カルロスの、なんか変
研究は、一つの壁に突き当たっていた。
古代魔導書の、いちばん深い層。そこに書かれた術式の一群が、どうしても読めない。
「記号は、追えます。文法も、たどれます。ですが、通りません」
リゼットは、めずらしく苛立っていた。
「この術式、部分ごとには意味が分かります。なのに、全体を組み上げると、破綻する。どこかに、私が見落としている前提がある。──三日、考えて、分かりません」
三日、分からない。それは、リゼットにとって、めったにないことだった。
アリスが心配そうに覗き込む。エドガーも腕を組んで唸っている。ルイスは、食事を運ばせながら、静かに見守っていた。
三日間の記録は、こうである。
一日目、リゼットが仮説を七つ立てて、七つ潰した。
二日目、エドガーが、帝国式の読み替えを試して、三つ潰した。ついでに、二人の議論が白熱しすぎて、アリスの手が、三回挙がった。
三日目、リゼットは、めずらしく、無言になった。無言のリゼットは、荒れた海より不穏である、というのが研究班の共通見解だった。
「な、なんか、飲み物、入れますね……!」
アリスが、逃げるように席を立った。
ルイスは、そんな研究室に、何も言わず、果実水と焼き菓子を置いていった。置く位置は、リゼットの右手の、帳面の邪魔にならない場所。三日目には、置き方まで、上達していた。
そして、カルロスは。
三日目の昼、研究室にいなかった。
窓から見下ろすと、演習場の脇の水路のふちに座って、洗い場の水面を、ぼんやり眺めていた。学院の下働きが、洗った布を、次々に水へ通している。
「……あいつは、何をしているんですか」
エドガーが、呆れた声で言った。
「サボりでは、ないと思います」
リゼットは、窓辺から動かなかった。
「あの人は、分からない時、必ず、外に出ます。図に見飽きた目を、一度、洗いに行くのだと思います」
「洗いに」
「私は、それができません。私は、分からない時、もっと近くで見ようとします。──近づきすぎて、見えなくなります」
やがて、カルロスが戻ってきた。
手に、術式図の写しを一枚、持っている。持ったまま、机の隅に座り、それを逆さまにしては、首を傾げていた。
外の光を、一度浴びてきた目が、紙の上を、ゆっくり滑っていた。
* * *
「なあ、リゼット」
カルロスが、間の抜けた声で言った。
「これ、なんか、変じゃね?」
「どこがですか」
「いや、分かんねえけど。──なんか、変。この、真ん中の線。ここだけ、他と、"呼吸"が違う気が、する」
「呼吸」
リゼットは、その言葉を繰り返した。
「魔力の流れの、リズムのことですか」
「あー、そういう難しいのは、分かんねえ。ただ、他の線は、みんな同じテンポで歩いてるのに。この線だけ、一人だけ、逆走してる、みたいな。──俺、そういう、"みんなと歩調の合ってないやつ"を見つけるの、得意なんだ。教室でも、いっつも、浮いてる側だったから」
リゼットの手が、止まった。
逆走。歩調が、合っていない。
彼女は、カルロスの指さした、真ん中の線をじっと見た。そして──息を呑んだ。
「……逆位相」
「なんて?」
「この線だけ、位相が逆です。他の線が右回りに流れているのに、これだけ、左回り。だから、全体を組むと破綻していた。──私は、全部の線が同じ向きだと、思い込んでいた。この一本だけ、逆に流れることを、前提にしていなかった」
リゼットは、震える手で、術式を組み直した。
真ん中の線を、逆向きに。他の線を、順向きに。
すると。
破綻していた術式が。
するりと、通った。
* * *
「……通りました」
リゼットは、呆然と呟いた。
「三日、私が理屈でたどり着けなかった前提を。カルロス、あなたは、"なんか変"の一言で、破りました」
「え、俺、なんか、すごいこと、した?」
「しました」
リゼットは、真顔でカルロスを見た。
「私は、全部の線が揃っている、という思い込みに囚われていました。整った、美しい前提に。──ですが、あなたは、その"揃った美しさ"の中に、たった一本混じった、"歩調の合わない線"を、感覚で見つけた。理屈は、美しさに騙されます。あなたの直感は、騙されない」
カルロスは、照れくさそうに頭を掻いた。
「なんか、よく分かんねえけど。俺みたいな、はみ出し者にも、使い道があるってことか」
「使い道、ではありません」
リゼットは、即答した。
「あなたにしか、できない役割です。──理屈がいちばん届かない場所を、あなたは直感で埋める。私と、あなたは、正反対で、だから、組むと強い」
アリスが横で、うんうん、と頷いた。
「私も、そう思います。カルロスくんの『なんか変』、何回も助けられました」
「お前ら、俺のこと、褒めすぎだろ。……悪い気は、しねえけど」
「では、記録します。『カルロスの直感、三日分の理屈に勝利』」
「そういうのは、記録しなくていいんだよ!」
記録された。
なお、エドガーは、この一部始終を見て、しばらく黙り込んでいた。
「どうしました」
「……帝国の解読班には、精鋭が三十人いる。三十人がかりでも、たぶん、この壁は越えられなかった」
「でしょうね」
「そこは謙遜しろ。……いや、違うな」
エドガーは、カルロスを見た。
「三十人の精鋭には、"はみ出し者の目"が、一人分も、なかった。それだけの話だ。──帝国に帰ったら、解読班の採用基準を、書き換えさせる」
「俺、いま、帝国の制度を変えたのか?」
「変えた。誇れ」
カルロスは、誇っていいのか分からない顔で、菓子を齧った。
* * *
その夜、リゼットは手記に書いた。
『解読の壁:一本の線の"逆位相"を見落としていた。』
『発見者:カルロス(直感)。』
『教訓:整った前提ほど、疑いにくい。"揃っている"という思い込みが、いちばんの死角。』
書いてから、彼女は少し考えて、もう一行足した。
『注記:私一人では、この壁は、越えられなかった。』
リゼットは、その一行をじっと見た。
五歳の日、彼女は一人だった。誰にも理解されず、たった一人で、床の陣に恋をした。すべてを、自分の理屈で解いてきた。
だが今は。
自分の理屈が届かない場所を、逃げない平民が、直感で埋めてくれる。怯えていたヒロインが、光を注いでくれる。他国の皇子が、外の視点をくれる。婚約者が、倒れる前に、食事を運んでくれる。
一人では越えられなかった壁を。
みんなで、越えている。
「……悪くない、研究班です」
リゼットは、静かに呟いた。
その声は。
いつもの、事務的なものとは、少し違って。
どこか、あたたかかった。
窓の外で、研究室の灯りが、夜の学院に、ぽつりと灯っている。
その灯りの下で、四人は、また床に這いつくばって。
消された魔法を、一行ずつ、読み解いていく。
誰も、欠けることなく。
まだ、この時は。




