初めて「同じ目」の人に会う
第一用水路の限定視察を終えた帰り道。
馬車の中で、リゼットは報告書の余白を見つめていた。
『仮説1:空間位置のずれ』
『仮説2:過去の設計図の残留』
『仮説3:現行術式とは別層の魔法陣』
どれも未証明。
どれも魅力的。
どれも、非常に気持ち悪い。
窓の外では、夕暮れの田園がゆっくり後ろへ流れていく。
普通の令嬢なら、疲れて眠るところだ。
リゼットは眠らなかった。
「お父様」
「……今度は何だ」
向かいの席で半分目を閉じていたサイラスが、警戒心だけで目を開けた。
「この報告書を、外部の魔術師に読ませる必要があります」
「ロアンでは足りないのか?」
隣のロアンが、少しだけ背筋を伸ばした。
「ロアンの確認印は重要です。ただ、屋敷付き魔術師の立場では、第三者性が弱い。できれば、シルヴァーヌ家と直接の利害関係が薄い人物が必要です」
「五歳の娘から、第三者性という言葉を聞きたくなかった」
「重要です」
「重要なのが困る」
サイラスは額を押さえた。
マリーは何も言わず、胃薬の小瓶を手元に寄せる。
最近、判断が早くなっている。
「候補はあるのか」
「あります」
「予算申請の別紙2で、王都と近郊の書店を全部並べました。仕入れ経路と、扱う分野と、店主の経歴まで」
「……あれ、本当に全部調べていたのか」
「調べなければ、輸送費が出せません。その時に、一軒だけ、条件の合わない店が残りました」
リゼットは準備していた小さな紙を取り出した。
『バルト街・古書 星屑堂』
『店主:エミール・ガラン』
『元王立学院非常勤講師』
『専門:旧式魔法陣、失われた表記体系』
『現在:古書店主』
サイラスは紙を見て、目を細めた。
「……エミール・ガラン。聞いたことがある。昔、学院で異端扱いされた魔術師だな」
「異端とは」
「古い術式には現代理論が捨てた価値がある、と主張し続けた人物だ。主流派とは折り合いが悪かったらしい」
リゼットの瞳が、少しだけ光った。
「会う価値があります」
「そう言うと思った」
「寄ってください」
「もう夕方だ」
「古書店は夕方でも開いている可能性があります」
「閉まっている可能性もある」
「その場合は外観を観測します」
「店を見るだけで何を得るつもりだ」
「棚の密度、管理状態、客層、保管温度」
「分かった。寄る。寄るから、その目で馬車の扉を見ないでくれ」
サイラスが折れた。
父親としてではない。
議論が長くなる前に被害を抑える者としてだった。
* * *
バルト街は、王都へ向かう街道沿いにある古い商業町だった。
大きな店は少ない。
だが、細い路地の奥には、古い紙とインクの匂いがしみついた店がいくつも残っている。
その一角に、目的の店はあった。
『古書 星屑堂』
看板は色褪せている。
扉は少し傾いている。
窓ガラスの内側には、古い紙の束が山のように積まれている。
マリーは、店構えを見た瞬間に顔を曇らせた。
「お嬢様。ほこりの気配がいたします」
「良い兆候です」
「良くございません」
カラン、と鈍いベルが鳴った。
店内は薄暗かった。
古い紙。
乾いた革。
少しだけ湿った木材。
リゼットは深く息を吸った。
「……良い書庫です」
「お嬢様の良いの基準が、私にはまだ分かりません」
店の奥では、白い髭を伸ばした老人が、ランプの下で古い羊皮紙を覗き込んでいた。
「いらっしゃい。絵本なら入り口右手だよ」
老人は顔も上げずに言った。
「絵本は不要です。旧式魔法陣、失われた表記体系、現代表記統一前の術式資料を探しています」
老人の手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……今、何を探していると言ったね」
「旧式魔法陣です。特に、現行術式とは別層に見える補助線について記述がある本を探しています」
老人の目が、細くなった。
値踏みではない。
警戒でもない。
興味だった。
「お嬢ちゃん。君はその言葉の意味を分かって言っているのかな」
「分からないので、資料を探しています」
「正直でよろしい」
老人は小さく笑った。
リゼットは鞄から報告書の写しを取り出した。
屋敷照明陣。
第一用水路の灌漑陣。
未知補助線。
二重化挙動。
エミール・ガランは、最初は軽い気持ちで紙を受け取った。
だが、一枚目を読んだ時点で表情が変わった。
二枚目で背筋が伸びた。
三枚目で、ランプを近づけた。
「……これは、誰が書いた」
「私です」
「君が?」
「はい」
「五歳に見えるが」
「五歳です」
店内が、数秒だけ静かになった。
マリーは心の中で祈った。
どうか普通の反応でありますように、と。
だが、エミールは笑わなかった。
疑いもしなかった。
報告書から目を離さず、低く呟いた。
「……この線を、消さなかったのか」
リゼットの目が、わずかに動いた。
「分からないものを消すのは危険です」
「そうだ」
老人はゆっくり頷いた。
「分からないものを、欠陥と呼んで消した者が多すぎた」
その声には、長い年月の苦味が混じっていた。
リゼットは初めて、老人をまっすぐ見た。
この人は、分かっている。
少なくとも、分からないものの扱い方を知っている。
「この補助線に見覚えがありますか」
「知らん」
エミールは、はっきりと言った。
「少なくとも、私が読んだ本の中に、この補助線そのものはない。答えは持っておらん」
リゼットは、少しだけ目を細めた。
「では、手がかりもありませんか」
「いや。考え方だけなら、似たものを知っている」
エミールはカウンターの奥へ行き、鍵のかかった棚を開けた。
そこから、古びた革表紙の本を一冊取り出す。
表紙には、現代の魔法陣とは違う、蔦のように絡む曲線が刻まれていた。
「現代表記が統一される前の研究書だ。著者名は失われている。百年以上、まともに読めた者はいない」
リゼットは表紙から目を離せなかった。
曲線。
絡み合う線。
重なる層。
未知補助線と同じではない。
だが、考え方の匂いが近い。
「見ても?」
「壊さないなら」
「壊しません。たぶん」
「そこは断言してほしかったな」
エミールは苦笑しながら本を開いた。
リゼットはページを覗き込む。
読みにくい。
現代表記と文法が違う。
魔力の経路が一本ではない。
だが、無秩序ではなかった。
「……これは、同時処理ですね」
エミールの眉が上がった。
「続けて」
「現代の術式は、魔力の流れを読みやすくするために直線化しています。この本の術式は違う。複数の経路をあえて絡ませ、時間差で処理しています」
「時間差」
「はい。ここは衝突ではなく遅延です。火の線を風が押し上げているのではなく、火の余熱を風が拾って次の処理へ渡しています」
エミールは黙った。
そして、ゆっくり椅子に座った。
「……私はそこを、誤記だと思っていた」
「誤記ではありません。設計です」
その瞬間。
エミールの目が変わった。
老人の目ではない。
店主の目でもない。
長い間、誰にも通じなかった問いを、ようやく渡せる相手を見つけた研究者の目だった。
「では、五ページ目の渦巻きは?」
「出口のない蓄積領域です。ただし、現代の魔力濃度だと動きません」
「なぜそう言える」
「ここに環境魔力を前提にした記号があります。今の王都周辺の魔力濃度では、出力が足りません。動かすなら、模型に落として補助供給を入れる必要があります」
エミールは笑った。
静かに。
しかし、泣きそうな顔で。
「……読めるのか」
「一部だけです。全部は無理です」
「一部だけでも十分だ。私は四十年、この一部に届かなかった」
リゼットは首を傾げた。
「四十年は長いですね」
「君は時々、容赦がないな」
「事実です」
「そうだ。事実は痛い」
マリーは店の隅で、二人を見ていた。
リゼットが楽しそうだった。
いつものように相手を論破しているのではない。
正しさで押し切っているのでもない。
同じものを見ている。
同じものを面白がっている。
マリーは少しだけ、胸が温かくなった。
(お嬢様は、こういうお顔もなさるのですね)
床のほこりは気になる。
帰ったら服も髪も全部整えたい。
それでも、今だけは止めなかった。
* * *
議論は長くなった。
長くなりすぎた。
マリーが三回お茶の時間を告げ、護衛が二回外の暗さを確認し、サイラスが馬車から一度だけ様子を見に来て、入口で固まった。
五歳の娘と七十代の老魔法師が、古い魔法書を挟んで同じ顔をしていたからだ。
楽しそうで。
危なそうで。
非常に似ていた。
「……マリー」
「はい、旦那様」
「あれは止めた方がいいのか」
「止まるのでしょうか」
「無理だな」
「はい」
二人は静かに諦めた。
やがて、エミールは古い本を閉じた。
「リゼット嬢。この本は売れない」
マリーが少しほっとした。
「だが、写しなら作ろう」
マリーの希望は短命だった。
「ありがとうございます」
リゼットは即答した。
「それと、この報告書の確認印が必要なら、私の名を使ってよい」
ロアンが目を丸くした。
「よろしいのですか。これはまだ未証明の仮説です」
「未証明だからこそ、見なかったことにする方が怖い」
エミールは、リゼットを見た。
「ただし、私の署名は答えの保証ではない。『私にも分からないが、調べる価値がある』という確認印だ」
「十分です」
「この子は、分からないものを消さなかった。それだけで、私は署名する価値があると思う」
リゼットは少し黙った。
褒められた、というより。
初めて、判断の仕方を理解された気がした。
「ありがとうございます」
今度の礼は、少しだけ素直だった。
* * *
夜。
王都へ戻る馬車の中で、リゼットは古い本の写しを抱えていた。
まだ読めない箇所が多い。
分からない記号も多い。
未知補助線との関係も、確定していない。
だが、手がかりは増えた。
『旧式術式には、魔力経路を重ねる思想がある』
『現代魔法は、それを読みやすさのために捨てた可能性がある』
『未知補助線は、消された古い設計思想の残骸かもしれない』
リゼットはそこまで書いて、ペンを止めた。
「お嬢様。今日は良い出会いがありましたね」
マリーが静かに言った。
「はい」
リゼットは短く答えた。
「エミールは、分からないものを分からないまま扱える人でした」
「それは、お嬢様にとって良い方という意味でございますね」
「はい」
マリーは微笑んだ。
サイラスは向かいで目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
「リゼット」
「はい」
「王太子殿下への接触計画だが」
マリーの肩が跳ねた。
「まだ実行しません」
リゼットは先に答えた。
サイラスが片目を開ける。
「そうか」
「はい。現時点では、未知補助線の報告書と、旧式術式の写しを整理する方が先です。王太子殿下に会うなら、感情ではなく、資料で話せる状態にする必要があります」
「……成長したな」
「五歳ですので」
「そういう意味ではない」
サイラスは小さく笑った。
マリーも、少しだけ息をついた。
禁書庫も、古代魔導書も、まだ遠い。
王太子ルイスも、まだ向こう側にいる。
けれど今日、リゼットは初めて出会った。
同じ目で、魔法陣を見る人に。
それは、彼女の研究が一人きりではなくなる、小さな始まりだった。




