シルヴァーヌ家の魔導書、読み始める
重厚なオーク材の扉を開けると、古い紙と埃、そしてかすかなインクの匂いがリゼットを包み込んだ。
シルヴァーヌ侯爵家の東翼にある図書室。
天井まで届く本棚には、歴史書、法学書、文学書が並んでいる。
その中に混じって、先代から引き継がれた魔法書や魔導書も数十冊ほど収められていた。
王国の中堅貴族としては、十分すぎる蔵書量である。
少なくとも、普通の五歳児が相手なら。
「素晴らしい。これが、この世界の公式文献ですか」
リゼットの薄紫の瞳が、獲物を見つけた肉食獣みたいに輝いた。
迷いはない。
彼女はまっすぐ魔法・魔導の棚へ向かい、背表紙のタイトルを高速でなぞっていく。
『現代魔法基礎論』
『初級属性魔法陣の書き方』
『生活を彩る魔導具の仕組み』
(まずは入門書からですね。現行の魔法理論がどんな規則で書かれているのか、仕様を完全に把握しなければ)
リゼットは踏み台を持ち出し、手近にあった分厚い『現代魔法基礎論』を引っ張り出した。
読書机にどすんと置く。
正確には、置くまでに二度、落としかけた。
(……重い)
五歳の腕は、彼女の想定より、はるかに非力だった。
そして、マリーが用意してくれたインク壺と白紙の束を並べた。
白紙といっても、羊皮紙ではない。町の工房で漉かれた、安い紙である。獣皮の羊皮紙は一枚が高く、正式な書状や魔導書の写しにしか使わない。捨てる前提で書き潰すなら、こちらでいい。
「お嬢様。羊皮紙をお持ちしましょうか」
「不要です。書き損じる前提の紙に、羊皮紙は過剰です」
マリーは、その基準の正しさを否定できず、代わりに紙の追加注文を手配することになった。
羽ペンを握る。
握った瞬間に、問題が判明した。
太い。長い。重い。
大人の手を前提に作られた道具は、五歳の指には、ほとんど棒である。
(前世の私は、一分間に何百字も打っていました)
今は、一行書くのに、指の付け根が痛む。
頭は、すでに三頁先を読み終えている。
手は、まだ一行目の途中にいる。
(……これは、深刻な律速です)
思考と出力の速度差。
前世では一度も直面しなかった種類の障害だった。
リゼットは羽ペンを置き、軸に白布を巻き直し、握りを太くした。それでも、書ける速さは倍にはならない。
結論は、すぐに出た。
(書く量を減らすのではなく、書かずに済む形を作ります)
この日、彼女の記録が異常なまでに簡潔で、記号だらけになった理由は、そこにあった。
美意識ではない。指が、もたなかったのである。
正確には、リゼットが用意するように強くお願いした。
マリーの認識では、ほぼ強要である。
栞代わりの細長い紙片も、机の端に積んでおく。
「さて。お手並み拝見です」
リゼットは表紙を開いた。
* * *
数日後。
侍女長のマリーは、少しだけ胸を撫で下ろしていた。
令嬢教育の教師陣をわずか一週間で全員「論破・卒業」に追い込んだ後、お嬢様はどうなってしまうのか。
正直、かなり心配していた。
けれど、今のリゼットは毎日図書室にこもり、静かに本を読んでいる。
奇声を上げない。
床に貼りつかない。
椅子にちょこんと座っている。
すばらしい。
平和である。
五歳のお嬢様として、たいへん愛らしい姿だった。
少なくとも、遠目には。
「お嬢様、お疲れではございませんか? 温かい紅茶と焼き菓子をお持ちしましたよ」
マリーがワゴンを押して図書室に入ると、リゼットは本から顔を上げずに答えた。
「そこに置いておいてください」
「あまり根を詰めすぎないでくださいね。難しい本ばかり読まれているようですし」
「難しい? いいえ、マリー。これは絵本より簡単です」
「はぁ……そうですか」
マリーは首を傾げながら、机の上に視線を落とした。
そして、目を丸くする。
机の上には、分厚い魔法書が一冊、開かれたまま置かれていた。
問題は、その側面である。
ページの間から、細長い紙片が何十枚も飛び出していた。
手製の付箋だ。
見た目はほとんど、紙でできた針山である。
「お、お嬢様……? この本から飛び出している紙の束は、いったい……?」
「ああ、これですか」
リゼットは『現代魔法基礎論』をぱらりと開いた。
「これは基礎中の基礎ですね。魔力というエネルギーを属性に変換し、魔法陣を通じて出力するまでの流れが書かれています。昨日からこの一冊だけを確認しています」
「こ、この一冊だけを、ですか?」
「ええ。読み飛ばすには惜しい本です。致命的なほど記述が甘い箇所が多いので、原因を一つずつ分解していました。概念説明ばかりで、具体的な数値定義がほとんどありません。なので、不足している定義や、論理が飛んでいる箇所に『欠陥発見』の印をつけています」
リゼットは付箋の貼られたページを指差した。
そこには、小さな字で容赦ない言葉が書かれている。
『魔力伝導率の係数が不明。再検証求む』
『説明が感覚論に逃げている。定義からやり直し』
「特に問題なのは、この章です」
リゼットは付箋だらけのページを叩く。
「著者は『水と土の複合魔法陣は、魔力の衝突を避けるために五つの緩衝術式を挟む必要がある』と主張しています。ですが、その前提が間違っています。魔力の位相を半波長ずらせば干渉は相殺できます。つまり、緩衝術式は一つで済む。ここだけで、魔力消費を三割以上削れるはずです」
「…………」
「つまり、この一冊だけでも、現代理論の癖がかなり見えます。著者個人の誤りではなく、体系そのものに同じ穴がある可能性が高い」
ぺらっ、ぺらっ、ぺらっ。
リゼットはマリーと会話しながら、同じページを何度も行き来していた。
「無駄ですね。……そして、ここで記号名を変える理由も不明です」
短く呟くたびに、同じ章へ新しい付箋が差し込まれていく。
マリーは静かにワゴンを後退させた。
(おとなしく本を読んでいる……? いいえ、違います。お嬢様は本を読んでいるのではありません。本を解体して、採点していらっしゃるのです……!)
平和だと思っていた図書室は、五歳の論理の怪物による著者への公開処刑場になっていた。
* * *
その日の夕方。
侯爵家の当主であり、リゼットの父であるサイラス・ド・シルヴァーヌは、執務室で一息ついていた。
銀がかった黒髪と、落ち着いた灰色の瞳。
真面目で誠実な貴族である。
「マリー。リゼットの様子はどうだ? 家庭教師の件では私にも責任がある。あの子には少し、詰め込みすぎたのかもしれん」
家庭教師たちが全滅したという報告を受けて以来、サイラスは娘の精神状態をひそかに心配していた。
「旦那様。お嬢様は、図書室で静かに本を読まれております」
そこまで言って、マリーは一拍置いた。
「ただし、読まれている本が、少々……いえ、かなり危険でございます」
「危険?」
「子供向けの絵本ではございません。魔導書でございます。しかも、付箋の数が尋常ではありません」
マリーは昨夜、何冊かの魔導書をそっと上の棚へ移動させた。
五歳の手が届かない高さである。
だが今朝には、踏み台が三つ重ねられ、その上にリゼットが乗っていた。
マリーはそこで、静かにサイラスへ報告することを決めた。
「……よし、少し顔を出してみよう」
愛娘が静かに読書をしている。
その平和な光景を想像し、サイラスはほっと息をついた。
そして図書室へ向かう。
扉を開けた。
目に飛び込んできたのは、机に積まれた難解な魔導書。
そして、一冊の本を付箋だらけにしている五歳の娘だった。
平和な光景ではなかった。
「リ、リゼット? お前、何を読んでいるんだ……?」
「あ、お父様。こんばんは」
リゼットは顔を上げ、手にしていた本を置いた。
表紙には『広域魔力結界構築論』とある。
宮廷魔術師でも頭を抱える専門書だ。
もちろん側面は、付箋で針山になっている。
「今、当家の蔵書の魔法書を確認しています。基礎書を三冊、重点的に解析しました。結界論はまだ途中ですが、理論の欠陥はいくつか見つかっています」
「三冊……いや、待ちなさい。その本は、私でも理解するのに数ヶ月はかかった専門書だぞ? もう結界論に手を出しているのか?」
「はい。ただし、完全に理解したわけではありません。読み終えるだけなら意味がありませんので、分かる箇所から術式を分解し、共通する欠陥を抽出しています。分からない箇所は、保留として分類しました」
サイラスは震える手で、付箋だらけの一冊を取った。
付箋を一つめくる。
『ここの防壁展開術式、魔力消費の計算式が間違っている。著者は算数からやり直すべき』
「……お前、この付箋は……」
「ああ、それですか。市販の魔法書というのは、どれも驚くほど設計が雑ですね。欠陥だらけの術式を平気で載せています。この通りに魔力を流せば、魔力欠乏で術者が倒れるか、暴発するかの二択です」
サイラスは青ざめた。
娘が読んでいるのは、王立学院でも使われる権威ある教科書や、歴史に名を残す魔術師の書物である。
それを五歳の娘が「算数からやり直せ」「欠陥だらけ」と斬り捨てている。
父親として、ここは止めるべきだ。
少なくとも、何もしないわけにはいかない。
「リゼット。しばらく高度な魔導書の閲覧は禁止にしよう」
「なぜですか」
返事が早い。
「危険だからだ。お前はまだ五歳だ。魔法書の内容を誤って試せば、怪我では済まない可能性もある」
「それは正しい懸念です」
リゼットはあっさり頷いた。
サイラスは少し安心しかけた。
「ですので、私は実験していません。まずは既存術式の欠陥を紙上で分解し、暴発条件を抽出しています。実証は、低出力の模型術式で行います」
安心は一秒で消えた。
「模型術式?」
「はい」
リゼットは白紙を一枚取り出し、そこに細い線で簡略化した魔法陣を描いた。
描き終えてから、外周の一点に、小さな輪をもう一つ足す。
「これは?」
「起動輪です。魔法陣は、描いただけでは動きません。魔力の入口を、術者が別に作る必要があります。──暖炉の陣が眠っているのは、まさにこれが欠けているからです」
「では、その輪を描き足せば、暖炉の陣は」
「動きます。ですので、描いていません」
サイラスは、危うく安堵しかけて、やめた。娘は「できない」と言ったのではない。「やっていない」と言ったのである。
リゼットは模型の起動輪へ、指先から、ごく微量の魔力を落とした。
紙の上に、淡い光の輪が一瞬だけ浮かんだ。
すぐに、ぷつん、と消える。
「……失敗ですね」
「リゼット!?」
「大丈夫です。意図した失敗です。元の理論通りに組むと、ここで魔力経路が詰まります。ですが、位相を半波長ずらすと——」
リゼットは隣にもう一つ、ほとんど同じ魔法陣を描いた。
たった一箇所、記号の向きが違う。
同じ量の魔力を落とす。
今度は淡い光が、きれいな円を保ったまま回り始めた。
成功。
そう見えた。
だが次の瞬間、光の輪がぐにゃりと歪んだ。
円が二重にぶれ、内側に、リゼットの描いていない小さな記号が一つ浮かび上がる。
「……おや」
「おや、ではない! 今、何か出たぞ!?」
サイラスが思わず一歩下がる。
マリーは反射的に、机の上のインク壺を抱え込んだ。
せめて床にこぼれる被害だけは防ぐ。侍女長としての判断だった。
リゼットは目を丸くしたまま、消えかける記号を凝視していた。
「……おかしいですね」
初めて、リゼットの声から断定が消えた。
「位相を半波長ずらせば、干渉は相殺されるはずでした。ですが、この記号は計算上、存在しません。私の式にも、元の魔導書にもない」
「では、失敗なのか?」
「はい。失敗です」
リゼットは即答した。
その顔は落ち込んでいない。
むしろ、ひどく真剣だった。
「私の仮説が一部崩れました。現代理論が間違っているだけではありません。私が前提にした魔力の振る舞いも、まだ足りない。術式そのものに、外から見えない層がある可能性があります」
「外から見えない層……?」
「はい。隠れていた補助記号が出た、というより、こちらの干渉に反応して、術式が勝手に不足分を生成したように見えました」
リゼットの声が、少しだけ弾む。
正しかったからではない。
分からないものが出てきたからだ。
「訂正します、お父様。私の仮説は、まだ全く完全ではありません。ですが、危険性は制御できます。今の出力なら紙が焦げる前に停止しますし、失敗条件も記録できました」
「そこは誇るところなのか……?」
「重要です。危険なのは魔導書ではありません。根拠のないまま信じることと、失敗を記録しないことです」
サイラスは言葉を失った。
叱るつもりで来た。
禁止するつもりだった。
なのに娘は、危険性を認めた上で、実験手順まで安全側に組み替えていた。
「……わかった。ただし条件がある」
「条件」
「魔力を流す実験は、私かマリーに報告してからにしなさい。屋敷の中で勝手に試すことは禁止だ」
「妥当です。では、低出力の模型術式と紙上検証は継続してよろしいですね?」
「……よろしい」
サイラスは負けを認めた。
父親としては複雑だが、領主としては、ここで止める方が損だと理解してしまった。
(私の娘は……天才なのか? いや、天才という言葉で片付けていいのか、これは?)
サイラスが疲れた足取りで図書室を後にしても、リゼットは気にしなかった。
すぐに本へ視線を戻す。
* * *
(……おかしい)
読書を再開したリゼットの胸の奥で、数日前からくすぶっていた違和感が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
彼女は、本を読む速度が速いだけではない。
本と本の間にある共通ルールを抜き出し、全体像を組み立てることに長けていた。
(この世界の現代魔法理論。確かに体系立ってはいます。ですが……何かが不自然です。美しくない)
リゼットはペンを回しながら、宙を睨んだ。
(どの本も、基礎となる術式記号の組み合わせ方は詳しく書いています。なのに、なぜその記号がその意味を持つのか、根本原理には一度も触れていない)
まるで、誰かが用意した安全な部品だけを渡され、それを使ったパズルの組み立て方だけを教えられているような感覚だった。
前世のプログラマーとしての勘が、頭の奥で警鐘を鳴らしている。
(意図的です。この魔法体系は、誰かによって意図的に制限されている。致命的な暴走を起こさせないための安全装置か。あるいは、知られては困る何かを隠すための蓋か)
リゼットの心臓が高鳴った。
与えられた安全なおもちゃで遊ぶことが目的ではない。
この制限の壁を破り、世界の根幹に触れること。
それこそが、リゼットの知的好奇心が求めるものだった。
(現代理論の本は、もういいですね。必要な基礎規則は全て抜き出しました。私が求める情報は、ここにはありません)
* * *
図書室にこもり始めてから、ちょうど一ヶ月後。
「終わりました」
リゼットは、机に置いた基礎魔導書をぱたんと閉じ、背伸びをした。
マリーが呆然と口を開けている。
「終わった、とは……?」
「当家の蔵書にある基礎系の魔法書は、一通り確認しました。特に重要な本については、術式単位で分解を終えています」
リゼットは振り返り、ずらりと並ぶ本棚を見渡した。
主要な基礎書の側面に、彼女の容赦ない付箋が突き刺さっている。
その光景は、さながらシルヴァーヌ家図書室の墓標だった。
「マリー。お父様に伝えてください」
リゼットは、薄紫の瞳を静かに燃やして告げる。
「ここにある基礎書だけでは、もう限界です。さらなる研究のため、より専門的な魔導書の調達をお願いしたい、と」
「専門的な魔導書、でございますか?」
「ええ。まずは王立学院で使われる上級専門書と、宮廷魔術師が残した論文を。現代理論の奥にある記述が必要です」
リゼットは、付箋だらけの基礎書に視線を落とした。
「基礎理論は理解しました。ですが、これは綺麗に整えられすぎている。誰かが危険な部分を削り、読みやすくした後の知識です」
薄紫の瞳が、静かに細められる。
「まずは、削られた跡を探します。王立学院の専門書か、宮廷魔術師の論文なら、手がかりが残っているかもしれません」
マリーの顔から、すうっと血の気が引いた。
彼女は壁に手をついた。
専門書、論文。まだ禁書ではない。
それでも、五歳児の口から出ていい単語ではなかった。
五歳、もうすぐ六歳。
リゼットの机の隅には、先ほどの模型術式に現れた見知らぬ記号が、何度も書き写されていた。
その記号は、シルヴァーヌ家のどの魔導書にも載っていない。
悪役令嬢リゼットによる世界の欠陥解析は、ようやく基礎の外側へ足を踏み出そうとしていた。




