フロストは、なぜ滅んだのか
「制御を失った失敗が、禁忌として語り継がれる」。
その発見を聞いたエドガーが、ふと、真顔になった。
「……一つ、思い当たる話がある」
「なんですか」
「帝国の北方に。フロスト、と呼ばれる遺跡群がある」
エドガーは、いつになく慎重な口ぶりで言った。
「かつて、そこには、現代より五百年は進んでいた魔法文明が、あったと言われている。だが──ある時、一夜にして、滅んだ。誰も、理由を知らない。帝国では、"触れてはならない禁地"として扱われている」
リゼットの目が、光った。
「その、資料は」
「持ち込める。ただし、帝国の最重要機密扱いだ。──共同研究の証として、貸そう。お前になら」
「独断ですか」
「まさか。父上には、去年のうちに、通してある」
エドガーは、いかにも面倒そうに肩をすくめた。
「『あの遺跡は、帝国が三代かけて読めなかった。シルヴァーヌ嬢に読ませて半分を得る方が、抱え込んで零を守るより、百倍得です』──そう申し上げた。父上は、しばらく黙ってから、"其方の言い分は商人のようだ"と仰って、印を押された」
「褒められたのですか」
「帝国では、あれは褒め言葉だ」
ルイスが、低く笑った。笑ってから、少しだけ考える顔になった。皇帝が印を押したということは、帝国もまた、この解析の結果を待っているということである。
数日後。
アルテリア帝国から、フロスト遺跡の拓本と記録の写しが、届いた。
* * *
フロストの術式は、美しかった。
リゼットがいま解読している、古代魔導書の旧体系と、同じ思想。複数の鍵属性。多重の道。だが、フロストのそれは、この国の旧体系よりも、はるかに進んでいた。
「……凄まじいです」
リゼットは、拓本を食い入るように見つめた。
「この国が消してしまった旧体系を、フロストは、消さずに育て続けた。五百年、先まで。──もし、これが残っていたら。世界は、まるで違う姿になっていた」
だが。
フロストは、滅んだ。
そのいちばん奥の拓本に。
「最後の術師」が遺したという、記録があった。
『我々は、世界の、真実に、近づきすぎた。』
『均衡が、崩れ始めている。魔導院が、来る前に、記録は、隠す。』
『いつか、誰かが、この続きを、読む日まで。』
リゼットは、その一文を、何度も読んだ。
「均衡が、崩れた……」
彼女の指が、拓本の別の一枚をなぞる。滅亡の、直前の記録だった。
* * *
三日、三晩。
リゼットは、フロスト滅亡の記録に没頭した。マリーが食事を運び、ルイスが睡眠を見張り、アリスとカルロスが資料を整理する。エドガーは、帝国の視点から注釈を加えた。
二日目の夜、ルイスは、条約の権限を行使して、リゼットを強制的に一度、寝台へ送った。
「あと、一枚だけ」
「その一枚が、三十枚になる。歩け」
「……歩きます」
素直に歩いたのは、断る計算すら回らないほど、頭を使い切っていたからである。六時間後、彼女はみごとに復活して、拓本の前に戻ってきた。条約は、正しく機能していた。
そして、四日目の朝。
リゼットは、顔を上げた。
「分かりました。フロストが、滅んだ理由」
全員が、息を呑む。
「フロストは、封印された魔法を、解放しようとしました。そこまでは、私と同じです。──ですが、やり方が、違った」
リゼットは、拓本を指した。
「彼らは、急ぎすぎた。段階を踏まず、封印を、力ずくで一気にこじ開けようとした。しかも、その力を、ごく一部の術師だけで独占した。世界中の魔力の流れを、記録も、制御も、しないまま、一斉に書き換えようとして──」
彼女は、拓本のいちばん最後の、崩れた術式を示した。
「均衡が、崩れた。魔力の流れが暴走し、制御を失い、一夜にして、文明ごと消し飛んだ。──ちょうど、私たちが、光と闇をいきなり同時にぶつけた時、術式が弾けたのと、同じです。ただし、規模が、文明そのものだった」
* * *
研究室に、重い沈黙が落ちた。
「……なあ」
カルロスが、恐る恐る口を開いた。
「それって、俺たちが、やろうとしてることと。同じ、なんじゃ、ないのか。封印された魔法を、開こうとしてる。──俺たちも、フロストみたいに、なるんじゃ」
その問いは。
全員の胸の、いちばん痛いところを突いた。
だが、リゼットは首を振った。
「なりません」
その声は、静かで、確信に満ちていた。
「フロストを滅ぼしたのは、"魔法を、開いたこと"では、ありません。──"急激に、無制御で、独占して"開いたことです。原因は、開放そのものではなく、そのやり方だった」
リゼットは、自分の手記の山を示した。
「私は、逆のやり方をしています。急がず、段階を踏む。低出力の模型から、一つずつ。すべてを記録する。都合の悪いことも、消さずに。そして──独占しない。読んだものは、体系化して、誰にでも渡す。フロストが犯した三つの過ちを、私は、最初から、避けています」
彼女は、まっすぐ仲間を見た。
「段階的に。制御して。記録して。共有する。──これなら、均衡は崩れません。フロストの滅亡は、"開いてはいけない"証明では、ありません。"間違ったやり方で、開いてはいけない"証明です」
エドガーが、深く息を吐いた。
「……帝国が五百年、"禁地"として蓋をしてきたものの答えを。お前は、四日で出したのか」
「四日ではありません」
リゼットは、少しだけ目を細めた。
「五歳の日から、"分からないものを、消さない"やり方だけを、積み重ねてきました。その、十年分の答えです」
エドガーは、しばらく黙っていた。
それから、拓本を、丁寧に布で包み直した。
「……帝国に、報告書を書く。ただし、結論は、お前の言葉のまま書く。『開放そのものは、原因ではない』と」
「機密扱いの禁地の話を、ですか」
「ああ。五百年の蓋に、風穴を開ける価値は、ある」
皇子の顔は、いつの間にか、共同研究者の顔になっていた。
* * *
その夜、リゼットは、手記にいちばん太い字で書いた。
『フロスト滅亡の原因:急激・無制御・独占による、均衡の崩壊。』
『開放そのものは、原因ではない。』
『段階的・制御・記録・共有──この四つを守れば、均衡は崩れない。』
『よって、「旧い魔法を解放すれば世界が滅ぶ」は、誤り。正しくは、「間違ったやり方で解放すれば滅ぶ」。』
彼女は、その一行を、じっと見つめた。
いつか、誰かが言うだろう。
旧い魔法に触れるな。世界が滅ぶ。フロストのように。──それは、本気の恐怖から出る言葉かもしれない。
その時、私は、これを見せる。
あなたの恐怖は、正しい。だが、その解決は、間違っている。消すのではなく。正しく、制御して、開くのだ、と。
その"誰か"に、いつか会う日のために。
リゼットは、この四日分の記録を、いちばん取り出しやすい場所に、綴じた。
窓の外の空が。
いつもより、少しだけ青白く。
脈を、打っていた。




