乙女ゲームの悪役令嬢だと気づく
父サイラスから予算をもぎ取って以来、リゼットの部屋には王都中から集められた本が運び込まれるようになった。
魔導書。
上級専門書の写本。
古い論文集。
王立学院で使われているらしい講義録。
机の上には、模型術式で現れた見知らぬ記号の写しが置かれている。
リゼットはそれを横目に、届いた本を一冊ずつ確認していた。
分からないものは嫌いではない。
だが、分からないまま放置されるものは嫌いだった。
「……やはり、一般流通している本ではここまでですね」
リゼットは読みかけの論文集を閉じた。
「基礎理論よりは踏み込んでいますが、肝心な部分になると急に曖昧になる。まるで、そこだけ誰かが削ったようです」
分からない。
だから面白い。
リゼットは未読の山から、次の一冊を手に取った。
だが、その本は妙だった。
革装丁でもない。
羊皮紙でもない。
魔導書特有のインクと古紙の匂いもしない。
表紙には、金箔押しの装飾。
そして、見つめ合う男女の甘ったるい絵。
タイトルは『運命の恋人たち』。
どう見ても、魔導書ではなかった。
「……なんですか、これは」
リゼットは眉をひそめた。
(業者の梱包ミスでしょうか。あるいは、屋敷の誰かの私物が混ざった?)
内容を確認する価値は低そうだ。
そう判断しかけた、その時。
がちゃり、と扉が開いた。
「お嬢様、新しいシーツを……あっ!?」
洗濯物の籠を抱えたマリーが固まった。
視線は、リゼットの手元に釘付けである。
「お嬢様! その本は……!」
「マリー。魔導書の山にこれが混入していました。あなたの私物ですか?」
「ち、違います! それは、その、巷で流行っている恋愛小説の類でして! 五歳のお嬢様がお読みになるような本ではございません! さあ、こちらへ!」
マリーが慌てて駆け寄ってくる。
その反応で、リゼットの興味がわずかに動いた。
(恋愛小説。つまり、この世界の大衆娯楽。物語構造を知る資料としては、まったく無価値とも言い切れませんね)
「少しだけ確認します」
「なりません! 恋愛小説でございますよ!?」
「恋愛描写に興味はありません。構造を見ます」
「構造で読むものではございません!」
マリーの制止を横に、リゼットは表紙を開いた。
さすがに魔導書のように読み飛ばすわけにはいかない。
人間関係の流れは、術式より無駄が多い。
無駄が多いものほど、全体像をつかむのに少し時間がかかる。
リゼットは数ページずつ確認し、登場人物の相関図を頭の中に組み立てていった。
平民でありながら、希少な光属性の魔力を持って生まれた少女、アリス。
王立学院に特待生として入学し、身分差を越えて貴族の少年たちと絆を深めていく。
中心にいるのは、王太子ルイス。
甘く、切なく、運命的。
少なくとも、本文はそう主張していた。
リゼットの感想は違う。
(意思決定の根拠が曖昧すぎます。なぜそこで泣くのですか。なぜそこで抱きしめるのですか。会議を開いて条件を整理した方が早いのでは?)
恋愛小説に向かって、五歳児が真顔で改善案を出している。
(お嬢様は恋愛小説を読んでいるはずなのに、なぜ人物相関図を作っていらっしゃるのでしょう……)
マリーは心の中で悲鳴を上げた。
そして、もう見なかったことにした。
だが、物語の後半に差しかかったところで。
リゼットの指が止まった。
ヒロインのアリスを嫉妬からいじめ抜く、侯爵家の悪役令嬢。
銀灰色の髪。
薄紫の瞳。
高慢で冷酷。
名前は、リゼット・ド・シルヴァーヌ。
「…………」
リゼットは、そっと本を閉じた。
表紙を見た。
もう一度、開いた。
該当ページを確認する。
前のページへ戻る。
さらに次のページへ進む。
銀灰色の髪。
薄紫の瞳。
侯爵家の令嬢。
やはり、書いてある。
リゼット・ド・シルヴァーヌ。
およそ十秒、完全な沈黙が流れた。
「お、お嬢様? どうかなさいましたか?」
マリーが恐る恐る声をかける。
リゼットの頭の中では、前世の記憶と、今読んだ物語がゆっくり結びつき始めていた。
(どこかで聞いた構図ですね)
平民の少女。
複数の貴族子息。
攻略対象のように配置された少年たち。
その中心にいる王太子。
そして、物語を邪魔する悪役令嬢。
(……攻略対象?)
そこで、ようやく前世の記憶が一つ引っかかった。
同僚のプログラマーが、残業中によく愚痴っていた。
女性向け恋愛シミュレーション。
乙女ゲーム。
好感度。
フラグ分岐。
悪役令嬢ルート。
その同僚は、分岐確認が地獄だと言っていた。
リゼットは、当時あまり興味を持たなかった。
人間関係を数値で管理するなら、最初から仕様書をきちんと書けばいいのに、と思っていたからだ。
(……つまり、この構造は乙女ゲームに近い)
(この本が未来そのものを示すとは限りません。小説です。誤差も脚色もあるはず)
それでも、リゼットの頭の隅では、あの未知の記号が引っかかり続けていた。
既存理論にない記号。
既存の物語に、自分の名前がある小説。
どちらも、偶然で片付けるには気持ちが悪い。
リゼットは、机の上に本を置いた。
(ですが、登場人物の名前、家名、外見、立場が一致しすぎている。偶然として処理するには、確率が低い)
つまりこれは、予言書ではない。
だが、無視していい資料でもない。
未来の可能性を示す、雑な仕様書。
そのくらいの扱いが妥当だ。
「お嬢様、やはりそのような本は……」
マリーが本を取り上げようと手を伸ばす。
リゼットは静かに本を押さえた。
「いいえ、マリー。これは有益な資料です」
「……へ?」
「信頼度は低いですが、将来の障害になり得る条件が含まれています。没収しないでください」
「信頼度……障害……?」
マリーは、恋愛小説に向けられるべきではない単語を聞いた顔になった。
それでも、リゼットが真面目すぎるほど真面目なので、最終的には引き下がる。
(どうせお嬢様のことです。恋愛小説の男女の機微など、読み取れるはずがございません)
その判断は、正しくもあり、間違ってもいた。
マリーが部屋を出ていくと、リゼットは新しい羊皮紙を取り出した。
まず、登場人物を書き出す。
アリス。
王太子ルイス。
その他の貴族子息たち。
そして、悪役令嬢リゼット・ド・シルヴァーヌ。
(破滅条件は、ヒロインへの加害。王太子との敵対。貴族社会での孤立。なるほど、典型的な排除ルートですね)
ヒロインのアリスをいじめなければいい。
それは当然だ。
他人の恋愛に割く時間などない。
問題は、王太子ルイスだった。
(ルイス・アルベール・エランテ。王太子。次期国王。国家中枢に最も近い人物)
王立学院の専門書。
宮廷魔術師の論文。
王宮に保管されているはずの、一般には出回らない資料。
そこへ近づくための接点として、王太子の存在は大きい。
ただし、リゼットはここで一度ペンを止めた。
(短絡的に接近するのは危険です。小説の通りなら、彼は恋愛感情と正義感で行動する可能性がある。情緒で動く相手は、予測が難しい)
恋愛感情で好感度を上げる。
そんな曖昧な手段は論外だ。
必要なのは、利害。
契約。
相手が手放すには惜しい価値。
(私が彼にとって有益な存在になれば、敵対する理由は減ります。同時に、王立学院や宮廷資料への道も開ける可能性がある)
破滅回避。
研究環境の維持。
上位資料へのアクセス。
三つの目的が、一本の線でつながった。
リゼットは満足げに頷き、羊皮紙の上に見出しを書いた。
『王太子ルイスに対する接触計画案』
続けて、リゼットは空欄を三つ作った。
『接触成功確率:不明』
『想定拒否率:高』
『必要実績:未定』
五歳児の恋愛小説読書感想文としては、あまりにも業務色が強い。
少し考えて、横にもう一つ書き足す。
『ただし恋愛要素は不要』
「まずは情報収集ですね。王太子の性格、興味、現在の教育内容、利用可能な交渉材料。最低限、それくらいは揃えなければ」
五歳の幼女は、恋愛小説の甘い運命を、戦略資料として分解し始めた。
その瞳は、新しい魔法陣の欠陥を見つけた時と同じように、静かに輝いていた。




