図書館で、倒れる
アリスを見失ってから。
リゼットの研究への没頭は、いっそう激しくなった。
光属性の術者を見つけるまで、結界の根本修復はできない。ならば、それまでにできる、すべての準備をしておく。古代魔導書の解読。共鳴発動の理論。旧い術式の体系化。彼女は寝る間も惜しんで机に向かった。
マリーは、三度警告した。
「お嬢様。昨夜は、何刻おやすみになりましたか」
「記録があります」
「何刻ですか」
「……記録を、紛失しました」
「紛失なさっていないでしょう」
二度目の警告は聞き流され、三度目の警告のときには、返事の代わりに、頁をめくる音だけが返ってきた。
侯爵家の胃薬の消費量が、静かに増えた。
そして、ある日。
シルヴァーヌ侯爵邸の図書館で。
リゼットは、開いた魔導書に突っ伏したまま、動かなくなっていた。
* * *
その日、婚約者として屋敷を訪れていたルイスが、彼女を見つけた。
図書館の机に倒れ込んだ、小さな令嬢。周りには羊皮紙の山。開いたままの魔導書。インクの染みた指。
「……おい」
ルイスは声をかけた。返事はない。
一瞬、心臓が止まりかけた。だが、近づくと、規則正しい寝息が聞こえた。倒れたのではない。過労で眠り込んでしまったのだ。
「……本に突っ伏して寝るやつがあるか」
ルイスは呆れながら、彼女を抱え上げようとした。
そして、その軽さに驚いた。
軽い。あまりにも軽い。この小さな体で、国の結界のことを、古代の魔法のことを、四百年の秘密のことを、たった一人で抱え込んでいる。
その事実が、なぜか、ルイスの胸を締めつけた。
彼は、そっとリゼットを抱え上げた。
抱え上げても、リゼットの手は、本を離さなかった。
眠ったまま、しっかりと、胸に抱えている。
「……離せ。重いだろう」
そっと引き抜こうとすると、寝たまま、眉が寄った。仕方なく、本ごと運ぶことにした。小さな令嬢一人と、分厚い魔導書一冊。それでも、まだ軽かった。
運ばれながら、リゼットの唇が動いた。
「……まだ、条件が……足りません……」
寝言だった。
ルイスは足を止めた。
「……眠りながら、まだ、条件を数えているのか。お前は」
その声は、呆れているようで、どこかあたたかかった。
廊下の角で、ルイスは、サイラスと出くわした。
王太子が、自分の娘を抱えて歩いている。父親として、聞くべきことは山ほどある光景だった。だが、サイラスは、娘の指のインクの染みと、目の下の隈を見て、すべてを察した。
「……図書館ですか」
「図書館だ」
「三日目なのです。あれで」
「三日?」
「食事は運ばせたのですが、頁をめくる手が、止まりませんで」
二人の男は、眠り続ける小さな研究者を挟んで、まったく同じ種類のため息をついた。
この瞬間、王太子と侯爵の間に、政治とは無関係の、固い連帯が生まれたという。
* * *
リゼットが目を覚ますと、彼女は寝室の寝台に寝かされていた。
枕元にルイスが座っている。腕を組んで、明らかに機嫌が悪い。
「起きたか」
「……ルイス。私は、なぜここに」
「図書館で寝ていた。俺が運んだ」
「そうですか。──では、記録します。『連続稼働時間が一定を超えると、意識が強制的に停止する』。有益なデータです」
「データじゃない」
ルイスの声が低くなった。
「お前は、自分の体を実験装置か何かだと思っているのか。倒れるまで気づかない。倒れてもデータだと言う。──少しは自分を大事にしろ」
リゼットは少し考えた。
「善処します。ですが、光属性の術者を見つけるまでに、準備しておきたいことが多くて」
「見つけるまで倒れ続ける気か」
「……その可能性は、あります」
「可能性で言うな」
ルイスは深く息を吐いた。
そして立ち上がると、扉の外に控えていた侍従に命じた。
「シルヴァーヌ嬢が根を詰めている時は、必ず食事を運ばせろ。三食。抜いたら俺に報告しろ」
「殿下……?」
「ほうっておくと、こいつは餓死する。冗談ではなく」
「本人の、ご意向は」
「聞くな。聞いた瞬間に『研究時間の損失です』と反論が始まって、その反論の間にまた一食抜ける」
侍従は真顔で頷いた。
のちに王宮で最も真剣に運用される命令の一つが、この日、誕生した。
さらに後年、この命令は条文が増えて「食事管理条約」と呼ばれるようになるのだが、それはまた、別の話である。
リゼットが、不思議そうにルイスを見た。
「なぜ、殿下が、そこまで」
「婚約者だからだ」
「契約には含まれていません」
「含まれていることにした」
「契約の変更には、双方の合意が必要です」
「却下する」
その日の夕食には、ルイスが監視役として同席した。
「食べ終えたら、続きを読んでよいのですか」
「食べてから聞け」
リゼットは、驚くべき速さでスープを飲み干した。
「早食いも駄目だ。味わえ」
「味わうと、時間が」
「味わえ」
「…………このパン、おいしいです」
「そうだろう」
「気づきませんでした。三日間、同じパンだったのに」
その一言に、ルイスとマリーが、同時に黙った。
当の本人だけが、なぜ二人が黙ったのか分からない、という顔をしていた。
その日から。
リゼットが研究に没頭している時は、決まって誰かが食事を運んでくるようになった。
最初は王太子の命令として。だが、いつからか、それはルイス自身の習慣になっていった。
* * *
その夜。
王宮に戻ったルイスは、自室で一人、考えていた。
なぜ、あんなに彼女の"軽さ"が気になったのか。なぜ、寝言を聞いて、胸が締めつけられたのか。
分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
あの小さな令嬢が倒れているのを、二度と見たくない。
「……婚約者、だからな」
ルイスは、自分に言い聞かせるように呟いた。
翌朝、筆頭侍従のギルバートは、主から「消化に良く、片手で食べられて、冷めても味の落ちない料理」の調査を命じられた。
「どなたか、ご病気で」
「本を読みながら食事を抜く病人がいる」
「……かしこまりました」
ギルバートは、それ以上、何も聞かなかった。聞かないのが、良い侍従である。
その感情に、まだ名前はなかった。
名前のないものを、そのまま抱えておく。
それが、いちばん厄介なやり方だということを、彼は、この時、まだ知らなかった。




