化挙動』
『安全改善案:魔石消費五から七パーセント削減見込み』
『大規模修正:保留』
サイラスはその文字を読み、深く息を吐いた。
「派手な成果ではないな」
「はい」
「だが、重要な発見だ」
「はい」
リゼットは頷いた。
「屋敷だけの問題ではありません。領地の生活基盤にも、同じ未知構造が混ざっています」
言いながら、リゼットの頭の中では、別の線が引かれていた。
屋敷の照明陣。領地の灌漑陣。──どちらにも、同じ癖がある。
同じ癖を持つ設計者が、生活用の陣だけを描いたと考えるのは、不自然だ。同じ手は、もっと大きなものにも触れているはずである。
(この国でいちばん大きな魔法陣は、防衛結界です)
五歳の日に、暖炉の陣から出した結論を、彼女はまだ取り下げていない。
現行理論の結界は、一本の線で組まれている。一箇所が切れれば、全部が止まる。そこへ十年に一度の魔力嵐が来れば、どうなるか。
(照明が消えるのとは、規模が違います)
ロアンには、まだ言わない。父にも言わない。
根拠が、二箇所しかないからだ。
だから彼女は、今日のところは、こう書いた。
『屋敷:あり。第一用水路:あり。──未確認:王都、王宮、防衛結界』
欠陥は、直せば消える。
だが、直す許可を得るには、まず、あると証明しなければならない。
そのための、二箇所目だった。
リゼットは報告書の余白に、短く仮説を書き足した。
『仮説1:空間位置のずれ』
『仮説2:過去の設計図の残留』
『仮説3:現行術式とは別層の魔法陣』
どれも未証明。
どれも、気持ち悪い。
「つまり」
「王立学院の上級専門書、または宮廷魔術師の論文が必要です」
結論は、そこへ戻る。
サイラスは額を押さえた。
「王太子殿下へ接触する理由が、また一つ増えたわけだな」
「はい。ただし、まだ直接接触する段階ではありません」
サイラスは少し驚いて、娘を見た。
「そうなのか」
「はい。現時点の成果は、部分改善と未知構造の発見です。交渉材料としては弱い。まずは屋敷内と第一用水路の比較報告をまとめ、ロアンの署名を添えて、専門家に読ませる形にします」
ロアンが目を丸くした。
「私の署名ですか」
「五歳児の単独報告より、屋敷付き魔術師の確認印があった方が信用されます」
「正しいのですが、急に責任が重い」
「責任の重さは、発見の重要度に比例します」
「胃薬を分けていただけますか、マリー殿」
「もちろんでございます」
マリーは迷わず小瓶を差し出した。
リゼットは、窓の外の田園を見た。
水路。
屋敷。
照明。
灌漑。
どこにも、同じようで少し違う未知の線がある。
まるで、この世界の魔法陣そのものに、誰かが薄く別の設計を重ねたように。
「……面白い」
小さくこぼれた声に、マリーが肩を跳ねさせた。
「お嬢様がその顔をなさる時は、だいたい何かが始まるのでございます」
「始まるのではありません。見つかっただけです」
「それを世間では、始まりと呼ぶのでございます」
リゼットは否定しようとして、やめた。
まだ分からない。
だが、分からないものは、確かに増えている。
王太子への接触計画は、まだ遠い。
禁書庫も、古代魔導書も、今はまだ目的地ではない。
その前に。
この世界の魔法陣に混ざった、説明不能な線の正体を突き止める必要があった。
こうして、リゼットの初めての研究視察は、派手な奇跡ではなく、一枚の不穏な報告書を残して終わった。
その報告書の、最後の一行には、こう書かれていた。
──この線は、この屋敷だけのものではない。おそらく、この国の、すべての魔法陣に、同じものが、混ざっている。
もし、それが本当なら。
五歳の少女が見つけたのは、一つの屋敷の欠陥ではない。この世界そのものに、走った、誰も気づいていない、見えないひび割れだった。




