静かな、戦争
東の港町に着いたのは、王都を発って、三日目の昼だった。
潮の匂いと、魚を干す匂いが、混ざっている。石畳は、坂だった。荷車が、坂の下から、絶えず上ってくる。
十二歳のリゼットは、馬車を降りて、まず、坂の勾配を目で測った。
「お嬢様。今回は、宿が、少しはまともでございます」
「勾配が、七分ほどあります。荷は、下ろす方が、楽です」
「宿の話を、しております」
マリーの荷の中には、この一年で、旅の必需品が三つ増えていた。替えの靴底と、防水の布と、胃薬である。
目的の長屋は、坂の中腹にあった。
戸は、開いていた。
* * *
もぬけの殻だった。
土間に、竈の灰が残っている。まだ、完全には冷えていない、という程度でもない。乾いて、白い。
畳まれた筵が、隅に一枚。壊れた桶。それだけだった。
リゼットは、土間に膝をついた。
「お嬢様。そこは、床でございます」
「知っています」
七年前、応接間の床に這いつくばった時と、同じ姿勢だった。
ただし、今日は、そこに魔法陣はない。あるのは、人が暮らしていた跡だけである。
リゼットは、しばらく、動かなかった。
それから、壁を見た。
柱に、傷がある。横一文字の、浅い刻み。五つ。
背比べの、傷だった。
いちばん下は、床から、三尺ほど。いちばん上は、リゼットの目の高さより、少し低い。刻みの縁が、まだ新しい。ささくれが、白い。
この家に、自分と同じくらいの背丈の子どもが、去年まで、いたということだった。
リゼットは、その傷に、指を当てた。
当てて、それから、外した。
* * *
「聞き込み、終わりました」
ロアンが、戻ってきた。
「隣の、魚売りの奥さんの話では。十日前に、急に、一家で。夜のうちに、出ていったそうです」
「十日前」
「はい」
「私が、視察の許可を申請したのが、十二日前です」
ロアンが、口をつぐんだ。
「……漏れて、いますね」
「漏れています。どこで漏れるかも、だいたい、絞れました」
リゼットは、帳面を開いた。
地図の上には、空振りの印が、すでに九つ並んでいる。北の鉱山町。西の宿場町。南の川沿いの村。──マリーは、これを心の中で「全国行脚の記録」と呼んでいた。
十個目の印を、リゼットは、慎重に打った。
「奥さんは、ほかに、何か」
「一つだけ。……"あの子は、いい子だったが、夜に、たまに、部屋が光った"と」
リゼットの手が、止まった。
光った。
この土間で。あの背比べの柱の、すぐそばで。あの子は、自分の光を、たぶん、慌てて消していた。
「……記録します」
彼女は、そう言って、帳面に書いた。
『対象、十日前まで、当地に居住。夜間、光の漏出あり。近隣に、認知されている。』
書ける。
柱の傷は、書けなかった。
どの欄に、何と書けばいいのか、分からなかった。分からないものは、消さない。それが流儀である。だから彼女は、書かないまま、覚えておくことにした。
* * *
帰りの馬車で、マリーは、旅の荷から胃薬を取り出した。
全国行脚の記録が、十になった日の、侍女長のささやかな対処である。
「お嬢様。十回も、外して。……悔しくは、ないのでございますか」
「悔しいです」
リゼットは、即答した。それから、帳面に線を引いた。
「ですが、空振りにも、使い道があります。──九回の空振りは、九本の、消された線です。消し方には、癖が出ます」
「癖、でございますか」
「逃がす速さ。逃がす方向。どの町を選び、どの町を選ばなかったか。十回分そろえば、向こうが、何を守りたがっているかが、見えてきます」
マリーは、この主人が、負けの数え方を、自分で決めていることに、この頃、ようやく慣れてきた。
慣れたことが、少しだけ、悲しかった。
揺れる馬車の中で、リゼットは、別の冊子を取り出した。
表紙には、何も書かれていない。中身は、光属性の基礎制御を、こわがりの初心者向けに、一段ずつ書き直した手順書だった。空振りの旅の間、宿の灯りの下で、少しずつ書きためてきたものである。
「あの子は、自分の光を、こわがっています。ですから、最初の頁は、光らせ方では、ありません」
リゼットは、頁を開いて見せた。
「──消し方です。いつでも自分で消せると分かれば、こわさは、半分になります」
「……もう、教材まで」
「会える日が、いつか分からないなら。分からない分だけ、良いものにできます」
マリーは、この主人の"待つ"が、ただ待つことではないのを、あらためて思い知った。
* * *
王都に戻って、数日後の夜会で。
静寂院の調停官セヴランが、静かに、リゼットの隣に並んだ。
「シルヴァーヌ嬢。まだ、諦めないのですか」
穏やかな声だった。
「あなたが探している少女は、もう見つかりません。我々が、大切にお預かりしています。──あなたが無駄な探索を続ける間に、その子は静かに、幸せに、暮らせるのですよ。あなたに、実験台にされずに」
「実験台には、しません」
リゼットは、静かに答えた。
「私は、あの子に伝えたいことがあるだけです。あなたの光は、欠陥じゃない、と。──それを、あなたたちは隠している。あの子に、自分が才能を持っていることすら知らせないまま、"普通の子"として閉じ込めている。それは、優しさですか」
セヴランの笑みが、わずかに揺れた。
「……その子のために、なります」
「なりません」
リゼットは、ぴたりと言った。
「十日前まで、あの子は、東の港町にいました。柱に、背比べの傷が、五つ。いちばん上のが、いちばん新しい。──あなたたちは、あの傷を、置いてこさせた。四つ目までは、たぶん、故郷の柱に、残したままです」
セヴランの、目が、動いた。
「幸せに暮らせる、とあなたは言いました。ですが、あなたたちが与えているのは、幸せではありません。移動です。──記録しました。今夜の、あなたの言葉も。全部」
リゼットは、手記を軽く叩いた。
「いつか、この記録が全部、表に出ます。その時、あなたたちが何を隠し、何を消してきたか。すべて明らかになります。──私は、都合の悪い線を拾い続けます。あなたたちが、消し続ける限り」
セヴランは、しばらくリゼットを見ていた。
そして、静かに去っていった。
その背中を見送りながら、リゼットは思った。
(この人は、いつか必ず、大きな一手を打ってくる。今は様子を見ているだけ。決定的な盤面を、待っている)
待てる敵が、いちばん厄介だ。
それを、リゼットは、自分がいちばんよく知っていた。
セヴランが去った後、夜会の柱の陰から、ルイスが歩み寄ってきた。
「今の男か」
「はい」
「顔を、覚えた」
それだけ言うと、ルイスは給仕の盆から果実水を二つ取り、片方をリゼットに押しつけた。
「飲め。ああいう手合いと話した後は、喉が渇く」
「渇いて、いません」
「俺が渇いた。付き合え」
言い方はぶっきらぼうだったが、その視線は、まだセヴランの消えた扉を追っていた。王太子の記憶力の良さを、リゼットはよく知っている。あの男の顔は今夜、もう一冊の、消えない帳面に載った。
* * *
戦争は、膠着していた。
リゼットはアリスを見つけられない。静寂院はリゼットを止められない。互いに決定的な一手を欠いたまま、時だけが過ぎていく。
だが、リゼットは焦らなかった。
「マリー。この膠着は、悪くありません」
「なぜ、でございますか」
「静寂院があの子を隠し続けるということは、あの子が無事だということです。まだ消されていない。生きている。──ならば、いつか必ず、会えます」
「いつ、でございましょう」
「分かりません。ですが、光属性の術者は、いずれ王立学院に集まります。特待生として。国が、才能を放っておくはずがない。──静寂院がどれだけ隠しても、あの子が学院に来る歳になれば。その時、私も、学院にいます」
リゼットは、地図を畳んだ。
畳んだ地図の裏には、小さな書き込みがある。
『空振り、十。ただし、収穫、十。』
負けの数え方を、彼女は、自分で決めていた。
その下の、いちばん端に。
誰にも見せない小さな字で、もう一行だけ、あった。
『柱の傷、五。──次に会ったら、六つ目を、刻ませる。』




