未知記号は、誰の言葉か
カルロスの直感で、いちばん深い層の術式が通ってから。
リゼットは、ある奇妙な感触に、囚われるようになった。
最初に気づいたのは、写本の作業中だった。
いちばん古い頁は、劣化が激しい。研究班は、総出で写しを取っていた。リゼットが読み上げ、アリスが清書し、カルロスが照合し、エドガーが帝国式の記号対照表を作る。
「リゼット様。この記号、前の頁と、同じですか?」
「同じです。──いえ」
リゼットの手が、止まった。
「同じ、ですが。……同じすぎます」
「同じ、すぎる?」
「人間が手で書き写し続けたものは、必ず、揺れます。世代ごとに、書き手の癖が積もる。ですが、この記号は、何百年分の写本を並べても、一画も、揺れていない。──まるで、揺れることを、許されていないみたいに」
アリスが、自分の清書と原本を見比べて、小さく、腕をさすった。
「……この言葉は、おかしいです」
彼女は、古代魔導書のいちばん古い頁を、指でなぞりながら言った。
「おかしい、とは」
ルイスが尋ねる。
「上手く、言えません。ですが──この、検閲される前の、旧い魔法の言語。これは、この世界の人間が作ったものでは、ない気がします」
研究室が、静かになった。
「どういう、ことだ」
「言葉には、癖があります。作った人間の、思考の癖が、にじみ出る。現代の五属性の術式にも、フロストの術式にも、"人間が、少しずつ、積み上げて、作った"癖があります。試行錯誤の跡が」
リゼットは、いちばん古い頁を掲げた。
「ですが、このいちばん深い層の言語には、それがありません。まるで──最初から、完成された形で、"与えられた"みたいに。誰かが一から積み上げたのではなく。どこかから、丸ごと、持ち込まれた、みたいに」
* * *
「持ち込まれた、って」
カルロスが、首を傾げる。
「どっから」
「分かりません」
リゼットは、正直に答えた。
「異国の言葉、って線は、ねえのか。海の向こうとかさ」
「エドガー皇子。帝国の記録で、最も古い異国語は」
「調べた。どれとも、似ていない。……悔しいが、俺の手札は、もう切れた」
「では、手札にない場所を、考えるしかありません」
「ですが、この言語の構造は。私が知っている、どんな魔法の言葉とも、違います。むしろ──」
彼女は、そこで言葉を止めた。
むしろ、それは。
前世で、彼女が扱っていた、あの記号と数字の列。数式。証明。論理。無駄のない仕組み。──あの、"世界を記述するための言語"に、どこか、似ていた。
だが、それを口にするのは。
まだ、早い。
彼女の前世のことを知っているのは、この世界に、誰もいない。仮説の根拠も、あまりに薄い。
「……いえ。今のは、忘れてください。根拠のない、連想です」
「珍しいな。お前が、途中で、言葉を飲み込むとは」
ルイスが、静かに言った。彼は、リゼットのそういう微妙な変化に、いちばん敏感だった。
「観測が、足りません。仮説を口にするには、早すぎます」
リゼットは、いつもの答えを返した。
その日の帰り際、ルイスは、研究室の扉の前で、少しだけ足を止めた。
「リゼット」
「はい」
「さっき、飲み込んだ言葉。──無理には、聞かない。だが、一つだけ、覚えておけ」
彼は、振り返らずに言った。
「お前が、いつか、それを話せると思った日に。最初に聞くのは、俺だ。予約しておく」
「……予約」
「婚約者の、特権だ」
扉が閉まった後も、リゼットは、その言葉を、しばらく頭の中で転がしていた。
根拠のない連想を、笑わずに、待つと言った人は、初めてだった。
彼女は、手記の隅に、小さく書いた。
『予約、一件。──期限、未定。』
なぜこれを研究記録に書いたのか、自分でも分からなかった。分からないものは、消さない。それが流儀なので、そのまま、残した。
だが、その胸の奥では。
一つの、大きすぎる問いが、静かに頭をもたげていた。
* * *
(この魔法を、最初に"書いた"のは、誰なのか)
リゼットはその夜、一人、いちばん古い頁を見つめていた。
燭台の火を、少し遠ざける。古い頁は、熱にも光にも弱い。
それなのに、記号だけは、少しも老いていなかった。羊皮紙が黄ばみ、端が崩れ、他の箇所のインクが掠れても、その一群の記号だけは、昨日書かれたもののように、輪郭が立っている。
書かれてから、四百年。あるいは、もっと。
時間に、削られていない。
この世界のあらゆるものは、時間に削られるのに。
王家が消したのは、旧体系だ。だが、その旧体系すら、"誰かが、作った"ものだ。そして、その最も古い言語は、この世界の人間が積み上げた癖を、持っていない。
まるで、この世界そのものが。
誰かによって"設計"され、その設計図として、この言語が最初に置かれた、みたいに。
世界に、作った人が、いる。
その、あまりにも大きな仮説を。
リゼットは、手記のいちばん端に、ごく小さく書いた。
『最深層の言語は、人間の発明ではない可能性。』
『"世界を記述するための言語"に、似ている。』
『問い:この魔法を、最初に書いたのは、誰か。──保留。証拠、圧倒的に、不足。』
彼女は、その問いを丸で囲んで。
そして、静かに手記を閉じた。
今は、まだ追えない。証拠も、時間も、足りない。目の前には、結界という、差し迫った締切がある。
だが。
いつか。
すべてが片付いた、その先で。
この、いちばん大きくて、いちばん遠い問いに。
彼女は必ず、もう一度、向き合うことになる。
五歳の日に、床の魔法陣に恋をした少女が、たどり着く、いちばん遠い場所。
世界の、設計図の、そのまた、外側。
それを、書いた、誰か。
「……いつか、必ず、読みます」
リゼットは、閉じた手記にそっと手を置いて、呟いた。
その問いは。
今は、まだ、種のまま。
彼女の、いちばん奥の引き出しに、静かにしまわれた。
窓の外の空が。
青白く、脈打っている。
遠い問いは、引き出しの中で、眠り。──差し迫った締切は、扉の外で、待っていた。




