鍵を、こちらへ渡さないか
静寂院が次に狙ったのは、リゼットではなかった。
アリスだった。
その日、アリスが一人だったのには、理由がある。
リゼットは、王宮に呼ばれていた。カルロスは、菓子の調達に出ていた。護衛は、寮の門で、待っていた。寮までの道は、学院の敷地の中で、いちばん安全な場所の、はずだった。
静寂院は、そのわずかな隙間を、正確に突いてきた。
ある放課後、アリスが一人、寮への道を歩いていると、灰色の長衣の男が、静かに、隣に並んだ。
「アリス嬢。少し、お話を」
その、丁寧すぎる声に、アリスの背筋が凍った。誰かは、知らない。だが、その気配は、あの査問の時に感じたものと、同じだった。
「静寂院の、セヴランと申します。あなたに、大切なお話が、ございまして」
アリスは、逃げようとした。だが、足が動かない。
「こわがらないでください。あなたを、傷つけに来たのでは、ありません。むしろ──あなたを、救いに、来たのです」
* * *
「あなたは、ご自分の光属性の、本当の意味を、ご存じですか」
セヴランは、穏やかに続けた。
「あなたの光は、四百年前に、封印された魔法の、鍵です。それは、シルヴァーヌ嬢から、お聞きになったでしょう。──ですが、彼女が、話していないことが、あります」
アリスの足が、止まった。
「その鍵は、封印を、解いてしまう。四百年前、我々の先人が、危険だからと、封じた魔法を。あなたの光は、それを、解き放つ力を、持っている。──もし、それが、暴走したら。あなたは、大勢の人を、傷つける、かもしれない」
「そんな……」
「あなたは、悪くない。生まれつきの、力です。ですが、シルヴァーヌ嬢は、その危険な力を、国の結界に、使おうとしている。あなたを、道具として、使おうとしている」
セヴランの声は、蜜のように、甘かった。
「考えてもごらんなさい。もし、失敗したら。あなたのせいで、国が、滅ぶかもしれない。その重荷を、彼女は、あなた一人に、背負わせようとしている。──それは、優しさですか?」
アリスの目が、揺れた。
道具。危険。あなたのせいで。
ずっと、心の奥に、あった、恐れ。自分の光は、やっぱり、危ないものなんじゃないか。みんなを、傷つけるんじゃないか。
「静寂院に、いらっしゃい」
セヴランは、手を差し出した。
「我々なら、あなたの力を、安全に、封じられます。あなたは、もう、誰も傷つけずに、済む。もう、"鍵"として、利用されずに、済む。──ただ、普通の、女の子として、生きられるのですよ」
* * *
アリスは、その手を見つめた。
普通の、女の子。
どれほど、憧れた、言葉だろう。気味が悪いと言われず。壊れていると言われず。誰も傷つけず。ただ、普通に。
村にいた頃の、記憶が、よみがえる。
水汲みの列で、そっと空けられた、距離。祭りの夜、輪の外から見ていた、火。母が、近所の人に、何度も頭を下げていた、背中。
あの頃、欲しかったものを、この男は、正確に差し出してくる。
まるで、心の棚のどこに何があるか、知っているみたいに。
差し出された手に、アリスの手が、わずかに動きかけた。
でも。
その時、アリスの頭に、浮かんだのは。
図書館の奥で、自分の光を、才能だと言ってくれた、あの人の顔だった。
『私は、都合のいい嘘は、言いません』
アリスは、顔を上げた。
「……一つ、聞いても、いいですか」
「なんなりと」
「あなたは、私の光が、暴走したら、大勢が傷つく、と言いました。その、根拠は、なんですか」
セヴランの笑みが、止まった。
「……根拠?」
「リゼット様は、いつも、根拠を、見せてくれます。記録と、数字で。私の光が危険じゃないことも、ちゃんと、測って、証明してくれました。──あなたは、危険だ、危険だ、と言うだけで、記録を、一つも、見せてくれません」
アリスの声は、震えていた。それでも、止まらなかった。
「リゼット様なら、こう言います。『危険だと言うなら、その危険を、記録で、示してください』って。──だから、私も、言います。証拠を、見せてください。それがないなら、あなたの言葉は、ただの、脅しです」
セヴランは、しばらく無言で、アリスを見ていた。
差し出した手を、ゆっくりと、引っ込める。
「……なるほど。あの令嬢の、"戦い方"が、あなたにも、移りましたか」
その声から、甘さが消えた。
「記録で、返す。根拠を、問う。──厄介な、癖を、覚えたものだ」
* * *
「アリス嬢。忠告しておきましょう」
セヴランは、去り際に、振り返った。
「あなたは、今、選びました。シルヴァーヌ嬢の側に、つくことを。──それは、あの令嬢と、一緒に、断罪される道です。私は、あなたを、救おうとした。その手を、あなたは、払った。次は、ありません」
彼は、灰色の長衣を翻した。
「近いうちに、あなたたちは、公の場で、裁かれます。危険な力を持つ平民と、それを利用する悪女として。──その時、後悔しても、遅いですよ」
セヴランは、静かに、消えていった。
残されたアリスは、その場に、へなへなと座り込んだ。
こわい。心臓が、まだ、暴れている。
でも。
払えた。あの甘い手を。あの恐ろしい男の、脅しを。
自分の言葉で。リゼットに、教わった、戦い方で。
「……言えた」
アリスは、震える声で呟いた。
膝が、まだ笑っている。手のひらに、爪の痕が残っている。それでも、言えた。
あとで分かることだが、この時のアリスの反問は、セヴランの筋書きを、一つ、確実に潰していた。「怯えた少女が、保護を求めて静寂院に駆け込む」という、断罪の日のための、最初の一枚を。
査問の時と、同じだった。こわくて、逃げたくて、でも、逃げなかった。
あの、いつも逃げていた自分が。今は、静寂院の調停官の前でさえ、逃げずに、立っていた。
アリスは、立ち上がった。
そして、まっすぐ走り出した。
このことを、リゼットに、報告しなければ。断罪の、本番が、近い。仲間に、知らせなければ。
逃げるためでは、なかった。
初めて、誰かのために、走る足だった。




