掘るほど、敵は焦る
研究が、深まるにつれて。
リゼットは、視線が増えたことに、気づいていた。
学院の、廊下。図書館の、隅。研究室の、窓の外。誰かが、こちらを、見ている。灰色の気配。静寂院の、目だった。
「最近、見張りが、露骨です」
ある日、リゼットは、淡々と言った。
「以前は、もっと、隠れていました。今は、隠す気も、ないように、見えます。──焦っている証拠です」
「なぜ、焦る」
ルイスが、尋ねる。
「私たちが、掘り当てたものの、せいです」
リゼットは、机の上の手記の山を見た。
「禁忌は、制御の失敗にすぎない、と暴いた。フロストの滅亡は、やり方の問題だった、と証明した。世界の魔法は、削られた残骸だ、と気づいた。──これらは、静寂院にとって、いちばん聞かれたくない話です」
見張りの記録は、すでに、帳面一冊分になっていた。
発見が、いちばん多いのは、カルロスである。
「今日も、いたぜ。図書館の、二階。本を、逆さまに、持ってた」
「逆さま」
「あいつら、見張りは、上手いのに、本を読むふりが、下手なんだ」
「記録します。『監視員、読書の擬態、稚拙』」
笑い話の形をしていたが、笑い話ではなかった。数は、週ごとに増えていた。
* * *
そして、その週。
初めて、実害が出た。
王都の南で、リゼットの教材の写しを預かっていた、小さな写字工房が、店を畳んだ。
五か所に散らした写しの、一つである。焼かれたのでも、奪われたのでもない。
工房の主人が、自分から、返してきたのだった。
『申し訳ございません。近ごろ、店の前に、立つ方が、増えました。うちには、職人が四人おります。妻も、子も、おります』
添えられていたのは、それだけだった。
リゼットは、返された束を、しばらく見ていた。
「……脅されたのですか」
「たぶん、脅されても、いない」
カルロスが、静かに言った。
「立たれただけだろ。毎日、店の前に。──それで、十分だ」
リゼットは、答えなかった。
散らせば、消せない。それは、正しい。写しは、まだ四か所にある。記録は、一枚も、失われていない。
だが。
"預かる側の人間"を、彼女は、一度も、条件表に載せていなかった。
紙を疑った。光も、箱も、術者も、記録者も、第三者も、疑った。人間を条件表に載せたことを、あれほど誇っていたのに。
預かってくれる人が、こわがること。
それだけは、数えていなかった。
『管理項目、追加:写しの、預かり手の、安全。』
書いてから、リゼットは、その一行を、長く見ていた。
書いても、あの工房は、戻らない。
管理項目を増やすことでは、埋まらない穴が、あるらしい。
その感触を、彼女は、この時、初めて知った。
そして、知ったばかりのその感触を、まだ、正しく怖がる術を、持っていなかった。
ルイスは、学院の警備を、静かに、二重にした。リゼットの、寮の周り。アリスの、周り。研究室の、周り。──守るべき場所は、すべて、固めた、はずだった。
バルト街にも、手は、伸ばしていた。
王太子の名で、星屑堂へ、警備の申し出が、三度、出されている。三度とも、断られていた。
『御厚意、痛み入る。だが、断る』
二度目の返書は、こうだった。
『わしの店に王家の衛兵が立てば、あの店には守る値打ちのものがある、と看板を出すようなものじゃ。四十年、目立たぬことだけで生き延びてきた老人に、今さら、旗を立てさせなさるな』
三度目の返書は、一行だけだった。
『年寄りより、若いのを、守りなされ』
ルイスは、その一行を、机の抽斗にしまった。
しまってから、しばらく、抽斗を閉めなかった。
サイラスも、同じ頃、私費で人をつけようとして、同じ理由で断られている。二人とも、押し切らなかった。押し切れば、老人の四十年の流儀を、否定することになると思ったからだった。
「先生の、お店は……?」
アリスが、ふと聞いた。
「バルト街は、王都の、真ん中です。人通りも、多い。それに、静寂院が、狙うのは、研究の、"進行"です。過去の、恩師では、ありません」
リゼットの、答えは、合理的だった。
合理的であることと、正しいことは。──別の、問題だった。
* * *
同じ頃。
静寂院の、一室で。
調停官セヴランは、部下から報告を受けていた。
「シルヴァーヌ嬢の、研究班の、動向です」
部下が、書類を読み上げる。
「禁忌術式の、再検証。フロスト遺跡資料の、解析。そして──旧体系を、体系化して、"世界に、公開する"計画」
その、最後の一言で。
セヴランの指が、止まった。
「……世界に、公開する、だと」
彼の声は、静かだった。だが、その静けさの奥に、これまでにない深い恐怖が、あった。
セヴランは、立ち上がり、窓の外を見た。
「あの令嬢は、分かっていない。──いや。分かっていて、なお、やろうとしている。だから、恐ろしい」
彼は、拳を握った。
「四百年前、フロストが、滅んだ。封印された魔法を、力ずくで、開いたからだ。世界の均衡が、崩れた。我々静寂院は、その二の舞を、防ぐために、蓋をし続けてきた。──なのに、あの令嬢は、封印を、開くだけでは、飽き足らず。それを、世界中の、誰にでも、配ろうとしている」
セヴランの目が、暗く光った。
「制御されない魔法が、万人の手に、渡る。それは、フロストの過ちの、何万倍もの、規模の、破局だ。──世界が、滅ぶ。彼女は、善意で、世界を、滅ぼそうとしている」
* * *
セヴランは、リゼットの"やり方"を、知らなかった。
段階的に。制御して。記録して。共有する。──フロストの、三つの過ちを、リゼットが、最初から、避けていることを。彼は、知らなかった。
彼が見ていたのは、ただ一つ。
「封印された魔法を、世界にばらまく」という、結果だけ。
その結果が、彼の目には。四百年前のフロストの滅亡の、はるかに巨大な再来として、映った。
だから、彼は。
止めなければ、ならないと、信じた。
どんな手を、使っても。
「もう、様子見の、段階では、ない」
セヴランは、低く言った。
「あの令嬢が、研究を、完成させ、世界に、公開する前に。潰す。彼女の、心を、折る。研究を、続けられなく、する。──そのためなら」
彼は一瞬、目を伏せた。
その顔に、ためらいがよぎった。だが、それは、すぐに消えた。
「そのためなら、多少の、犠牲は、やむを得ない。世界を、救うためだ」
彼の中で、恐怖は、すでに正義に変わっていた。
部下が、退出の間際に、一つだけ尋ねた。
「……調停官殿。標的は、令嬢では、ないのですか」
「令嬢は、折れない。あれは、脅しても、罠にかけても、証拠で、殴り返してくる」
セヴランは、窓の外の王都の灯りを見ていた。
「人の心は、術式より、単純だ。──いちばん、固い心を、折るには。いちばん、柔らかい場所を、探せばいい」
部下は、一礼して消えた。
そして、正義を、確信した人間ほど。
残酷なことが、できる。
* * *
その夜。
リゼットは、研究室の窓から、遠く王都の灯りを見ていた。
どこかで、静寂院の目が、光っている。彼らは、焦っている。焦った敵は、動く。
「……近いですね」
リゼットは、静かに呟いた。
「向こうが、大きな一手を、打ってくる。たぶん、もう、すぐ」
彼女は、手記に一行、書いた。
『静寂院、焦燥。研究の進展を、脅威と認識。──近く、大きな行動に出る可能性、大。』
書いてから、彼女は、ふと思った。
いつか、あの灰色の男と、正面から向き合う日が来る。その時、私は、証明してみせる。あなたの恐怖は、正しい。だが、その解決は、間違っている、と。フロストは、やり方で滅んだ。私は、そのやり方を避けている、と。
そうすれば、たぶん、話が通じる。
彼女は、そう思っていた。
まだ、この時は。
言葉が、通じる相手だと。
だが、恐怖に駆られた人間は。
反証を聞く前に、動く。
そして、リゼットが、まだ気づいていなかったのは。
自分が、警戒している場所──結界。アリス。自分自身。その、どれでもない、無防備な場所が、一つ、残っていた、ということ。
バルト街の、古びた古書店。あの老人のいる場所を。
彼女は、"守るべき対象"として、数えていなかった。合理的に考えて、そこを狙う意味は、ない。──そう、計算していたから。
嵐の、前の。
最後の、静けさが。
学院の夜に、静かに満ちていた。




