五歳の戦略立案
静かな私室に、羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが響いていた。
カリカリ、カリカリ。
一定のテンポで刻まれるその音は、どこか精密な機械の駆動音に似ている。
ただし、その駆動音は、四半刻ごとに止まる。
リゼットが、右手を開いたり閉じたりするからである。
(……握力が、切れました)
五歳の手は、彼女の思考に、まったく追いついてくれない。指の付け根が張り、親指の腹が熱を持つ。放っておくと、字が右下へ流れ始める。流れ始めた字は、後で自分が読めない。
だから彼女は、書く前に決めていた。
『一項目ごとに、手を開く』
『字が流れたら、その行は破棄』
『三十行で、一度休む』
自分の手を、実験装置と同じ扱いにしていた。
消耗する部品には、点検の周期を決める。それだけのことである。
マリーは、その様子を扉の隙間から見て、そっと胸を押さえた。
(……お嬢様。それは、休むと申しません。手の、管理と申します)
机に向かうリゼットの頭の中では、先ほど読み終えた恋愛小説『運命の恋人たち』から得た情報が、次々と整理されていた。
乙女ゲーム。
悪役令嬢。
王太子ルイス。
破滅ルート。
どれも聞き捨てならない単語である。
ただし、リゼットが一番問題視したのは、断罪でも国外追放でもなかった。
(研究環境の喪失。それが最大の問題です)
国外追放されれば、侯爵家の図書室は使えない。
王都の書店にも、王立学院の資料にも近づきにくくなる。
資金源も失う。
つまり、魔法陣研究が止まる。
それは困る。
非常に困る。
リゼットは新しい羊皮紙の最上段に、端正な文字で題名を書いた。
『研究環境維持および将来障害回避計画』
少し考えて、下に小さく項目を足す。
『王太子ルイス接触計画:将来検討』
『接触成功率:不明』
『必要準備期間:数年』
『最大リスク:不敬罪』
五歳児の机に置かれるには、あまりにも物騒な進行管理表だった。
さらに横に、小さく注記を足す。
『恋愛要素は参考資料扱い』
(小説の情報は、予言ではありません。ですが、登場人物と条件が一致しすぎている以上、将来発生し得るリスクとして扱うべきです)
そこまで書いて、ペン先が、一度だけ止まった。
筋書きは、リスクとして処理できる。処理できないのは、その手前の一点だった。
(……そもそも、なぜ、あれが本になっているのですか)
前世で同僚が愚痴っていた、画面の中の物語。それが、こちらの世界で、紙に刷られ、業者の荷に紛れ、五歳の子供の机に届く。
偶然にしては、経路が多すぎる。
リゼットは余白に、小さく一行だけ足した。
『未解決:なぜ、あの本が、この世界に刷られて存在するのか』
『検証手段:現時点でなし。保留』
(保留は、忘却ではありません)
いつか、材料が揃った時に、必ず戻ってくる。
そのための、一行だった。
リゼットは箇条書きで思考を整理していく。
前世で培った、仕様整理の手法だった。
『目的1:研究環境を維持する』
『目的2:王立学院の上級専門書、宮廷魔術師の論文へアクセスする』
『目的2補足:未知記号の意味を解明する』
『目的3:小説に記載された破滅条件を回避する』
書いてから、リゼットは期限の欄を足した。
小説の記述では、ヒロインが平民特待生として王立学院に入るところから、物語が動き出す。学院の入学年齢は十五。今の自分は、五歳。
『猶予:十年』
十年。
前世の感覚で言えば、大規模改修の工期としては、決して長くない。だが、五歳の子供が読み書きと立場を手に入れるには、じゅうぶんすぎる。
(十年あれば、たいていの前提条件は、満たせます)
問題は、破滅の期日だけが決まっていて、こちらの進捗が未定であることだった。
ここまでは明快だ。
問題は、どうやって達成するか。
リゼットはペン先を軽く止め、すぐに候補を書き出した。
案1:父に追加予算を申請し続ける
→短期的には有効。ただし、入手できる資料に限界あり。
案2:王立学院の関係者に接触する
→有効。ただし、五歳児の発言は信用されにくい。
案3:宮廷魔術師へ手紙を書く
→却下。現時点では無名すぎる。読まれない可能性が高い。
案4:王太子ルイスとの接点を作る
→将来的には有効。ただし、準備なしで接触するのは危険。
リゼットは案4に丸をつけた。
そして、その横に大きく書き添える。
『前提条件:実績が必要』
(王太子は次期国王。国家中枢に最も近い人物です。接点を持てれば、王立学院や宮廷資料への道が開ける可能性がある)
だが、いきなり近づいても意味はない。
小説の情報が正しいなら、ルイスは理知的で、正義感が強く、国家の利益を重んじる人物として描かれている。
ならば、感情ではなく利益で話すべきだ。
(私が国家にとって有益な人材であると証明できれば、相手も話を聞く理由ができます)
リゼットは、さらに書き進めた。
『実行手順』
『1.小規模な実績を作る』
『2.成果を数値で示す』
『3.父を通じて、王都または学院関係者へ情報を流す』
『4.王太子に届く可能性のある経路を探す』
恋愛小説の甘い運命は、リゼットの手にかかれば業務計画書である。
ただし、机の隅に書き写した未知の記号だけは、業務計画書に落とし込めなかった。
分類不能。
用途不明。
既存術式との接続条件も不明。
その空白が、どうにも気持ち悪い。
マリーが見たら泣く。
たぶん泣く。
リゼットは最後に、もう一項目を書き足した。
『注意:恋愛感情は変数として扱わない』
恋愛感情。
好感度。
運命の出会い。
どれも不確定要素が大きすぎる。
計画に入れるには危険だった。
「よし。基本方針は決まりました」
リゼットは満足げに頷いた。
その時。
「……あの、お嬢様?」
背後から、ひどく震える声がした。
振り返ると、おやつの紅茶とクッキーを乗せたワゴンを押したマリーが、幽霊のような顔で立っていた。
どうやら、計画書を後ろから見てしまったらしい。
「ああ、マリー。ちょうどよかったです。今後の活動方針がまとまりました。お茶を飲みながら目を通してください」
「お、お嬢様……私、今、とんでもない文言を見てしまった気がするのですが……」
マリーの視線は、羊皮紙に釘付けである。
「『おうたいしるいすとのせってんをつくる』……?」
ひらがなを読むようなたどたどしさだった。
「はい。将来的に、王立学院や宮廷資料へ近づくための経路候補です」
「経路候補!? お相手は王太子殿下でございますよ!? 道や階段のように扱ってよいお方ではありません!」
「もちろん、道ではありません。交渉相手です」
「余計に駄目です!」
マリーは両手で頭を抱えた。
ただ、今回はすぐに泣き崩れなかった。
彼女も学習している。
泣いても止まらない。
ならば、まず上司に報告するべきだ。
「お嬢様。その計画書、旦那様にもご確認いただきましょう」
「構いません。第三者レビューは有益です」
「だ、第三者レビュー……」
マリーは深呼吸し、廊下へ向かった。
数分後。
父サイラスが、すでに嫌な予感を顔に浮かべて部屋へ入ってきた。
「リゼット。また何か計画書を書いたと聞いたが」
「はい。研究環境維持と将来障害回避のための基本計画です」
「五歳の娘から聞く言葉ではないな」
サイラスはそう言いながらも、羊皮紙に目を落とした。
『目的』
『障害』
『実行手順』
『王太子ルイスとの接点』
『恋愛感情は変数として扱わない』
読み進めるほど、サイラスの表情から血の気が引いていく。
「……リゼット」
「はい」
「王太子殿下を研究資料への経路として扱うのは、かなり危うい表現だ」
「では、表現を改めます。『国家中枢への正式な連絡経路候補』」
「そういう問題ではない」
サイラスは額を押さえた。
だが、完全に否定することもできなかった。
リゼットは王太子へ今すぐ突撃すると言っているわけではない。
まず実績を作り、父を通じて情報を流し、正式な接点を探す。
危険ではある。
しかし、以前よりはだいぶ現実的だった。
以前のリゼットの発言は、意味不明だった。
今のリゼットの計画は、理解できる。
理解できる分だけ、危険だった。
それがまた怖い。
「それで、その実績とは何をするつもりだ?」
「屋敷の魔法陣を点検します」
リゼットは即答した。
「シルヴァーヌ侯爵邸には、照明、暖房、水回り、警備結界など、生活用の魔法陣が多数敷設されています。まずはそれらを低出力で検証し、非効率な設計を改善します」
「待ちなさい。屋敷の魔法陣を勝手にいじるのは危険だ」
「勝手には行いません。お父様の許可を取り、記録係と安全確認係を置きます。実験は模型術式から始め、実物に触れる前に計算結果を提出します」
サイラスは黙った。
前回の件で、リゼットが失敗を記録し、危険を切り分ける能力を持っていることは分かっている。
止めるべきか。
管理下でやらせるべきか。
領主としての判断は、後者だった。
「……条件をつける」
「どうぞ」
「実物の魔法陣には、私か信頼できる魔術師の立ち会いなしで触れないこと。実験記録はすべて提出すること。屋敷の安全に関わる陣は、最後まで触らないこと」
「妥当です」
リゼットは頷いた。
「では、まず照明用の陣から始めます。成果が数値化しやすいので。加えて、未知記号と似た補助構造がないかも確認します」
「もう始める気か」
「はい。早い方がいいです」
五歳の娘からの、あまりにも堂々とした業務提案。
サイラスは深く息を吐いた。
(誰だ、こんな娘に育てたのは)
答えは、あまり考えたくなかった。
「……設計図の写しを用意させよう。ただし、今日は見るだけだ。実験は明日以降にしなさい」
「ありがとうございます、お父様」
リゼットは綺麗にお辞儀をした。
そしてすぐに、新しい羊皮紙へ題名を書き始める。
『侯爵邸魔法陣・点検チェックリスト』
マリーはそれを見て、紅茶を淹れる手を止めた。
「お嬢様」
「なんですか、マリー」
「せめて、クッキーを一枚食べてから世界を変えてください」
リゼットは少し考えた。
「……分かりました。糖分補給は、脳の稼働効率に寄与します」
「そういう理由でも、食べてくださるなら結構です」
マリーは疲れた笑みで、皿を差し出した。
こうして、前世の論理モンスターたる五歳の悪役令嬢は、王太子へ接触するための第一歩として、まず自宅の照明用魔法陣から攻略することにした。
翌日。
シルヴァーヌ侯爵邸の光熱費は、危機と希望に、同時にさらされることになる。




