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魔法陣にしか興味がない悪役令嬢、破滅フラグを条件表に載せる 〜古代魔導書を読むために、王太子と政略結婚を結びました〜  作者: NN
【第五章】鍵と、消された頁

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図書館で、倒れる

 アリスを見失ってから。


 リゼットの研究への没頭は、いっそう激しくなった。


 光属性の術者を見つけるまで、結界の根本修復はできない。ならば、それまでにできる、すべての準備をしておく。古代魔導書の解読。共鳴発動の理論。旧い術式の体系化。彼女は寝る間も惜しんで机に向かった。


 マリーは、三度警告した。


「お嬢様。昨夜は、何刻おやすみになりましたか」


「記録があります」


「何刻ですか」


「……記録を、紛失しました」


「紛失なさっていないでしょう」


 二度目の警告は聞き流され、三度目の警告のときには、返事の代わりに、頁をめくる音だけが返ってきた。


 侯爵家の胃薬の消費量が、静かに増えた。


 そして、ある日。


 シルヴァーヌ侯爵邸の図書館で。


 リゼットは、開いた魔導書に突っ伏したまま、動かなくなっていた。



     * * *



 その日、婚約者として屋敷を訪れていたルイスが、彼女を見つけた。


 図書館の机に倒れ込んだ、小さな令嬢。周りには羊皮紙の山。開いたままの魔導書。インクの染みた指。


「……おい」


 ルイスは声をかけた。返事はない。


 一瞬、心臓が止まりかけた。だが、近づくと、規則正しい寝息が聞こえた。倒れたのではない。過労で眠り込んでしまったのだ。


「……本に突っ伏して寝るやつがあるか」


 ルイスは呆れながら、彼女を抱え上げようとした。


 そして、その軽さに驚いた。


 軽い。あまりにも軽い。この小さな体で、国の結界のことを、古代の魔法のことを、四百年の秘密のことを、たった一人で抱え込んでいる。


 その事実が、なぜか、ルイスの胸を締めつけた。


 彼は、そっとリゼットを抱え上げた。


 抱え上げても、リゼットの手は、本を離さなかった。


 眠ったまま、しっかりと、胸に抱えている。


「……離せ。重いだろう」


 そっと引き抜こうとすると、寝たまま、眉が寄った。仕方なく、本ごと運ぶことにした。小さな令嬢一人と、分厚い魔導書一冊。それでも、まだ軽かった。


 運ばれながら、リゼットの唇が動いた。


「……まだ、条件が……足りません……」


 寝言だった。


 ルイスは足を止めた。


「……眠りながら、まだ、条件を数えているのか。お前は」


 その声は、呆れているようで、どこかあたたかかった。


 廊下の角で、ルイスは、サイラスと出くわした。


 王太子が、自分の娘を抱えて歩いている。父親として、聞くべきことは山ほどある光景だった。だが、サイラスは、娘の指のインクの染みと、目の下の隈を見て、すべてを察した。


「……図書館ですか」


「図書館だ」


「三日目なのです。あれで」


「三日?」


「食事は運ばせたのですが、頁をめくる手が、止まりませんで」


 二人の男は、眠り続ける小さな研究者を挟んで、まったく同じ種類のため息をついた。


 この瞬間、王太子と侯爵の間に、政治とは無関係の、固い連帯が生まれたという。



     * * *



 リゼットが目を覚ますと、彼女は寝室の寝台に寝かされていた。


 枕元にルイスが座っている。腕を組んで、明らかに機嫌が悪い。


「起きたか」


「……ルイス。私は、なぜここに」


「図書館で寝ていた。俺が運んだ」


「そうですか。──では、記録します。『連続稼働時間が一定を超えると、意識が強制的に停止する』。有益なデータです」


「データじゃない」


 ルイスの声が低くなった。


「お前は、自分の体を実験装置か何かだと思っているのか。倒れるまで気づかない。倒れてもデータだと言う。──少しは自分を大事にしろ」


 リゼットは少し考えた。


「善処します。ですが、光属性の術者を見つけるまでに、準備しておきたいことが多くて」


「見つけるまで倒れ続ける気か」


「……その可能性は、あります」


「可能性で言うな」


 ルイスは深く息を吐いた。


 そして立ち上がると、扉の外に控えていた侍従に命じた。


「シルヴァーヌ嬢が根を詰めている時は、必ず食事を運ばせろ。三食。抜いたら俺に報告しろ」


「殿下……?」


「ほうっておくと、こいつは餓死する。冗談ではなく」


「本人の、ご意向は」


「聞くな。聞いた瞬間に『研究時間の損失です』と反論が始まって、その反論の間にまた一食抜ける」


 侍従は真顔で頷いた。

 のちに王宮で最も真剣に運用される命令の一つが、この日、誕生した。

 さらに後年、この命令は条文が増えて「食事管理条約」と呼ばれるようになるのだが、それはまた、別の話である。


 リゼットが、不思議そうにルイスを見た。


「なぜ、殿下が、そこまで」


「婚約者だからだ」


「契約には含まれていません」


「含まれていることにした」


「契約の変更には、双方の合意が必要です」


「却下する」


 その日の夕食には、ルイスが監視役として同席した。


「食べ終えたら、続きを読んでよいのですか」


「食べてから聞け」


 リゼットは、驚くべき速さでスープを飲み干した。


「早食いも駄目だ。味わえ」


「味わうと、時間が」


「味わえ」


「…………このパン、おいしいです」


「そうだろう」


「気づきませんでした。三日間、同じパンだったのに」


 その一言に、ルイスとマリーが、同時に黙った。


 当の本人だけが、なぜ二人が黙ったのか分からない、という顔をしていた。


 その日から。


 リゼットが研究に没頭している時は、決まって誰かが食事を運んでくるようになった。


 最初は王太子の命令として。だが、いつからか、それはルイス自身の習慣になっていった。



     * * *



 その夜。


 王宮に戻ったルイスは、自室で一人、考えていた。


 なぜ、あんなに彼女の"軽さ"が気になったのか。なぜ、寝言を聞いて、胸が締めつけられたのか。


 分からなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 あの小さな令嬢が倒れているのを、二度と見たくない。


「……婚約者、だからな」


 ルイスは、自分に言い聞かせるように呟いた。


 翌朝、筆頭侍従のギルバートは、主から「消化に良く、片手で食べられて、冷めても味の落ちない料理」の調査を命じられた。


「どなたか、ご病気で」


「本を読みながら食事を抜く病人がいる」


「……かしこまりました」


 ギルバートは、それ以上、何も聞かなかった。聞かないのが、良い侍従である。


 その感情に、まだ名前はなかった。


 名前のないものを、そのまま抱えておく。


 それが、いちばん厄介なやり方だということを、彼は、この時、まだ知らなかった。


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