問いは、続く
どれほど忙しくても。
リゼットは月に一度、バルト街の古書店『星屑堂』を訪れた。
そして、月に一度は、王宮の小実験室にも顔を出した。
こちらは、研究のためというより、条約のためである。
十二歳の秋。ルイスが持ち込んだのは、術式でも報告書でもなく、木の実の砂糖漬けが入った小箱だった。
「南方の献上品だ。三粒食え」
「試料ではないのですね」
「食い物だ。試料にするな」
リゼットは一粒つまみ、しばらく黙り、二粒目に手を伸ばした。
「甘いです」
「感想が短いな」
「甘い、以外の観測項目がありません」
ルイスは笑った。笑ってから、机の端に積まれた計算用紙を、勝手にめくり始めた。以前なら「見てもいいか」と聞いた。今は、聞かない。聞かなくていい程度には、この机の上を許されている。
「……ここ、桁が一つ落ちてないか」
「落ちていません。単位を変えました」
「先に書け」
「書きました。三枚前です」
「三枚前は読まん」
「読んでください」
言い合いながら、二人とも手は止まらない。ルイスが数字を読み上げ、リゼットが書き取る。いつの間にか定着した分担だった。
帰り際、ルイスは扉のところで一度だけ振り返った。
「次は、四十日後だ。公務が詰まっている」
「では、四十日ぶん、質問をためておきます」
「ためるな。手紙に書け」
「手紙は、返事が遅いです」
その一言に、ルイスが何と答えたのかを、マリーは廊下で聞いていた。聞いたが、帳面には書かなかった。
書かない日も、あるのである。
扉を開けると、古い鈴が、いつもの音で鳴る。この音を聞くと、リゼットの頭の中で、一か月分の質問が、勝手に整列を始めるのだった。
師の手記を受け取ったあの日から、エミールとの師弟関係は続いていた。いや──受け取った日から、ようやく本当の師弟になった、と言うべきかもしれない。
「ほう。今度は、共鳴発動の理論か」
十三歳になったリゼットが持ち込んだ研究を、エミールはランプの下で覗き込んだ。
白い髭は以前より少し薄くなった。背も、より丸くなった。だが、その目だけは、四十年前、師と封印書庫の奥を覗き込んだ頃と同じ光を湛えていた。
「複数の術者で、位相を合わせる、か。……昔、師と話したことがあるな。旧い魔法は、一人で使うものではなかった、と」
「先生の師は、そこまで読んでいたのですか」
「読みかけて、消された。──だが、お前が、続きを読んでいる」
エミールは、静かに笑った。
店の奥から、湯気の立つ茶が二つ、運ばれてきた。運んだのは、エミール自身である。星屑堂に、店員はいない。
「相変わらず、渋いお茶です」
「文句を言うな。渋いのは茶ではなく、茶葉の予算じゃ」
「では、次から茶葉を持参します」
「持って来るな。弟子に茶をたかる師匠になってしまうわ」
この応酬も、月に一度の、決まりごとのようなものだった。
「それで。位相合わせの難所は、どこだと見ておる」
「呼吸です」
リゼットは、帳面を開いた。
「術式の側の条件は、揃えられます。ですが、術者が二人になると、揃わないものが一つ増えます。──拍です。魔力の立ち上がりの、拍」
「ふむ」
「楽団が指揮者を置く理由が、最近になって、分かってきました。旧い魔法にも、指揮者がいたのでしょうか。それとも、二人で長くやっていると、拍は、勝手に揃うのでしょうか」
エミールは、茶をすすった。
それから、遠くを見る目になった。
「──わしと師はな。書庫の中を歩く足音が、いつの間にか、揃っておったよ」
「……観測事例、一件」
リゼットは、静かに書き留めた。
「揃うまでに、何年かかりましたか」
「さて。気づいたら、揃っておった」
「気づいたのは、いつですか」
「──師が、いなくなってからじゃ」
店の中が、少しだけ、静かになった。
リゼットは、その静けさごと、帳面に書き留めた。数値にならない観測をどう記録するか。彼女は最近、余白を使うことを覚えていた。
* * *
「アリスは、まだ見つからんか」
エミールが聞いた。
「はい」
リゼットは頷いた。
「静寂院が隠し続けています。会って、伝えたいのに。あなたの光は、欠陥じゃない、と。──それだけを伝えたいのに、届きません」
エミールは少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「わしの師も、な。最後まで、"問い"を誰にも渡せなんだ。答えを持っていたわけではない。ただ、問いを抱えたまま、消された。──誰かに渡せていれば、あの人は、あんなに孤独ではなかったろう」
エミールの皺だらけの手が、机の上で震えた。
「お前は、違う。お前には、渡せる相手がいる。まだ会えていなくても。いつか必ず、その少女に問いを渡せる。──そのために、諦めるな。問いを、消すな」
「はい」
リゼットは頷いた。
「問いは、消しません。あの日、先生が私に書いてくれた言葉です。『答えはない。だが、問いはある。問いを消すな』──私の、いちばん大事な指針です」
エミールの目に、涙がにじんだ。
「……四十年、待った甲斐が、あった」
* * *
帰り際。
エミールは、リゼットに一冊の古い帳面を渡した。
「これは、わしが四十年、書き溜めた旧式術式の覚え書きだ。断片ばかりで、体系にはなっておらん。だが、お前になら、使えるだろう」
帳面は、角が丸くなるほど、使い込まれていた。表紙の革には、幾度も油を入れた跡がある。四十年、毎日、手に取られてきた物の顔をしていた。
「先生、これは……」
「わしは、もう長くない」
エミールは、静かに言った。
「いや、そう悲観するな。まだ、明日死ぬわけではない。だが、四十年抱えてきた問いを、そろそろ、次に渡しておきたいのだ。──お前に」
リゼットは、その帳面を両手で受け取った。
消された師から、エミールへ。エミールから、リゼットへ。そして、いつか、リゼットから、まだ見ぬ次の誰かへ。
問いは、消えない限り、続いていく。
「先生」
「なんじゃ」
「私は、必ず、この問いを次に渡します。アリスに。そして、その先の誰かに。──先生の師の問いも、先生の問いも、消えません。私が、続けます」
エミールは、その言葉を聞いて。
まるで、長い長い旅の終わりに、たどり着いたかのような、安らかな顔をした。
「……ありがとう、リゼット」
それは、師が弟子に告げるには、珍しい言葉だった。
だが、この四十年、孤独に問いを抱え続けた老人にとって。
それは、心からの感謝だった。
* * *
星屑堂を出ると。
夕暮れのバルト街が、リゼットを包んだ。
彼女は、受け取った帳面を、そっと胸に抱えた。
それから、我慢できずに、歩きながら、最初の頁だけを開いた。
几帳面な、少し右上がりの字で、こう始まっていた。
『この覚え書きは、体系ではない。だが、嘘は一行も書いておらん。分からんかった所には、分からん、と書いた。』
リゼットは思わず、足を止めた。
分からないことを、分からないと書く。それが、どれほど誠実で、どれほど勇気の要ることか。記録者として、彼女は知っていた。
五歳の日、床の魔法陣に恋をした。あの時、彼女は一人だった。
だが今、彼女の後ろには、消された師がいて、エミールがいて。彼女の前には、まだ会えないアリスがいて、その先の、まだ見ぬ誰かがいる。
問いは、一人のものではない。
繋がって、続いていく。
リゼットは、夕暮れの空を見上げた。
「……早く、会いたいですね。アリス」
その願いが叶うまで、あと、七百三十日と少し。
無意識に日数で数えている自分に気づいて、リゼットは、少しだけ驚いた。
どうやら自分は、思っていたより、ずっと、あの子に会いたいらしい。




