侍女長マリー、発狂寸前
翌朝。
「……………………は?」
侍女長マリーは、扉を開けた姿勢のまま固まった。
お嬢様の部屋が、一晩で別物になっていた。
いや、正確に言おう。
惨状である。
焦げたインクと羊皮紙の匂いが、むっと鼻を刺す。
紙、紙、紙。
純白の絨毯は反故紙で埋まり、ベッドの天蓋からは紙が暖簾のように垂れている。
しかも、そのすべてに奇妙な幾何学模様が描かれていた。
魔法陣である。
「……お嬢様?」
昨日の光景が、マリーの脳裏に蘇った。
応接間の床に貼りつき、意味のわからない言葉を次々に口走っていた主人の姿。
悪夢なら、どうか覚めてほしい。
けれど現実は、だいたい悪夢より容赦がない。
書き物机の端には、うっすら焦げ跡。
紙の山の一番上にある一枚は、ぼんやり光っている。
さらに、床に散らばった魔法陣のいくつかが、呼吸するみたいに明滅していた。
「…………え? 机が焦げて……紙が光って……?」
マリーの思考が停止した。
「お、おおおお嬢、様……?」
トレイを持つ手が震える。
ティーカップがカチャカチャと悲鳴を上げた。
すると、机の横に積まれた紙の山から、ひょっこり小さな頭が顔を出す。
「ああ、マリー。おはようございます」
振り返ったリゼットを見て、マリーは危うくトレイを落としかけた。
銀灰色の髪はぼさぼさ。
寝間着のネグリジェはインクまみれ。
五歳の可愛らしい顔には、大人顔負けの立派なクマ。
両手の指先は真っ黒。
なのに、薄紫の瞳だけはぎらぎら輝いている。
どう見ても、徹夜明けの研究者の目だった。
五歳児がしていい目ではない。
「お、お嬢様!? そのお姿は……! それに、このお部屋はいったい何事ですか!?」
マリーは震える指で机を示した。
「机が、焦げていますよ!?」
「ああ、それですか」
リゼットは焦げ跡をちらりと見ただけで、さらりと言った。
「昨夜、改良した術式を紙の上で試したら、少し熱が出まして。問題ありません。隣の光っている紙は、術式が正常に起動した証明です。魔力消費も計算通りでした」
「き、起動……!? お嬢様が、昨夜、お一人で、お部屋の中で、魔法を……!?」
「術式と言ってください。魔法は概念が広すぎます」
訂正するところは、そこではない。
だがリゼットは本気である。
(十五年この家に仕えてきた。旦那様の若い頃の悪戯にも動じなかった。奥様のドレスが急に燃えた時も、冷静に対処した。けれど——)
マリーの中で、十五年分の侍女長としての矜持が、みしみし音を立てた。
「来るのが遅かったら、お部屋が燃えていたかもしれません……!」
「燃えませんでした。私の計算は正確ですから」
「正確かどうかの問題ではありませんっ!」
マリーは深呼吸した。
深呼吸したところで、目の前の現実は何も改善しなかった。
「お嬢様。落ち着いてお聞きください」
リゼットは手元の紙束をぺしぺし叩いた。
「昨夜、記憶を頼りに応接間の暖炉の魔法陣を再現しました。それから構造の基礎解析をしていたのですが、おかげで現行の魔法陣にある術式設計の致命的な欠陥を特定できました」
「てつ……けっかん……?」
「ええ。昨日は取り乱して失礼しました。あの魔法陣を見た瞬間、設計のひどさに感情が乱れまして。ですが、一晩かけて冷静に解析した結果、原因がわかりました」
リゼットは、インクまみれの小さな指で一枚の紙を突きつけた。
「見てください。この術式、動くことは動きます。ですが、経路の中に意味のない待ち処理が三つあります」
マリーは見た。
見たが、当然わからない。
「本来なら魔力十で出る熱量に、魔力三十も使っています。しかも安全装置がありません。外気温が下がれば、暖炉ごと爆発します」
五歳の幼女が、朝の挨拶の延長みたいな顔で爆発の話をしている。
マリーの顔色が、すうっと青ざめた。
「ば、爆発!? お嬢様、何を仰っているのですか! 魔法陣というのは、高名な魔術師様たちが何百年もかけて完成させた神聖なもので……!」
「神聖かどうかは知りませんが、計算式が間違っているのは事実です」
リゼットは容赦なく言い切り、別の紙を引っ張り出した。
「なので、無駄な記述をすべて削ぎ落とし、最短経路で熱変換する改良版を設計しました。これなら魔力消費は従来の三分の一。暴走防止の安全装置も入れましたから、爆発の危険はありません」
「あ、ありません、ではなく……」
「実際に見てください」
聞いていない。
リゼットは机の上から二枚の紙を取り出した。
「こちらが現行術式の再現です。魔力十で起動します」
指先に微かな魔力を込める。
紙の上の術式が、じわりと橙色に光った。
「こちらが私の改良版。同じく魔力十です」
もう一枚に触れる。
白銀の光が、先ほどの三倍の明るさで部屋を照らした。
同じ魔力。
三倍の出力。
「マリー。これが設計の差です」
「…………」
「マリー? どうかしましたか?」
返事はなかった。
マリーはトレイを近くのテーブルに置き、ゆっくりと部屋を見回した。
紙の山。
焦げ跡。
光る魔法陣。
インクまみれの五歳の主人。
そして、本人だけは達成感に満ちている。
十五年分の侍女長としての矜持が、ついに崩れ落ちた。
「お嬢様ぁぁぁぁぁあっ!!」
マリーはその場に泣き崩れた。
「どうしてしまわれたのですか! 昨日からずっと、難しい言葉ばかり並べて……! 机が焦げるほどの魔法を夜中にお一人で……! そのお手! そのお顔! 淑女の肌にインクの染みがついたらどうするのですか! 十五年! 私はこの家で、一日も欠かさずお仕えしてきたのに……!」
「マリー、落ち着いてください。机の焦げは軽微ですし、インクは洗えば落ちます」
「そういう問題ではありません!!」
マリーの絶叫が廊下まで響いた。
遠くで女中たちが、「また何かあったのかしら」と囁き合う声がする。
「すぐにお風呂の準備をさせます。その後、朝食を全部食べていただきます。それが終わるまで、その紙には一切触らせません!」
「お風呂は後にしてください。あと少しで熱変換の効率をさらに上げる計算が終わります。体が濡れると紙が破れるので……」
「お風呂に紙を持ち込むつもりですか!?」
「持っていくつもりでしたが」
リゼットは真顔だった。
「なりません! 絶対に、なりません! 紙を浴室に持ち込んでどうするのですか! インクが滲みます! 紙がふやけます! 計算が消えますよ!?」
「…………」
リゼットの動きが止まった。
「それは、困りますね」
「なら、お風呂に入ってください!!」
泣きながら迫るマリーの気迫に、さすがのリゼットも抵抗を諦めた。
「……わかりました」
どうやらこの屋敷で最も強い権力は、貴族でも理屈でもない。
侍女長マリーである。
* * *
インク汚れを洗い落とされ、朝食をきっちり胃に収めさせられた後。
午後になると、侯爵家に雇われた家庭教師たちが次々とやって来た。
本日の予定は、お茶の作法と貴族の系譜学。
リゼットは着替えを済ませ、自室の机に座っていた。
ただし、意識は完全に別の場所にある。
(入浴中に気づいたのですが……この世界の魔法陣は、もしかしてすべて平面を前提に設計されているのでは? 魔力が空間に干渉するなら、陣も層を重ねた多重構造にした方が出力は上がるはず。いや、待ってください。それだと魔力経路が互いに干渉して……)
「お嬢様」
「…………」
「お嬢様!」
「……はい、何でしょう、マリー」
マリーが半泣きの顔で、リゼットの肩を揺すっていた。
「先生方が応接間でお待ちです。本日はお茶の作法のお稽古ですよ。さあ、立ってください」
「後で」
リゼットは即答し、手元の羊皮紙へ視線を戻した。
「今、この術式の誤りの原因を探しています。多重構造を前提にするなら、魔力経路が競合しない制御が必要です。とてもお茶を飲んでいる余裕はありません」
「余裕ではありません! お稽古です! 貴族の令嬢として、優雅なお茶の作法は必須の教養なのですよ!」
マリーは必死だった。
「昨日の今日で、お嬢様がおかしくなってしまわれたと知れたら、旦那様もどれほどお嘆きになるか……! どうか、昔の物分かりの良いお嬢様に戻ってくださいませ! このままでは、立派な淑女になれません!」
床にひざまずき、涙ながらに懇願する侍女長。
その姿を見て、リゼットのペンがぴたりと止まった。
(……マリーが泣いている)
前世の記憶が戻っても、マリーへの情が消えたわけではない。
リゼットは一度、思考を整理した。
(私が淑女教育を受けないことで、マリーの立場が悪くなるのは本意ではありません。父上との関係が悪化すれば、今後の研究環境にも支障が出ます。非常に非効率です)
この世界で、貴族令嬢として生きるための淑女教育。
礼法、作法、歴史、語学、音楽、舞踏。
つまりこれは、貴族社会に接続するための共通規格だ。
面倒ではあるが、仕様を満たせば余計な干渉を減らせる。
(マリーは「立派な淑女になれない」と言いました。逆に言えば、立派な淑女の条件を満たしてしまえば、空き時間をすべて魔法陣の研究に回しても文句は言われないということ)
リゼットの脳内で、瞬時にスケジュールが組み直された。
「……わかりました、マリー」
リゼットはペンを置き、静かに頷く。
「泣かないでください。私は狂ったわけではありません。ただ、少し世界の真理に気づいてしまっただけです。心配をかけて申し訳ありませんでした」
「お、お嬢様……! ああ、神様! お嬢様が正気に戻られました!」
マリーがぱっと顔を輝かせ、涙を拭う。
「では、お茶のお稽古に?」
「はい。すぐに行きましょう。ついでに、作法だけでなく、歴史も、語学も、舞踏も、すべて前倒しで予定に入れてください」
「えっ? 前倒し、ですか?」
マリーが目をぱちくりさせる。
「ええ」
リゼットは、五歳児とは思えない理知的な顔で言った。
「令嬢教育の全課程を、最速で終わらせます」
「さ、最速……? お嬢様?」
「さあ、行きましょう、マリー。暗記と反復練習なら、同時にこなせば一週間で十分です」
リゼットは軽やかな足取りで部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、マリーは思った。
やはり、お嬢様はどこかおかしくなってしまわれたのではないか、と。
翌日。
侯爵家に呼ばれた家庭教師たちは、自分たちの人生最大の悪夢を見ることになる。




