プロローグ 七歳、王太子に条件を出す
シルヴァーヌ侯爵邸の書斎で、茶器が落ちかけた。
支えたのは侍女長のマリーである。二十年この家に仕えて、落としかけたのは初めてだった。
「……もう一度、言ってくれるか」
王太子ルイスの声は、静かだった。
その正面に、七歳の令嬢が座っている。淡い紫のドレス。背筋はまっすぐ。膝の上には、羊皮紙が一枚。
「王太子妃、あるいはその婚約者です」
リゼット・ド・シルヴァーヌは、同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。
「政略結婚、と言っているのか」
「はい。恋愛ではありません」
父サイラスが、額を押さえた。
娘が七歳にして、王太子との政略結婚を、自分から設計している。父としては倒れそうだった。領主としては、その計画書に一つも穴がないことのほうが、よほど恐ろしかった。
「殿下にも利があります」
リゼットは、膝の上の羊皮紙を、卓の上へ滑らせた。
そこに並んでいたのは、恋文ではなかった。
『真の目的:禁書庫の古代魔導書、閲覧権の取得』
『手段:政略結婚(王太子ルイス)』
『対外的名目:国家防衛』
『既知のリスク:悪役令嬢としての破滅ルート』
「……最後の一行は、何だ」
「私が、いずれ断罪される予定である、という意味です」
「予定」
「はい。予定です」
七歳の令嬢は、まばたき一つしなかった。
「ですので、条件表に載せてあります。──載せたものは、管理できます」
書斎が、静まった。
この国でいちばん読みたい本は、鍵のかかった棚の奥にある。鍵は、王家が持っている。ならば、鍵を持つ側へ入る。それだけの話だった。
彼女にとっては、それだけの話だった。
「一つ、確認させてくれ」
ルイスが言った。
「君は、僕と結婚したいわけじゃない。禁書庫を開けたいし、国の壁を救いたい。そのために、いちばん効く手段が、たまたま僕だった。そういうことだね」
「はい。ご不快でしたら──」
「いや」
ルイスは、静かに笑った。
そして、ふと、王太子の顔が外れた。
「──面白い」
その一言は、次期国王の判断ではなかった。目の前に置かれた難問へ、少年が手を伸ばす時の声だった。
「呑もう」
軽い言葉だった。
だが、その目だけは、少しも軽くなかった。覚悟を決めた者の、目だった。
サイラスは天を仰ぎ、マリーは声にならない声を上げた。
二言だった。
その二言が、これから十年ぶんの道を決めたことを、まだ、誰も知らない。
* * *
なぜ、七歳の子供が、こんなものを書けるのか。
なぜ、自分の破滅を「予定」と呼び、条件表に載せてしまえるのか。
答えは、二年前にある。
シルヴァーヌ侯爵家の応接間。暖炉の前の石床に、円と直線と、見慣れない記号がびっしり刻まれた、古い魔法陣があった。
その日、五歳の少女が、そこで足を止めた。
止めたまま、動かなくなった。
──話は、そこから始まる。




