八年の、地図
王立学院への、入学の前夜。
マリーは、リゼットの荷物を詰めながら、何度も手を止めた。
寮へ持っていく着替え。研究用の紙とインク。エミールから託された古い帳面。そして──内ポケットに模型紙片を忍ばせるための、特製の制服。
「……お嬢様。制服の内ポケットは、一つだけにいたしましょうね」
「二つ、必要です」
「一つでございます」
「模型紙片と、記録用紙を」
「一つでございます」
「では、外ポケットの増設を」
「増設しないでくださいませ」
その攻防は。
初めての夜会のドレスを選んだ、あの日と。
何一つ、変わっていなかった。
マリーは、ふと笑った。そして、少しだけ、泣きそうになった。
荷物の中には、道具ではないものも、少しだけ入っていた。
五歳の日、初めての実験で焦がした机の、小さな木片。七歳の王宮突撃の日に着ていた上着の、釦がひとつ。エミール先生の店のものと同じ、渋い茶の茶葉が、ひと袋。
「お嬢様。これは、道具でございますか」
「……いいえ」
「では、なんでございますか」
「分類、不能です」
リゼットは、少し困った顔で言った。
「ですが、置いていくと、観測に支障が出る気がします」
「それを世間では、お守りと申します」
マリーは、分類不能の小箱を、荷のいちばん壊れにくい場所に、詰め直した。
ちなみに、小箱のいちばん上に収められたのは、王太子から届いた書簡の束だった。本人は「数値表の控えです」と主張したが、数値表を紐で束ねて上等な布に包む人間は、いない。マリーは、何も言わなかった。言わないのが、良い侍女長である。
* * *
荷造りの手を止めて。
マリーは、この十年を思い返した。
五歳の日。応接間の床に這いつくばり、皆が、悪霊に取り憑かれたと大騒ぎした、あの日。マリーは、廊下で絶叫した。お嬢様が、壊れてしまわれた、と。
あれから、十年。
お嬢様は、机を焦がし、紙を光らせ、家庭教師を全滅させ、屋敷の壁を覗き込み、王宮に突撃し、婚約を契約と呼び、禁書庫の扉を開け、国の結界を直し、侯爵家を勝手に大国にし、宮廷を震え上がらせ──
そして、今も、内ポケットを二つに増やそうとしている。
何一つ、変わっていない。
いや。
一つだけ、変わった。
(お嬢様は……一人では、なくなられた)
十年前、床の魔法陣に恋をした時。お嬢様は、たった一人だった。誰にも理解されず、ただ、面白いものを見つけて、目を輝かせていた。
今は、違う。
同じ問いを追う、エミール先生がいる。研究を認めた、宮廷の魔術師たちがいる。震えながらも、予算を出し続ける旦那様がいる。そして──倒れれば、必ず駆けつける、ルイス殿下がいる。
まだ会えていない、アリスという鍵の少女さえ。
お嬢様の、地図の中にいる。
「マリー」
リゼットの声がした。
「はい、お嬢様」
「明日から、しばらく屋敷を離れます。あなたも、学院の寮に一緒に来てくれるとはいえ──この屋敷の、いつもの部屋で、あなたと過ごすのは、今夜が、当分、最後です」
「……はい」
「十年、ありがとうございました」
マリーの手が、止まった。
リゼットが、そんな言葉を口にするのは、珍しかった。
* * *
「あなたは、いつも、私を止めてくれました」
リゼットは、静かに続けた。
「机を焦がした時も。王宮に突撃しようとした時も。倒れるまで研究した時も。あなたがいなければ、私は、たぶん、とっくに燃え尽きていました。──あなたの絶叫と胃薬が、私を生かしてくれました」
「お嬢様……」
「明日から、学院で、静寂院と戦います。アリスに会います。結界を救います。──たぶん、また、無茶をします。ですが」
リゼットは、まっすぐマリーを見た。
「あなたが隣にいてくれるなら。何度でも、帰ってこられる気がします」
マリーは、こらえきれずに泣き崩れた。
「うっ……お嬢様……! 私は、ただの、侍女長で……! 何も、できませんが……! それでも、どこまでも、お供、いたします……!」
「はい。お願いします」
リゼットは、微笑んだ。
その微笑みは、魔法陣を見つけた時とは違う。もっと、あたたかい、人の微笑みだった。
いつからか、お嬢様は、そういう顔もするようになった。
マリーには、それが、何より嬉しかった。
* * *
寝る前に、リゼットは、父の書斎の扉を叩いた。
「明日、発ちます」
「ああ」
サイラスは、書類から顔を上げた。十年間、娘の研究費の決裁をし続けた机である。
「学院からも、予算の申請書は、届くのだろうな」
「はい。月に一度、まとめて」
「……月に一度で、済むのか」
「努力します」
「努力ではなく、約束にしなさい」
それから、サイラスは、机の引き出しから小さな包みを出して、娘に渡した。中身は、胃薬だった。
「私には、もう要らないほど、買ってしまった。持っていきなさい」
「私の胃は、丈夫です」
「お前のではない。──お前の周りに、必要になる」
のちに学院で、この胃薬は大いに役に立つことになる。主に、リゼットの周囲の人々に。
書斎を出ると、廊下でロアンが待っていた。
「屋敷の陣の維持は、お任せください。……その、お嬢様」
「はい」
「最初の頃、私は、あなたの実験に付き合うのが、正直、こわかった。今は、休暇のたびに続きを聞けるのが、楽しみです」
「では、記録を溜めておきます」
「ほどほどの量で、お願いします」
* * *
その夜、遅く。
リゼットは、一人、窓辺に立っていた。
十年分の手記が、机に積まれている。結界の記録。古代魔導書の解読。アリスの探索。静寂院との攻防。すべてが、そこに記されていた。
明日から、その、すべてが動き出す。
リゼットは、いちばん最初の手記を手に取った。五歳の日に書いた、最初の頁。まだ、たどたどしい文字で。
『この世界の魔法陣は、たぶん、同じ原則で作られている。』
『だとしたら、この国の結界も、同じ欠陥を抱えている。』
あの日、五歳の彼女が、たった一人で抱えた、大きすぎる結論。
それを、彼女は十年かけて証明し、そして、明日から解決しにいく。
一人では、ない。
「……行きましょう」
リゼットは、静かに呟いた。
窓の外の空は、澄んでいた。だが、その遠くで。
嵐の匂いと、そして、五年ぶりの再会の予感が。
静かに、近づいていた。
王立学院での日々が。
明日、始まる。
残された時間は、一年。
その一年で、アリスを見つけ、光の使い方を渡し、四百年前の並列処理を組み直し、国の壁を、根本から修復する。
どれか一つが遅れれば、他の全部が間に合わない。
(工程に、余裕はありません)
だが、五歳の日から数えて、余裕があったことなど、一度もなかった。
『残り:一年』
その一行を、リゼットは荷物のいちばん上に置いた手帳の、最初の頁に書いた。
毎朝、いちばん先に目に入る場所である。




