書けない、一行
その夜、リゼットは、机に向かっていた。
いつも通り、手記を開いて。羽ペンを取って。
書こうと、した。
エミール・ガランの、死を。日付を。状況を。死因を。──いつも、そうしてきたように。都合の悪い事実こそ、消さずに、記録する。それが、彼女の、流儀だった。
だが。
ペンが、動かなかった。
紙の上で。羽ペンの先が、震えたまま止まっている。一文字も、書けない。
机の、隅には。
あの、角の丸くなった帳面が、置いてある。
四十年分の、覚え書き。『分からんかった所には、分からん、と書いた』と、始まる、あの帳面。
月に一度、鈴の音と、渋い茶と、あの応酬があった。次に行く日には、聞きたいことが、七つあった。
七つの、質問は。
もう、宛先を失っていた。
書けないのは、インクのせいではなかった。
「……なぜ」
リゼットは、呟いた。
結界の暴走も、記録できる。宮廷の懐疑も、記録できる。自分の、過労も、失敗も、恥も、全部、記録してきた。分からないものを、消さない。都合の悪い線を、拾う。──それが、彼女の、生き方だった。
なのに。
この、たった一行が。書けない。
書いてしまえば。エミールの死が、"事実"として、確定してしまう気がして。ペンが、進まなかった。
* * *
「お嬢様」
扉が開いて。マリーが、入ってきた。その後ろに、ルイスもいた。
二人とも、報せを聞いて、駆けつけたのだ。
「リゼット」
ルイスが、静かに呼んだ。
リゼットは、顔を上げなかった。手記の白い頁を、見つめたまま。
「……書けないんです」
彼女の声は、震えていた。
「エミール先生のことを。記録、しようと、しているのに。一行も、書けない。──おかしいです。私は、いつも、記録してきたのに。どんなに、都合の悪いことも。なのに」
「リゼット」
「私が、殺したんです」
その一言が。
部屋の空気を、凍らせた。
「合理的に、考えて。割に合わないから、殺さない、と。私が、そう、読んだ。……殿下も、父も、先生に、護衛を出してくださいました。三度。三度とも、先生は、断りました」
彼女の声が、掠れた。
「私は、その報せを、聞いて。"妥当です"と、答えたんです」
誰も、何も言えなかった。
「押し切る理由が、なかった。──私の計算が、押し切らなくていい、と言っていたからです。断られたことが、都合が、良かった。それを、私は、尊重と呼びました」
「リゼット」
「静寂院が、刺したんです。でも、四度目を出さなかったのは、私です。私の、"正しさ"が。先生を──」
リゼットの声が、崩れた。
いつも澄んで、規則正しかったその声が。初めて、ぐしゃぐしゃになった。
「私は、記録さえ、残せば、みんな、守れると、思っていた。記録は、消えないから。──でも、違った。記録は、残せても。人の命は、守れない。先生が、死んだのに。私は、それを、一行も、書けない。こんな、私が。何が、"消さない者"、ですか」
* * *
マリーが、リゼットの肩を抱いた。
何も、言わなかった。ただ、抱いた。二十年、この少女の無茶を見てきた侍女長は。今、初めて、慰めの言葉を持たなかった。
ルイスは、机の前にしゃがみ込み、リゼットの目線に合わせた。
「リゼット。一つだけ、言わせてくれ」
「……」
「お前の、計算は、間違っていた。それは、事実だ。俺は、慰めのために、"そうじゃない"とは、言わない。──お前が、俺に、そうしてくれたように」
リゼットの肩が、震えた。
「だが、エミールを、刺したのは、お前じゃない。セヴランだ。静寂院だ。四十年前、彼の師を、消したのと、同じ、手だ。──お前の"正しさ"が、隙を作ったのは、本当だ。でも、その隙に、刃を、入れたのは、あいつらだ。そこを、混同するな」
ルイスは、リゼットの震える手を、握った。
「お前は、今日、大事なことを、二つ、学んだ。一つ。記録は、人の命までは、守れない。──もう一つ。合理だけでは、人の悪意は、読めない。……痛い、学びだ。だが、お前は、二度と、同じ間違いは、しない。エミールの死を、無駄には、しない。そういう、女だ。俺の、知っている、お前は」
リゼットは、しばらく、動かなかった。
やがて。
こらえていた涙が、頬を伝った。
初めて、だった。彼女が、研究の失敗でも、悔しさでもなく。ただ、一人の人間を喪って、泣いたのは。
その涙を、彼女は、記録しなかった。
ただ、流した。
マリーは、その夜、何度も茶を淹れ直した。
温かいものを、口にさせる。それしか、できることが、なかった。三杯目の茶は、少しだけ、渋く、なった。手が、震えていた、せいである。
リゼットは、その渋さに、気づいて。
少しだけ、また泣いた。
* * *
どれくらい、そうしていただろう。
やがて、リゼットは、涙を拭い。
もう一度、手記を引き寄せた。
エミールの死は、まだ、書けなかった。
だが、代わりに。
彼女は、震える手で、一行だけ書いた。
『エミール・ガランの、問いを、継ぐ。』
『そして、その師の名の、隣に、彼の名を、刻む。──消させは、しない。』
書いてから。
リゼットは、ゆっくりと、立ち上がった。
その目は、まだ赤い。だが、そこには、もう、崩れる前とは違うものが、宿っていた。
悲しみ。そして、その、いちばん奥に。
燃えるような、決意。
「ルイス」
「なんだ」
「建国祭の、計画は、変えません。結界を、救います。断罪を、覆します。──ですが、もう一つ、加えます」
リゼットは、まっすぐ彼を見た。
「セヴランが、言いました。旧い魔法を、解放すれば、フロストのように、世界が、滅ぶ、と。──なら、証明します。滅ばないことを。彼らが、四百年、恐れて、人を殺してまで、守ってきた、その恐怖が。間違いだったことを。記録と、事実で。エミール先生の、死を、賭けてでも」
「復讐、か」
「いいえ」
リゼットは、首を振った。
「復讐は、しません。──私が、するのは、証明です。彼の問いが、正しかった、という、証明です。それが、彼を、いちばん悼むことだと、思うので」
窓の外で。
嵐の予兆が、いつもより近く、脈打っていた。
建国祭まで、あとわずか。
リゼットは、初めて、喪失を抱えたまま。
決戦の夜へと、歩き出す。
もう、無敵の悪役令嬢ではなかった。
傷を負い、間違え、大切なものを喪って、それでも、立つ。
一人の、人間として。




