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魔法陣にしか興味がない悪役令嬢、破滅フラグを条件表に載せる 〜古代魔導書を読むために、王太子と政略結婚を結びました〜  作者: NN
【第一章】分からないものを、消さない

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5歳児、床の魔法陣に恋をする

 その日、リゼットは初めて「魔法陣」を見た。

 正確には、生まれた時からそこにあったものを、初めて「魔法陣」として見た。


 場所は、シルヴァーヌ侯爵家の応接間。

 暖炉の前の石床に、円と直線と、見慣れない記号がびっしり刻まれていた。


 普通の五歳児なら、たぶんこう思う。

 きれいな模様だな、と。


 けれど、リゼット・ド・シルヴァーヌは違った。

 その場でぴたりと足を止め、床を見下ろしたまま動かなくなった。


「……なんだ、これは」


 侍女長のマリーが、すぐに異変に気づいた。


「お嬢様? どうかなさいましたか?」


 返事はない。

 リゼットの視線は、完全に床へ縫い止められていた。


 六角形を土台にした外枠。

 その内側にぴたりと接する円。

 円周上の三点から中心へ向かう線。

 さらに、それらと交差する細かな記号。


 しかもそれが、中心に向かって何度も、同じ規則で繰り返されている。


 これは、ただの飾りではない。

 意味がある。

 いや、ありすぎる。


(なに、これ……)


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 五歳の小さな胸では受け止めきれないほど、強い鼓動だった。


 線の太さ。

 記号の位置。

 交点の角度。


 全部が、何かの目的に向かって組まれている。

 美しい。ぞっとするほど美しい。

 そして同時に、どうしようもなく気になる。


 その瞬間、リゼットの頭の中で、ぱちん、と何かが弾けた。


 青白いモニターの光。

 深夜のオフィスに響くキーボードの音。

 画面に並ぶ、記号と数字の列。

 数式。証明。論理。無駄のない仕組み。


 そして、完璧に組み上げたものが、寸分の狂いもなく動き出す瞬間の高揚。


(ああ……そうか。私、思い出した)


 前世の記憶が蘇った。

 そんな穏やかな言い方では足りない。


 五年間すやすや眠っていた本来の思考回路が、いきなり全力で再起動したのだ。

 寝起きから全力疾走。脳にはあまり優しくない。


 論理の破綻が嫌いだった。

 美しい数式が好きだった。

 無駄なく組まれた構造を見ると、食事より睡眠より優先したくなる人間だった。


 そして今。

 その人間が、五歳の侯爵令嬢として目を覚ました。


「……反復構造」


 ぽつりと落ちた呟きに、マリーの手が止まる。


「え? お嬢様、今なんと……?」


 振り向いたマリーは、そこで固まった。


 つい数秒前まで、淑女らしく優雅に歩いていたはずの令嬢が。

 床に、這いつくばっていた。


「お、お嬢様!?」


 絹のドレスの裾が、絨毯と石床の境目にばさりと広がる。

 そんなことは知ったことではない、とばかりに、リゼットは暖炉前の石床へ顔を近づけた。


 近い。

 かなり近い。

 もう少しで鼻が床につく。


「素晴らしい……外周の円で全体を定義して、内側の六角形で条件を分岐させている。中心へ向かう線は自己参照。つまりこれは、再帰的に処理を繰り返す設計……!」


「お、お嬢様!? 床は汚れます! ドレスも汚れます! あと、侯爵令嬢は床に貼りつきません!」


「マリー、静かに。今、処理の流れを追っています」


「しょ、しょり? 流れ? お嬢様、いったい何のお話を!?」


 マリーの悲鳴は、右から左へ抜けていった。

 今のリゼットにとって、世界は床の魔法陣を中心に回っている。


(これが、この世界でいう魔法陣……!)


 知識としては知っていた。

 この世界には魔法がある。

 魔力を操るために、魔法陣という図形を使う。


 けれど、五歳のリゼットにとって、それは絵本や紋章と同じ「きれいな模様」だった。

 少なくとも、今日までは。


(違う。全然違う。これは絵じゃない。魔力を動かすための設計図だ。記号は命令。線は経路。組み合わせれば術式になる)


 要するに。


(最高じゃないか)


 前世で愛してやまなかった論理の世界が、こちらでは実際に炎を灯し、風を起こし、結界を張る。

 こんなものを見せられて、冷静でいろという方が無理だった。


 ただし。

 読み進めるほど、リゼットの歓喜は別の感情へ変わっていった。


 違和感。

 苛立ち。

 そして、許しがたいほどのもったいなさ。


「……待って。なに、この設計」


 リゼットは眉間に深いしわを寄せた。


「骨格はきれいなのに、中身がぐちゃぐちゃじゃないですか。どうしてここで無駄な経路を挟むのです? この三つの記号、ひとつにまとめられますよね? それに繰り返しの終了条件が甘い。魔力が乱れたら止まらなくなる可能性があります。誰ですか、こんな穴だらけの陣を書いたのは」


 五歳児が床に向かって本気で怒っている。

 その光景だけで、マリーの精神力はごりごり削られた。


「しかも用途がひどい」


 リゼットは、床をばんばん叩いた。


「暖炉の前の装飾? ただの飾り? 冗談ではありません。これは微弱な火の魔力を集めて、持続的に熱を放つ術式です。なのに起動用の仕掛けが抜けている。つまり、眠ったままです。動かない術式なんて、置物以下です。構造への冒涜です」


「お、お嬢様ぁああっ! どうなされたのですか!? 悪霊にでも取り憑かれたのですか!?」


 ついにマリーが限界を迎えた。

 背後からリゼットに飛びつき、どうにか床から引き剥がそうとする。


 しかし、リゼットも粘った。

 石床の溝に指を引っ掛け、五歳児とは思えない執念で抵抗する。


「離してください、マリー! 紙とペンが必要です! 今すぐ構造を書き出して、無駄を削って、完璧な形に整理しないと……!」


「せ、整理!? お熱です! 絶対にお熱です! 誰か、お医者様を!!」


 叫び声が廊下まで届いたのだろう。

 ばたばたと慌ただしい足音が近づき、応接間の扉が勢いよく開いた。


「マリー様! どうなされましたか!」

「お嬢様が! お嬢様が悪霊に……っ!」

「お医者様を! 今すぐ!」


 廊下に悲鳴が広がる。

 遠くから、執事の低い声も聞こえてきた。


 五歳児の筋力では、大人の侍女長に勝てるはずもない。

 リゼットはずるずると床から引き剥がされ、脇に抱え上げられた。


「ああっ、待ってください! せめてあの条件式だけでも確認を……!」


 手足をばたつかせながらも、リゼットの視線は床の魔法陣から離れない。

 応接間から運び出される最中も、宙を泳ぐ指先は見えない陣を高速でなぞっていた。


「魔力の三割を外周の定義に割り当てて……いや、それだと条件が崩れた時に全体が止まる。固定値にすべき? でも中心処理との接続が……」


「ひぃいいい! お嬢様が壊れてしまわれたぁぁぁぁ!!」


 侯爵家の廊下に、侍女長の絶叫が轟いた。

 一階から二階まで、次々と扉が開き、使用人たちが顔を出す。


 その全員に向かって、リゼットは脇に抱えられたまま、至って真面目に告げた。


「紙を持ってきてください。できるだけ多く。今夜は長くなりますので」


 屋敷中の使用人が、一斉に青ざめた。



     * * *



 一時間後。


 医師の診断は、まさかの「異常なし」だった。


 リゼットが完璧な令嬢の声で、

「少し興奮してしまったようです。もう落ち着きました」

 などと言ってのけたせいである。


 医師は「一時的な疲れでしょう」と頷き、マリーは「絶対に違います」と食い下がった。

 残念ながら、聞き入れられなかった。


 医師が退出し、泣きはらした目のマリーも部屋を出ていく。

 扉が閉まった。


 その瞬間、リゼットはかっと目を見開き、布団を蹴飛ばした。


(疲れてなどいない。むしろ、人生で一番頭が冴えています)


 リゼットは窓辺に立ち、夕暮れに染まる侯爵家の庭を見下ろした。


 今まで退屈だと思っていた世界。

 礼儀作法とお茶会と、似たような会話でできていると思っていた世界。


 それが今は、まったく違って見える。


 この世界そのものが、巨大な設計図に見えた。

 しかも、まだ誰も読み切っていない設計図だ。


「魔法陣。魔力を制御する術式の言語。しかも、誰も本当の可能性を引き出せていない、穴だらけの未開拓領域」


 リゼットの薄紫の瞳に、知的好奇心の炎が灯る。

 唇が、自然と弧を描いた。


「……最高じゃないですか」


 リゼットはくるりと踵を返し、部屋の隅の書き物机へ向かった。

 引き出しから、白紙の束と羽ペン、インク瓶を取り出す。


「まずは、暖炉の陣を記憶だけで再現します。そこから基礎構造を解析して、この世界の魔法陣の規則を洗い出す。夜は長いですからね」


 羽ペンが紙の上を走る。

 カリカリ、カリカリ。


 それが、リゼットの長い長い探求の始まりだった。


 そして、一時間後。


 リゼットのペンが止まった。


(……まずい)


 暖炉の術式を解析するうちに、気づいてしまった。

 この設計の癖は、あの一枚だけのものではない。


(この世界の魔法陣は、たぶん同じ原則で作られている)


 だとしたら。

 この国の防衛結界も、同じ欠陥を抱えている可能性がある。


「……この国の結界」


 リゼットは、羽ペンを机に置いた。


「設計が、間違っています」


 計算してみる。

 何度考えても、結論は変わらない。


「十年に一度の魔力嵐が来れば——この国の結界は、崩壊する」


 その声は、部屋の中に静かに消えた。

 誰も聞いていない。


 ただ、五歳の幼女だけが、その事実の大きさを一人で抱えていた。


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