令嬢教育、最速で終わらせる
シルヴァーヌ侯爵家が誇る、超一流の家庭教師陣。
礼法、歴史、語学、音楽、舞踏。
王都でも名の知られた専門家たちが、五歳になった長女リゼットのために集められていた。
彼らは皆、誇り高い教育者である。
侯爵家のご令嬢とはいえ、まだ五歳。
まずは遊びを交えながら、ゆっくり基礎を教えていけばよい。
そんなふうに、全員が穏やかな笑みを浮かべていた。
その余裕は、授業開始から五分で粉々になる。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」
応接間に並ぶ五人の教師たちの前に、リゼットが立った。
背筋はぴんと伸び、両手は上品に前で重ねられている。
見た目だけなら、たいへんよくできた五歳のご令嬢だった。
見た目だけなら。
「私事ですが、現在、早急に進めなければならない個人的な研究を抱えております。つきましては、皆様がご用意くださった令嬢教育の全課程を、本日から一週間で完全に終わらせたいと考えています」
教師たちは顔を見合わせた。
一週間。
全課程。
完全に。
言葉はわかる。
意味がわからない。
「お言葉ですが、リゼットお嬢様」
礼法と作法を担当する初老の女性教師が、やさしく微笑んだ。
五歳児のかわいらしい背伸びを受け止める、教育者の笑みである。
「淑女の教養とは、一朝一夕で身につくものではございません。歩き方一つ、お辞儀一つをとっても、日々の反復と精神の修養が必要不可欠なのです。一週間で全てを終えるなど、到底不可能ですわ」
「いいえ、可能です」
リゼットは即答した。
「歩行や礼の作法は、要するに『特定の社会的場面における、最適化された身体動作』です。関節の角度、重心移動、筋肉の出力調整。それらを物理計算として処理し、決められた通りに再現すればいい。反復が必要なのは、動きを身体に刻むためですが、私の場合は一度見れば足ります」
「……は、はい?」
女性教師が目を白黒させる。
その前で、リゼットはドレスの裾をふわりと摘み、片足を引き、膝を折った。
完璧なカーテシーだった。
背筋の角度。
首の傾け方。
ドレスの広がり。
視線の落とし方。
どれも王宮の夜会でそのまま通用するほど、隙がない。
五歳児の動きではない。
熟練の淑女を、誰かが小さく圧縮したみたいだった。
「目的は『相手への敬意の表明』と『貴族社会の作法の遵守』ですね。理解しました。相手の身分によって角度を調整する必要があるでしょうから、その一覧表だけ後で提出してください。はい、礼法と作法は終わりました。次の方、どうぞ」
「お、終わっ……ええっ!?」
女性教師が腰を抜かしかける。
その後ろで、マリーは両手で顔を覆った。
始まってしまった。
昨日からずっと続いている、お嬢様の暴走が。
* * *
そこからの六日間は、家庭教師たちにとって悪夢だった。
「次は歴史と語学ですね。テキストを出してください」
「は、はい。こちらが王国の建国史と、隣国の基本語学の……って、お嬢様、パラパラめくっているだけで読めているのですか!?」
歴史と語学を担当する初老の学者が、悲鳴を上げた。
リゼットは分厚い教科書を、目で写し取るような速度でめくっていた。
ページが読まれているのか、風を送られているだけなのか、横から見ている者には判断できない。
「歴史年表は知識の整理です。因果関係を結びつけて記憶に格納すれば済みます。語学はさらに単純です。構文規則と語彙を紐付け、頭の中で組み立てればいい。はい、この一冊は読み込み完了しました。テストをどうぞ」
「そ、そんな馬鹿な……では、建国暦二一四年に起きた『銀の盟約』の意義を、隣国語で要約してみてください!」
「『銀の盟約』は、北方国境における魔物被害の拡大を防ぐため、両国が魔力資源の共有と軍事同盟を締結した条約です。これにより、後の『大魔導防壁』の基盤が構築されました」
流暢な隣国語だった。
「ちなみに、当時の条約文の第三項には、魔力供給の分配率に関して論理的な欠陥が見受けられます。私ならこう修正します」
「ひぃぃっ! 発音が完璧な上に、条約の欠陥まで指摘しおった!」
「はい、終わりました。歴史と語学の残りのテキストは、明日の朝までに全て読破しておきます。次の方」
学者が白目を剥いて倒れた。
マリーの胃痛が、また一段階進んだ。
舞踏の時間は、さらに無慈悲だった。
「ワルツのステップですね。ワン、ツー、スリー。重心移動と足運びの反復。相手の動きに対して、決められた動作を返す仕組みです」
リゼットは、教師が一度見せただけのステップを、寸分の狂いもなく再現した。
「相手の足を踏むのは、空間認識の計算が甘いから発生します。常に自分と相手の位置を把握していれば、衝突は起きません。はい、基本ステップは全パターン網羅しました。次」
舞踏教師は壁に向かって泣き崩れた。
「私の二十年の修行は一体……」
気の毒だが、相手が悪かった。
* * *
そんな中、唯一リゼットの歩みがほんの数分だけ止まったのは、音楽の時間だった。
「ピアノ……いえ、この世界では鍵盤琴と呼ぶのですね。打鍵によって弦を弾き、音を鳴らす仕組み」
リゼットは、美しい装飾が施された鍵盤楽器の前に座った。
最初は、ただ決められた鍵盤を楽譜通りに叩くだけの作業だと思っていた。
実際、前世で鍛えた指先の反射神経は健在で、教師が「まずは簡単な曲から」と置いた楽譜を、初見で一音の狂いもなく弾ききってしまった。
「……素晴らしい。ですがお嬢様、音楽は正確に弾くだけでは足りません。そこに感情や響きを乗せることが……」
「感情という不確定要素を乗せる意味がわかりません。楽譜通りに実行するのが、最も誤りが少ないはずです」
「い、いえ、ですから、和音の響き合いというものがですね……」
音楽教師はリゼットの隣に座り、いくつかの鍵盤を同時に叩いた。
ポォーン、と。
豊かな和音が、応接間の空気を震わせる。
その瞬間、リゼットの手が止まった。
(……なんだ、今の波形は?)
リゼットは目を丸くして、鍵盤と、空中に残る余韻を見つめた。
(音が干渉している。単一の振動が重なって、新しい波の形を作っている。待ってください。この振動のパターン、魔力の波動にかなり近いのでは?)
無意識のうちに、リゼットは教師が弾いたのと同じ和音を弾き返した。
空気が震える。
音の干渉が、魔力の干渉とよく似た法則で振る舞っている。
「……なるほど。和音の構成。不協和音と協和音。これは、魔法陣における術式同士の共鳴と反発を音で試す、非常に優れた実験台です。音階を魔力の波長に置き換えれば、新しい魔法陣の干渉を、魔力を使わずに確かめられるかもしれません」
リゼットの薄紫の瞳が、ぎらりと光った。
「先生。この楽器の音域と、和音の構成規則について、詳しい資料をいただけますか。特に、減七の和音が解決へ向かう際の波形変化について……」
「お、お嬢様が初めて音楽に興味を持ってくださった……! ええ、ええ、いくらでも教えましょう!」
音楽教師が感動の涙を流した。
その喜びは、長く続かなかった。
「資料さえいただければ、あとは自分で解析します。興味深い発見でしたが、今は魔法陣の直接研究が優先です。音楽の構造は理解しましたので、実技のお稽古はこれで終了とさせていただきます。ありがとうございました」
「えええええええ!?」
わずか十五分。
音楽の授業も、強制終了である。
* * *
そして、一週間後。
侯爵家の応接間には、魂の抜けかけた家庭教師たちが整列していた。
「……侯爵様。誠に遺憾ながら、我々からリゼットお嬢様に教えられることは、もう何一つ残っておりません……」
「お嬢様は、天才を通り越して、もはや何かの概念です……」
憔悴しきった教師たちの報告を受け、父サイラス侯爵は「……そうか」とだけ言った。
そして震える手で頭痛薬を飲んだ。
大人たちの疲弊など、リゼットには関係ない。
彼女はマリーに向かって、晴れやかな声で宣言した。
「終わりました。約束通り、令嬢教育の全課程を最速で終わらせました。これにて、私に課せられた義務は全て果たした、という認識で相違ありませんね?」
「お、お嬢様……。確かに、先生方は皆様『もう教えることはない』と仰って帰られましたが……」
マリーは眩暈を覚えながら、よろよろ立ち上がった。
「淑女としての知識は身についたかもしれません。ですが、その、お心の部分というか、情緒と申しますか……」
「情緒は必要に応じて出力します」
「それが駄目だと申し上げているのですぅぅぅ……」
泣き崩れるマリーを横目に、リゼットは踵を返した。
「では、私はこれより研究の時間に入ります」
「あ、お待ちくださいお嬢様! もう午後三時です。お茶のお時間ですよ! 今日はお嬢様のお好きな焼き菓子が……!」
「後で」
即答だった。
これが、今後十数年にわたって侯爵家で、そしてのちには王宮で繰り返されることになる、
「お茶のお時間です」
「後で」
という不毛な攻防の始まりであった。
(さて、邪魔な用件は全て片付きました。ここからが本番です)
リゼットの足取りは、前世を含めても記憶にないほど軽い。
向かった先は、侯爵邸の東翼。
重厚なオーク材の扉の前に立ち、そのノブに手をかける。
シルヴァーヌ侯爵家、図書室。
先代から引き継がれた、数百冊の魔法書や文献が眠る知識の宝庫。
「まずは、現代魔法理論の基礎を全て頭に叩き込みます」
リゼットは目を輝かせ、図書室の扉を勢いよく押し開けた。




