割に合わない、はずだった
アリスの懐柔に失敗した静寂院が、次に、どう動くか。
リゼットは、それを、こう読んでいた。
「向こうは、もう、記録を、消せません」
彼女は、仲間たちに説明した。
「エミール先生の、師の手記も。先生の、四十年分の覚え書きも。私の、全記録も。すべて、写しが、各所に、散っています。一つを、燃やしても、残りが、残る。──だから、静寂院が、今さら、誰かを、消しても、意味が、ありません。合理的に、考えて」
その言葉に、迷いはなかった。
かつて、屋敷で、セヴランを、詰めた、あの論理。「私を消しても、記録は消えない」。それは、正しかった。だから彼女は、その正しさを、信じきっていた。
人にまで、拡張して。
「エミール先生は、狙われませんか」
アリスが、不安そうに聞いた。
「狙う理由が、ありません」
リゼットは、即答した。
「先生の知識は、もう、先生の中だけの、ものでは、ない。消しても、無駄です。──割に、合いません」
それが、彼女の、最大の、そして、生涯でただ一度の、致命的な読み違いだった。
* * *
その数日前。
リゼットは、星屑堂を、訪れていた。
エミールは、いつものように、ランプの下に座っていた。だが、その日、彼は、少しだけ店の外を気にしていた。
「リゼット。近頃、店の前に、見慣れぬ者が、立つ」
「静寂院、でしょう。見張りです」
「わしを、消しに来る、かもしれん」
「来ません」
リゼットは、笑った。
「先生の研究は、もう、各所に、写しがあります。先生を、消しても、彼らには、何の得も、ない。合理的に、考えれば、殺しません。──だから、大丈夫です」
エミールは、その言葉を聞いて。
少しだけ、寂しそうに笑った。
「……おまえは、賢い。賢すぎる。だがな、リゼット。人は、いつも、割に合うことだけを、する、わけでは、ない」
その言葉を。
リゼットは、聞き流した。
合理的でない行動は、予測の対象外だ。そう、思っていた。
* * *
報せが届いたのは、その三日後の、夜だった。
バルト街で、火事。星屑堂が、焼けている、と。
リゼットは、馬車を、飛ばした。心臓が、嫌な鼓動を、打っていた。合理的でない。ありえない。割に、合わない。頭の中で、その言葉が、何度も、回った。
着いた時。
星屑堂は、半ば焼け落ちていた。
そして、その焼け残った店の奥で。
エミールが、倒れていた。
* * *
「先生……! 先生!」
リゼットは、駆け寄った。
老人は、まだ辛うじて息をしていた。だが、その傷は、火傷ではなかった。刃物の傷だった。誰かが彼を刺し、そして、店に火を放った。
「……リゼット、か」
エミールが、掠れた声で言った。
「先生! 今、医者を! しっかり──」
「無駄じゃ。……分かる。四十年、死を、見てきた、身じゃ。自分の、番くらい、分かる」
エミールの震える手が、床の一点を指した。
焼け残った床板の下。そこに、油紙に包んだ、彼の四十年分の覚え書きと、師の手記が隠されていた。彼は、刺されてなお、それを火から守ったのだ。
「……守った。おまえに、渡す、分は。──燃やさせは、せん」
「先生……なんで……なんで、こんな……」
リゼットの声が、震えた。
合理的でない。割に、合わない。意味が、ない。──なのに、目の前で、彼女のいちばん古い同志が、死のうとしている。
「言った、じゃろう。……人は、割に、合うことだけを、する、わけでは、ない」
エミールは、血の混じった息で、笑った。
「わしの、師は、孤独に、消えた。……だが、わしは、違う。おまえに、問いを、渡せた。……四十年、待った、甲斐が、あった。──のう、リゼット。問いを……消すな」
その、最後の言葉を。
リゼットは、確かに聞いた。
エミールの手が、床に落ちた。
もう、二度と、動かなかった。
* * *
「……安らかな、最期とは、言えませんな」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、焼け跡の入口に。
灰色の長衣の、セヴランが、立っていた。
「あなたが……あなたが、やったのですか」
リゼットの声は、低かった。これまで、誰にも、向けたことのない、温度だった。
「私が、命じました」
セヴランは、否定しなかった。
「なぜ……! 意味が、ないはずです! 先生を、消しても、記録は、残る! 割に、合わない! あなたたちは、記録を、消せないと、悟ったはずだ! なのに、なぜ──!」
「──それが、あなたの、間違いです、シルヴァーヌ嬢」
セヴランの声は、悲しげ、ですらあった。
「あなたは、これを、"割に合う・合わない"の、話だと、思っている。損得の、計算だと。──違います。私は、損得で、動いてはいない」
彼は、焼け跡の空を見上げた。
「あなたと、あの光属性の少女が、揃えば。封印は、解ける。旧い魔法が、解き放たれる。……かつて、フロストという、文明が、ありました。世界の真実に、近づきすぎて、均衡を、崩し、一夜にして、滅んだ。──私は、それを、本気で、恐れている」
セヴランの目が、リゼットを見た。冷酷ではなかった。むしろ、必死だった。
「あなたを、止めるためなら。私は、老人一人の命でも、使う。世界を、滅ぼさないために。──これは、悪意では、ありません。恐怖です。あなたが、正しいかもしれない、という、恐怖です」
「……黙れ」
「あなたは、記録を、信じすぎた。記録は、残せる。だが──守れは、しない。人の、命は。今夜、あなたは、それを、学んだはずだ」
「……なぜ、先生だったのですか」
声が、掠れた。
「アリスでも、父でもなく。なぜ」
「あなたが、守らなかったからです」
セヴランは、振り返りもせずに、答えた。
「申し出は、読みました。三度、出しておられましたね。──三度とも、断られた」
リゼットの息が、止まった。
「あの老人が断ったのは、当然です。四十年、目立たぬことで生き延びてきた人だ。──ですが、うかがいます。断られて、あなたがたは、なぜ、引いたのですか」
答えは、出なかった。
「侯爵邸には人を増やした。あの少女には護衛をつけた。王太子の周りは、そもそも固い。──断られた場所だけ、そのままにした」
「それは……本人の、意志を」
「意志を、尊重なさった。尊重できる理由が、あったからです」
セヴランの声は、静かだった。だからこそ、逃げ場がなかった。
「あなたは、こう読んでいた。──過去の恩師を狙う意味はない。割に合わない。だから、押し切ってまで守る必要はない。……断られたことと、あなたの計算が、都合よく、噛み合った。噛み合ったから、三度目で、終わりにできた」
「──」
「もし、あなたの計算が逆だったなら。四度目の申し出を、出しておられたはずだ。五度目も。店の向かいに部屋を借りてでも、置いておられたはずだ。あなたは、そういう人です。……今回だけ、しなかった」
セヴランは、そこで初めて、少しだけ声を落とした。
「私は、あなたの計算の、外側を、選んだのではありません。──あなたが、いちばん、押し切らない場所を、選んだのです。合理は、正しい。ただ、合理は、断られた者を、追いかけない」
セヴランは、静かに背を向けた。
「もう一度、言います。──引き返しなさい。次に、消えるのは、あなたの、隣にいる、誰かかもしれない」
彼は、灰色の長衣を翻し、闇へ消えた。
* * *
残された、リゼットは。
焼け跡の、真ん中で。
動けなかった。
その手には、エミールが命がけで守った覚え書きが、握られていた。
まだ、温かい。
紙は、守れた。問いは、残った。記録は、消えなかった。
だが、その紙を渡してくれた人は。
二度と、戻らない。
リゼットは、初めて理解した。
自分の武器が。合理と、記録が。今夜、通用しなかったことを。
いや。
通用しなかったのでは、ない。
彼女の、その合理的な計算こそが。
「割に合わないから、殺さない」という、その正しいはずの、読みこそが。
エミールを、守らせなかった。
殺したのは、静寂院だ。
だが、油断させたのは。
彼女、自身だった。
「……先生」
リゼットは、焼け跡に膝をついた。
声が、出なかった。
涙も、まだ出なかった。
ただ、胸のどこかが、音を立てて崩れていくのを。
彼女は、生まれて初めて、"記録"できずに、ただ感じていた。




