光を、こわがらなくていい
王立学院の授業は、リゼットにとって、退屈だった。
初日の魔法理論の講義で、教師が黒板に基礎術式を書いた瞬間、リゼットの手が挙がった。
「先生。その術式、三行目の魔力係数が間違っています。このまま発動すると、消費が二割増えます」
教室が、静まり返った。教師が、震える手で計算を見直し、そして、青ざめた。
「……確かに、そうですな」
「それから、七行目の緩衝記号も不要です。位相を半波長ずらせば、一つで足ります」
「あの、シルヴァーヌ嬢。授業を、進めても……」
「どうぞ。ただ、間違ったまま教えると、生徒が困りますので」
教師は、その日、二度と黒板の前で自信を持てなかった。
リゼットにとっては、いつものことだった。五歳の日から、彼女は本を読むのではなく、採点してきた。相手が教科書でも、教師でも、変わらない。
* * *
だが、学院には、授業よりもずっと興味深いものがあった。
アリスである。
あの入学式以来、アリスはリゼットを見ると、逃げた。
昼休み、リゼットが中庭に現れると、アリスは食べかけのパンを持ったまま、反対方向へ歩き出す。図書館で目が合えば、本棚の陰に消える。廊下で鉢合わせすれば、回れ右をする。
「逃げていますね」
リゼットは、三度目に逃げられたあと、静かに言った。
「お嬢様。それは、そうでございます」
付き添いのマリーが、疲れた声で答えた。学院にも、マリーは同行を許されていた。侍女長というより、もはや保護観察官に近い。
「初対面で壁際に追い詰めて『測らせてください』と言えば、誰でも逃げます」
「勧誘だったのですが」
「勧誘の仕方が、脅迫でございました」
リゼットは、少し考えた。
「……改善します」
「その意気でございます」
だが、リゼットの"改善"は、たいてい、普通の人の想定とは違う方向へ進む。
翌日、リゼットは、アリスが逃げ込む先で待っていた。
* * *
図書館の、いちばん奥の書架。誰も来ない、埃っぽい一角。
アリスが、いつものように逃げ込んでくると、そこに、リゼットが座っていた。膝の上に、紙と、羽ペン。
「ひっ……」
アリスが、後ずさる。
「逃げなくて、いいです」
リゼットは、顔を上げずに言った。
「今日は、追い詰めません。ただ、あなたに、見せたいものがあるだけです」
アリスの足が、止まった。逃げるべきだ、と、頭では分かっている。この人は、恐ろしい悪役令嬢だ。物語で、自分をいじめ抜く役の。
でも。
リゼットが広げた紙には、見たこともない、美しい魔法陣が描かれていた。
「これは……?」
アリスが思わず、一歩近づいた。
「あなたの魔力を、写し取ったものです」
リゼットは言った。
「先日、あなたが逃げる時に、ほんの一瞬、光属性が漏れました。それを、記録しました。──あなたの光は、こうなっています」
紙の上の魔法陣。その中央で、一本の光の線が、ゆるやかに、二つに分かれていた。
アリスの顔が、こわばった。
「……それが、私の、欠陥です」
彼女の声が、震えた。
「故郷で、みんなに言われました。私の光は、気味が悪いって。線が、二つにぶれるって。壊れているって。だから、私……ずっと、光を、出さないようにして……」
「壊れていません」
リゼットは、きっぱりと言った。
「アリス。この、二つに分かれる光。これは、欠陥ではありません。四百年前に消された、本当の魔法の、いちばん大事な機能です」
* * *
リゼットは、もう一枚、紙を取り出した。
そこには、古代魔導書から写した、旧い術式が描かれている。蔦のように絡む、二本の光の経路。
「昔の魔法は、光を、二本の道で、同時に走らせました。一本が途切れても、もう一本が支える。だから、絶対に、消えない。──あなたの光が二つにぶれるのは、あなたが、その"二本の道"を、生まれつき、思い出しているからです」
アリスは、二枚の紙を見比べた。
自分の光。古代の魔法。
二つは、同じ形をしていた。
「あなたは、壊れているんじゃない。アリス。あなたは、みんなが忘れた魔法を、たった一人、覚えていた。──それは、欠陥ではなくて」
リゼットは、顔を上げた。その薄紫の瞳に、いつもの、あの炎が灯っている。ただし、今日は、少しだけ、やわらかかった。
「才能です。それも、この国で、たった一つの」
アリスの目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
生まれて、初めてだった。
気味が悪い、と言われ続けた光を。壊れている、と言われ続けた自分を。
正しい、と。才能だ、と。言ってくれる人が、いた。
「……本当、ですか」
アリスの声が、掠れる。
「私、才能なんて、言われたこと、一度も……」
「事実です」
リゼットは、即答した。
「私は、都合のいい嘘は、言いません。あなたの光は、本物です。証明できます。だから──こわがらなくて、いい」
* * *
しばらく、アリスは泣いていた。
リゼットは、急かさなかった。ただ、隣に座って、紙の上の光の線を、眺めていた。マリーが、そっと、二人分のお茶を、書架の陰に置いた。
やがて、アリスは涙を拭って、顔を上げた。
「あの……シルヴァーヌ様」
「リゼットで、いいです」
「リゼット、様」
アリスは、おずおずと聞いた。
「私の光を……その、才能だって言うなら。私、どうすれば、いいんですか。ずっと、隠してきたから、使い方も、分からなくて」
「五年、どこにいましたか」
アリスは、少しだけ、目を伏せた。
「灰色の服の人たちが……いつも、来ました。悪い人たちでは、なかったです。食べ物も、くれました。冬の薪も。……ただ、半年か、一年に一度、"そろそろ移りましょう"って」
指を、折り始める。折る指が、五本を超えた。
「東の谷。港の裏の長屋。山の中の小屋。それから、名前を教えてもらえない村が、二つ。──家の柱に、背を測った跡をつける癖がついたのは、次の家で、どれだけ伸びたか、分からなくなるからです」
リゼットの指が、膝の上で止まった。
春先の、空き家。土間の柱に、五つ並んでいた横一文字の刻み。いちばん上は、自分の目の高さより、少し低かった。
「一つだけ、絶対に駄目だと言われました」
アリスは、自分の手のひらを見た。
「光を、使うこと。使ったら、"悪い人たちに見つかる"から、って。……だから、暗いところが、こわくても、灯りは、つけませんでした」
「守られていたのですね」
「……はい。守られて、いました」
アリスの声が、少しだけ、細くなった。
「守られている間、私は、一度も、誰にも、必要とされませんでした」
リゼットは、その一文を、記録しなかった。
代わりに、はっきりと言った。
「私は、必要としています。──今日から、あなたの背は、同じ柱で測れます」
リゼットの目が、輝いた。
それは、新しい魔法陣の欠陥を見つけた時の、あるいは、五歳の日に床の陣に恋をした時の、あの目だった。
その前に、と言って、リゼットは鞄から、表紙に何も書かれていない冊子を取り出した。
角が丸くなり、綴じ糸が一度ほどけて結び直してある。持ち歩かれた年数が、そのまま形になっていた。
「五年前から、書いていました」
アリスが、受け取って、最初の頁を開く。
そして、動きが止まった。
光らせ方では、なかった。
『第一章 消し方』
「……消し方が、いちばん最初なんですか」
「はい」
リゼットは頷いた。
「あなたは、光をこわがっています。こわいものを、出す練習から始めるのは、順序が逆です。──いつでも自分で消せる、と分かってから、初めて、出せます」
アリスの指が、頁の上で、震えた。
村を出てから五年、大人たちは全員、同じことを言った。使うな。隠せ。出すな。──誰も、消し方は、教えてくれなかった。消し方を教えるには、一度、光らせてやらねばならないからだ。
誰も、そこまでは、付き合ってくれなかった。
「宿の灯りの下で、少しずつ書きました。会える日がいつか分からなかったので、分からない分だけ、良いものにできました」
「……五年、ですか」
「五年です。十回、間に合いませんでしたから」
アリスは、冊子を胸に抱えて、もう一度、泣いた。
さっきの涙とは、少し違う泣き方だった。
「一緒に、研究しましょう」
「けん、きゅう……?」
「あなたの光属性を、正しく使う方法を、一から。あなたは、消された魔法の、鍵です。あなたが使えるようになれば、この国の結界も、救えるかもしれません」
「け、結界……!? そんな、大きな話……私に……?」
「あなたにしか、できません」
リゼットは、真顔で言った。
アリスは、しばらく、ぽかんとしていた。
物語の、悪役令嬢に、いじめられるはずだった。断罪される、初日だった。
それが、気づけば、生まれて初めて、自分を認めてくれる人と、国を救う研究を、始めようとしている。
「……はい」
アリスは、小さく、でもはっきりと、頷いた。
「私、やります。リゼット様と、一緒に」
その返事に、リゼットは満足げに頷き、そして、手記に一行書き足した。
『被験体アリス、研究協力に同意。──ただし、"被験体"の呼称は、本人の前では使わないこと。泣くので』
アリスが、横から覗き込んで、また、半分泣きそうな顔になった。
「被験体、って……」
「愛称です」
「愛称じゃ、ないです……!」
図書館の奥で、悪役令嬢とヒロインが、初めて笑い合った。
物語の、筋書きには、ない光景だった。




