隅に追い詰めて、測る
あの、結界を救うと誓った日から、八年。
禁書庫の扉を一枚ずつ開け、結界を少しずつ補強し、静寂院と静かに睨み合いながら、リゼットは、十五歳になった。
そして今日、王立学院に、入学する。
* * *
王立学院は、王都の東にある、広大な学び舎だった。
貴族の子弟が集い、魔法と教養を修める。そして、かつてリゼットが読んだ、あの恋愛小説の、舞台でもあった。
「ついに、来てしまいましたね」
マリーが、入学式の朝、複雑な顔で言った。この歳月で、彼女も歳を取ったが、胃薬を手放せないところは、何ひとつ変わっていない。
「乙女ゲームの、舞台でございます。お嬢様が、断罪される、あの……」
「はい。ようやく、盤の上に、来ました」
リゼットは、静かに答えた。
「静寂院は、この学院で、決着をつけるつもりです。公開の場で、私を悪女に仕立て、断罪する。乙女ゲームの筋書きを、政治の手続きとして、なぞる」
「なぜ、今になって」
「今しか、ないからです」
リゼットは、手袋の指を、一本ずつ整えた。
「この五年、私は、侯爵領と王宮の内側にいました。領地では父の権限が、王宮では殿下の目が働きます。あの人たちが手を出せば、必ず、記録に残る場所ばかりでした。……ですから、彼らは、待ったのです」
「待った、のでございますか」
「学院は、王家の庇護の外にあります。生徒は、身分ではなく成績で並ぶ建前です。侯爵令嬢も、平民の特待生も、同じ席に座る。──私の後ろ盾が、いちばん薄くなる三年間です」
マリーの手が、胃のあたりで止まった。
「……向こうも、五年、待っていたのですね」
「はい。ですから、条件は、対等です」
リゼットは、静かに言った。
「向こうは五年、盤を整えました。私も五年、駒を作りました」
「怖くは、ないのでございますか」
「怖いです」
リゼットは即答した。それから、少しだけ目を細めた。
「ですが、ここには、彼女がいます」
「彼女、とは」
「光属性の、鍵です」
* * *
その少女を、リゼットは入学式の会場で、すぐに見つけた。
仕立ての違う、質素な制服。緊張で、青ざめた顔。貴族の子弟たちの中で、一人だけ、明らかに、場違いだった。
平民でありながら、希少な光属性を持って生まれ、特待生として学院に入った少女。
名を、アリスといった。
物語の、ヒロインだった。そして、リゼットにとっては——五年前、南の辺境の村で一度だけ会い、「実験に最適な被験体です」と告げた途端、泣いて逃げていった、あの少女でも、あった。
(ようやく、また会えました)
周囲の貴族たちは、遠巻きに、彼女を見ていた。好奇と、侮蔑と、わずかな警戒。平民が、特待で、王立学院に。しかも、あの、不吉な光属性。
アリスは、その視線に、身を縮めていた。
彼女は、知っていた。自分の魔力が、"普通ではない"ことを。光を出そうとすると、時々、線が、二つに、ぶれる。制御が、きかない。故郷では、それを、気味が悪いと言われ続けてきた。欠陥品だと。
だから、アリスはずっと、怯えていた。自分の力を、誰にも見せたくなかった。
そんな彼女に、まっすぐ、歩み寄ってくる人影があった。
銀灰色の髪。薄紫の瞳。冷たく整った、完璧な令嬢。
王太子の婚約者にして、学院で最も名の知れた——そして、最も恐れられている——シルヴァーヌ侯爵家の、リゼット。
物語の、悪役令嬢だった。
* * *
会場が、ざわついた。
誰もが、同じことを思った。
来た。悪役令嬢が、平民のヒロインを、いじめに来た。物語の、通りに。
アリスは、身をこわばらせた。逃げ場は、壁だった。背中が、冷たい石に、触れる。
リゼットは、その少女を壁際に追い詰めた。
傍から見れば、完璧な断罪前のいじめの構図だった。
アリスは、目をつぶった。何を言われるのか。どんなふうに、傷つけられるのか。覚悟を、決めた。
リゼットが、口を開いた。
「あなたの光属性を、測らせてください」
アリスの目が、開いた。
「……え?」
「あなたの魔力。光を出そうとすると、線が二つに、ぶれるでしょう。二重化です。それは、欠陥ではありません」
リゼットの薄紫の瞳が、まっすぐに、アリスを見た。値踏みでも、侮蔑でもない。ただ、純粋な知的好奇心の炎が、そこに灯っていた。
「あなたの持っている光属性は、四百年前に消された、本当の魔法の、鍵かもしれません。あなたの魔力がぶれるのは、あなたが壊れているからではなく——あなたが、正しく、旧い魔法を、思い出しかけているからです」
アリスは、動けなかった。
生まれて、初めてだった。
自分の力を、気味が悪い、とも、欠陥だ、とも、言わない人。それどころか——正しい、と言う人。
「あの……」
アリスの声が、震えた。
「私の、力を……気持ち悪いと、思わないんですか」
「思いません」
リゼットは、即答した。
「むしろ、最高です。あの日から、ずっと、あなたが、また現れるのを、待っていました」
* * *
会場は、混乱の極みにあった。
「り、リゼット様が、平民をっ……!」
「なんて、おいたわしい……!」
攻略対象の一人であろう、正義感の強そうな貴族の少年が、剣を抜きかねない勢いで、飛び出してきた。
「シルヴァーヌ嬢! いくらあなたでも、身分の低い者を、壁際に追い詰めて脅すとは──!」
「脅していません。勧誘しています」
リゼットは、真顔で答えた。
「かん、ゆう……?」
「彼女の光属性は、国家的に重要な研究対象です。共同研究を、申し込んでいます」
少年は、混乱した。予習してきた筋書きと、目の前の光景が、まったく噛み合わない。
その後ろで、婚約者であるルイスが、笑いをこらえるのに、必死になっていた。彼だけは、事情を、全部、知っている。八年前から。
マリーは、会場の隅で、遠い目をしていた。
「……お嬢様が、ヒロイン様を、いじめるどころか、スカウトしておられます」
乙女ゲームの断罪ルートは、開始五分で、根本から、壊れていた。
* * *
その夜。
寮の自室で、アリスは、なかなか眠れなかった。
昼間のことが、頭から離れない。恐ろしいはずの悪役令嬢。断罪されるはずの、初日。それが、まさか、生まれて初めて、自分を"正しい"と言ってくれる人との、出会いになるなんて。
一方、リゼットは自室の机で、新しい手記を開いていた。
『被験体候補:アリス。光属性。二重化の自然発現を確認』
書きかけて、少し考え、一行書き足す。
『注意:本人は、長く"欠陥"と言われ、怯えている。研究協力を得るには、まず、その恐怖を、解く必要がある』
リゼットは、その一行を、じっと見た。
被験体、と書いた。だが、彼女は、知っていた。この少女が、ただの研究対象ではないことを。物語が、自分を断罪するために配置した、ヒロイン。その少女が、実は、消された魔法を、結界を、そして、この国そのものを、救う鍵だということを。
そして——静寂院も、同じことに、気づいている。
(彼らは、アリスを危険視します。私とアリスが、揃えば。旧い魔法が、根本から蘇る。彼らが四百年、蓋をしてきたものが、全部開く)
リゼットは、窓の外の、暗い学院を見た。
どこかで、静寂院の目が光っている。断罪の舞台は、整った。役者も、揃った。
悪役令嬢と、ヒロイン。物語では、憎み合うはずの二人が。
同じ机の上で、消された魔法を、読もうとしている。
「……面白くなってきました」
リゼットの薄紫の瞳に、いつもの炎が、灯った。
物語は、始まった。
ただし、筋書きは、もう彼女のものだった。




