父親(侯爵)、現状報告書を受け取る
シルヴァーヌ侯爵家の朝は、いつも静かだった。
磨き込まれたマホガニーの長いダイニングテーブル。
焼きたての白パンの香り。
湯気の立つコンソメスープ。
季節の果物。
窓から差し込む朝日が、クリスタルグラスを通してきらめいている。
優雅で、穏やかで、いかにも侯爵家らしい朝。
長いテーブルの端に、誰も座らない椅子が一脚ある。
三年前に病で亡くなった、リゼットの母のものだ。
片づけよう、とサイラスが言い出したことは、一度もない。
ただし、当主サイラス・ド・シルヴァーヌの胃だけは、まったく穏やかではなかった。
(もう一ヶ月になる。リゼットが図書室にこもり始めてから)
サイラスは朝届けられた報告書に目を通しながら、淹れたてのコーヒーを口にした。
苦い。
コーヒーの味なのか、現実の味なのか、もはや判断がつかない。
一週間ですべての家庭教師を論破して卒業。
その後は、図書室にある魔法書を一冊ずつ分解するように解析。先日の模型術式で現れた見知らぬ記号についても、ずっと調べ続けている。
先日、恐る恐る覗いた図書室で見た、付箋だらけの魔導書の山。
あれは夢にまで出てきた。
夢の中でも本に付箋が刺さっていた。
かなり嫌な夢だった。
「おはようございます、お父様」
凛としているのに、どこか抑揚の薄い声が食堂に響いた。
顔を上げると、フリルのついた朝のドレスを着たリゼットが、きちんと歩み寄ってくる。
一歩後ろには、胃薬を手放せない顔のマリーが控えていた。
「ああ、おはよう、リゼット。今朝もよく眠れたかい?」
「睡眠は六時間確保しました。脳の疲労回復には十分です」
「それはよかった」
五歳の娘から返ってくる言葉ではない。
だがサイラスは、頬が引きつりそうになるのをどうにか抑えた。
リゼットはサイラスの右隣に座った。
そして朝食には目もくれず、持参した羊皮紙の束をテーブルに置く。
どん、と。
パンより重い音がした。
「お父様。本日は、今後の私の活動方針に関する現状報告と、それに伴う予算申請の承認をお願いしたく存じます」
「予算申請……?」
朝食の席で聞く言葉ではない。
少なくとも、五歳の娘から聞く言葉ではない。
「はい。こちらが『シルヴァーヌ侯爵家における魔導書調達の現状報告および予算申請書』です」
リゼットは小さな両手で羊皮紙の束を差し出した。
サイラスは恐る恐る受け取る。
一番上には、整然とした文字で箇条書きが並んでいた。
『1.当家の蔵書である魔法関連書籍のうち、基礎理論に関わる主要書籍は、昨日をもって解析を完了しました』
(本当に一ヶ月で主要書籍を解析したのか……)
『2.読解の過程で、現代魔法理論の基礎構文における致命的な不整合を十七箇所発見しました。詳細は【別紙1】をご参照ください』
(我が家の蔵書が、娘に完全否定されたということか)
『3.現在の蔵書は入門・基礎理論に偏っており、これ以上の検証には不足があります。さらなる研究のため、王立学院で用いられる上級専門書、宮廷魔術師の論文集、および王都の専門店や古書市場に流通する魔導書を継続的に調達したい』
(つまり、本が足りないから買ってくれ、と)
『4.調達の維持費は月額金貨十五枚を見込んでいます。費用対効果は【別紙2】にまとめました』
サイラスは沈黙した。
文書の構成が、あまりにも見事だった。
五歳児のお願いではない。
経験豊かな文官の稟議書である。
別紙1には、不整合の指摘が七ページにわたって詰まっていた。さらに末尾には、模型術式に現れた未知の記号が丁寧に写し取られている。
その記号の欄だけ、結論が空白だった。
リゼットの細い字で、『現時点では解読不能。既存記号体系との対応なし』と書かれている。
別紙2には、王都の主要書店、学院関係者経由で入手できる写本、希少書の流通経路、馬車輸送料の最適ルートまで、表計算のように整理されている。
「月に金貨十五枚……?」
サイラスは声に出して確かめた。
金貨十五枚。
平民四人家族が一年は暮らせる金額である。
侯爵家の財として、出せない額ではない。領地の年貢を思えば、痛手というほどでもない。
ただし。
五歳の娘の"自由研究費"として、毎月それを計上した侯爵家は、この国の歴史に、おそらく一つもない。
「はい」
リゼットは真顔で頷いた。
「初期投資として妥当と判断しています。私が術式の最適化を進めれば、領地の農業生産性向上や、屋敷の魔力光熱費削減が見込めます。三ヶ月で元が取れる計算です」
「三ヶ月で?」
「そうです。むしろ月額金貨十五枚で研究環境を整えられるなら、かなり割安だと思います」
自信たっぷりだった。
サイラスは必死に別紙2を読み込んだ。
子どもらしい甘い見通し。
計算ミス。
都合のいい仮定。
どこかにあるはずだ。
なかった。
交渉による割引、複数店の見積もり、輸送費の圧縮。
どれも考慮されている。
削る余地がない。
サイラスはゆっくり顔を上げ、リゼットの後ろに立つマリーを見た。
マリーは静かに目を伏せ、首を横に振る。
その無言の合図は、こう言っていた。
この屋敷に、お嬢様へ論理で勝てる大人はもうおりません。
サイラスは、深い同情を込めてマリーと視線を交わした。
(お前も毎日これに付き合っているのか……ご苦労だ)
(旦那様も、お察しいたします)
主従の間に、言葉にならないため息が流れた。
サイラスは再び娘に向き直る。
リゼットの薄紫の瞳は、期待に静かに輝いていた。
本人なりには、かなりわくわくしているらしい。
(この子が何を考え、何を目指しているのか、半分も理解できない)
それでも。
(ただのわがままで本を欲しがっているわけではない。この報告書の緻密さが、それを証明している)
サイラスは深く息を吐き、コーヒーカップを手に取った。
ひと口飲む。
やはり苦い。
「……わかった」
「承認、ということですね?」
「そうだ。月に金貨十五枚。お前の研究のために用意しよう」
「ありがとうございます、お父様。必ず結果を出します」
リゼットはぱっと笑うわけでもなく、淡々と頭を下げた。
そして、ようやく冷めかけたスープにスプーンを入れる。
(よし。これで初期資金は確保できました。次は外部書庫へのアクセスですね)
もう次の計画に移っている。
サイラスはその横顔を見て、今日二杯目のコーヒーを必要とした。
* * *
予算が通った数日後。
シルヴァーヌ侯爵家には、王都中の書店や古物商から次々と木箱が届くようになった。
「お嬢様、また本が届きました」
「お疲れ様、マリー。未読の山の上に積んでおいてください」
未読の山。
そんな山が、すでに部屋の一角に存在している。
リゼットの部屋は、再び羊皮紙と魔導書で埋もれていった。
彼女は届いた本を端から高速で読み、必要な情報を吸い上げ、付箋を貼っていく。
「やはり、市場に流通している魔導書の情報には限界がありますね」
リゼットの視線が、机の隅へ滑る。
そこには、あの未知の記号だけを何十回も写した紙があった。
形は単純なのに、意味だけがどうしても取れない。
リゼットは本を積み上げながら呟いた。
「現代魔法理論を超える根本的な世界の仕組みについては、故意に検閲されているように感じます」
一般市場の情報だけでは、先へ進めない。
もっと深い知識がいる。
国家レベルで管理された文書。
王宮や王立学院の奥に眠る記録。
あるいは、禁じられた書庫。
「アクセス権が必要ですね」
五歳の幼女の思考は、ますます加速していく。
だがその日、届いた本の山の底に、奇妙な一冊が紛れ込んでいることに、リゼットはまだ気づいていなかった。
それは魔導書ではない。
王都の貴族令嬢たちの間で、密かに流行している恋愛小説だった。
そしてこの一冊が、リゼットに余計な情報をもたらす。
魔法陣とも、魔導理論とも、まるで関係がなさそうに見える情報。
けれどその小さな違和感が、後にリゼットの研究方針を大きく変えることになる。
のちに、リゼットは、この一冊を、蔵書目録に、こう分類することになる。
『最重要資料。ただし、内容は、理解不能』




