隣にいるのが、当たり前
十四歳になると、リゼットには、婚約者としての公務が増えた。
王太子ルイスの隣に立ち、夜会に出席する。他家の当主に挨拶をする。貴族社会の共通規格を満たす。──五歳の日、令嬢教育を最速で終わらせた時から、リゼットは、その"仕様"をこなすことだけは完璧にできた。
中身が、伴っていないだけで。
なお、夜会の支度は毎回、小さな攻防から始まる。
「お嬢様。ドレスの隠しに、その物差しは入りません」
「小型のものを作らせました。入ります」
「入る入らないの問題ではないのでございます」
「では、何の問題ですか」
「品位でございます」
交渉の結果、物差しは没収され、代わりに小さな手帳と鉛筆だけが許可された。マリーとしては大幅な譲歩であり、リゼットとしても大幅な譲歩だった。外交とは、そういうものである。
なお、没収された物差しは、帰宅後に返却される決まりである。返却されると、リゼットが真っ先にするのは、夜会で目測した照明陣の寸法の、答え合わせだった。目測の誤差は、この二年で三割から五分にまで縮んでいる。夜会は、彼女にとって、訓練の場でもあった。
「シルヴァーヌ様は、本当に、王太子殿下とお仲がよろしいのね」
ある夜会で、令嬢の一人が、探るように言った。
「常に、お隣にいらして。まるで、心が通じ合っているみたいで、羨ましいですわ」
「心は、通じていません」
リゼットは即答した。
「ただ、殿下の隣は、大広間の天井の照明陣が、いちばんよく見える位置なのです。今夜も、シャンデリアの光の広がり方に、わずかなムラが──」
「お、お嬢様」
斜め後ろのマリーが、小声で遮る。
「殿下を、照明陣の観測台として扱わないでくださいませ」
「事実です」
マリーは、殿下に心から謝罪した。心の中で。
だが、令嬢は、その言葉をまるで別の意味に受け取った。
「まあ……! 殿下のお隣を、当然のように"自分の場所"と思っていらっしゃるのね……! なんて、堂々とした自信……! さすがシルヴァーヌ様、格が違いますわ……!」
誤解は、いつも通り、あさっての方向へ転がっていった。
なお、この誤解には、後日談がある。社交界に「シルヴァーヌ様は殿下の隣を誰にも譲らない」という評判が流れ、リゼットに挑もうとする令嬢が、また一人減った。悪役令嬢の風格は、本人の知らないところで、着実に育っていくのである。
* * *
その一部始終を隣で聞いていたルイスは。
こみ上げる笑いを、必死にこらえていた。
照明陣の観測台。堂々とした自信。──同じ言葉が、片方には真実として、もう片方には誤解として伝わる。リゼットが隣にいると、いつもこうだ。世界が少しだけ、おかしな方向にねじれて、そして、なぜか退屈しない。
令嬢が去った後。
ルイスは、ふと気づいた。
いつから、この令嬢が隣にいるのが、当たり前になったのだろう。
最初は、政略の婚約者だった。使える駒だと思っていた。次に、放っておくと倒れる、危なっかしい相手になった。そして、今は。
隣にいないと、物足りない。
夜会で、彼女が少し離れた場所で柱の魔法陣を覗き込んでいると、ルイスは無意識に、その姿を目で追っている。彼女が戻ってくると、なぜか少し安心する。
「……いつからだ」
ルイスは、小さく呟いた。
「殿下? 何か、おっしゃいましたか」
「なんでもない」
リゼットが、不思議そうに首を傾げる。
その無防備な仕草を、ルイスは、もう見慣れていた。見慣れているのに、なぜか毎回、少しだけ目を奪われる。
その夜は、一曲だけ踊った。
婚約者同士が一度も踊らないと、それはそれで、要らぬ噂になるからである。
「お前、また、足元で図形を数えているだろう」
「はい。この舞踏の軌跡は、六芒の変形です。よくできています。設計した人は、たぶん、幾何が好きです」
「音楽を聴け。音楽を」
「聴いています。拍は、図形の角です」
「……お前と踊ると、俺は、音楽と幾何を同時に相手にすることになる」
文句を言いながら、ルイスの足取りは、彼女の"図形"に、きれいに合っていた。長年の、成果である。
* * *
「ルイス殿下」
夜会の帰り際。リゼットが言った。
「今夜も、大広間の照明陣を観測できました。あなたの隣は、観測に最適です。ありがとうございました」
「……それは、褒めているのか」
「はい。いちばんいい位置を、いつも譲ってくれます」
ルイスは苦笑した。
彼女にとって、自分の隣は"いちばんいい観測位置"。それ以上でも以下でもない。ロマンチックさなど、欠片もない。
だが。
「なあ、リゼット」
「はい」
「お前は、俺の隣がいちばんいい位置だと言った。──それは、照明陣がよく見えるから、だけか」
リゼットは、少し考えた。
「……分かりません」
彼女は、正直に答えた。
「照明陣がよく見えるのは事実です。ですが、それだけではないような気もします。あなたの隣は、なぜか落ち着いて、観測がはかどります。──理由は不明です。記録はしておきます」
その言葉に、ルイスの胸が、小さく跳ねた。
落ち着く。観測がはかどる。──彼女なりの精一杯の言葉で、彼女は"あなたの隣が心地よい"と言っていた。それに、本人が気づいていないだけで。
「……そうか」
ルイスは、それ以上、何も言わなかった。
まだ早い。彼女の中で、その"不明な理由"が育つまで。自分は待つ。隣で、いちばんいい観測位置を譲りながら。
帰りの馬車で、ギルバートは、主が窓の外を見たまま、ずっと口元が緩んでいるのに気づいた。
「殿下。良い夜会でございましたか」
「普通だ」
「さようでございますか」
良い侍従は、それ以上、聞かない。聞かないが、記録はしている。主の言う"普通"の回数は、シルヴァーヌ嬢が同席した夜会でだけ、妙に多いのである。
その夜、ルイスは自室の帳面に一行、書いた。
『リゼットが、俺の隣を"落ち着く"と言った。──理由は不明、だそうだ。』
『だが、俺は、その理由を知っている。』
彼は、まだ、その理由に"恋"という名前をつけてはいなかった。
だが、隣にいるのが当たり前になった、この感情は。
もう、後戻りできない場所まで、来ていた。




