侯爵家が、勝手に強くなる
リゼットが九歳になった頃。
シルヴァーヌ侯爵家に、奇妙な現象が起きていた。
家が、勝手に強くなっていくのである。
当主のサイラスは何もしていない。
ただ、娘が研究の"副産物"を次々と屋敷や領地に置いていくだけだった。
「お父様。灌漑用の魔法陣を改良しました」
ある朝、リゼットが食卓で報告した。
パンにバターを塗る手つきと同じ温度で、領地の根幹に関わる報告をするのが、この娘の朝である。
「結界の同時処理を研究する過程で、水の分配術式にも応用が効くと気づきました。従来の五倍の効率で水を行き渡らせられます。領地の農業試験に使ってください」
「……五倍」
サイラスのコーヒーカップが、口の手前で止まった。
「五割の間違いではなく?」
「五倍です。割で申し上げれば五十割です」
「そうか。五十割か」
サイラスは静かにカップを置いた。置いてから、もう一度持ち上げ、中身を一気に飲んだ。
「別に、領地のためではありません。実験フィールドとして都合がいいだけです。ですが、結果として収穫は増えるはずです」
「お前のその"ついで"が、当家の農政より優秀なのはどうしてだ」
「農政が非効率なだけです」
「聞かなかったことにする」
その言葉通り、その年、シルヴァーヌ領の麦の収穫は劇的に増えた。
増えすぎて、収穫祭では、麦束の山の前で、領民が歌を作った。
題名は「麦のお嬢様」である。
当のお嬢様が領地の畑を"実験フィールド"と呼んでいることを、領民は知らない。知らないままの方が歌として美しいので、サイラスは黙っていた。
「旦那様。倉が足りません」
「建てなさい」
「大工も足りません」
「隣の領から呼びなさい」
「その隣の領も、うちの麦を買いに来ておりまして」
豊作とは、それはそれで、忙しいものである。
* * *
それだけではなかった。
屋敷の照明陣の光熱費が三割減った。
警備結界の精度が上がった。
街道の物流用魔法陣が整備され、領都の商業が活気づいた。
どれも、リゼットが研究の"ついで"に置いていったものである。
屋敷付き魔術師のロアンは、毎朝、屋敷のどこかが昨日より賢くなっていないか、点検して回るのが日課になった。
「今日は、洗濯場の乾燥陣が三倍速くなっています」
「昨日は、どこでしたか」
「厩の消臭です」
古株の使用人たちは、もう驚かない。驚くのは、新しく入った者だけである。そして半年もすれば、その新入りが、次の新入りに「うちはこういう家だから」と説明する側に回る。
気づけば、シルヴァーヌ侯爵家は王国でも指折りの豊かな領地になっていた。
「旦那様。また他家から面会の申し込みが」
家令が報告する。
「今月で十七件目でございます。皆様、シルヴァーヌ家の灌漑技術や物流術式を譲ってほしい、と」
「……娘が、勝手に家を大国にしていく」
サイラスは頭を抱えた。
嬉しい悲鳴ではあった。だが、悲鳴は悲鳴である。
中堅貴族として静かに堅実に暮らしてきた家が、九歳の娘の研究の副産物で、王国の権力構造を揺るがし始めている。
「お父様。顔色が悪いです」
リゼットが心配そうに言った。
「誰のせいだと思っている」
「原因不明ですか。では、記録して観測します」
「原因はお前だ」
「なるほど。記録します」
「記録するな」
記録された。
* * *
だが、力が集まれば、それを疎む者も現れる。
ある日、シルヴァーヌ領へ王都から届くはずの研究資材が、途中で差し止められた。
「妨害です」
報告を聞いたリゼットは、静かに言った。
「シルヴァーヌ家が急に力を持ったことを面白く思わない宮廷の誰かが、物流を止めました。──たぶん、私の研究を遅らせるのが目的です」
「どうする。抗議するか」
サイラスが聞く。
「いいえ。抗議は時間の無駄です」
リゼットは羊皮紙を広げた。
「独自の物流経路を構築します。街道の物流用魔法陣を応用すれば、王都を経由しない別ルートが引けます。妨害される経路に依存しなければ、妨害は成立しません」
半月後。
シルヴァーヌ家は、王都を経由しない独自の物流網を完成させていた。
正確には、引いたのではない。すでにあるものを、つなぎ直しただけである。街道の中継所には、百年以上前に埋められた物流用の陣が眠っている。使われなくなって久しいそれを、リゼットは片端から起こし、向きを書き換え、順番を並べ替えた。新しく敷いたのは、三箇所だけだった。
「半月で物流網を引く娘があるか」
「引いていません。落ちていたものを、拾って、つなぎました」
「言い方の問題ではない」
「経路の問題です。妨害は、道が一本しかない時にだけ効きます」
サイラスは反論を探し、見つけられず、胃薬の小瓶に手を伸ばした。
妨害しようとした宮廷の貴族は青ざめた。
止めたはずの相手が、止めた端から別の道を作ってしまう。
しかも、その別の道が、また新しい富を生む。
嫌がらせをするたびに、相手が強くなる。
もはや妨害ではなく、養殖である。
やがて、当の貴族から、面会の申し込みが届いた。用件は、遠回しな謝罪と、物流網への参加希望だった。
「どうする」
サイラスが娘に聞くと、リゼットはあっさり言った。
「お入れして差し上げてください。経路は、使う人が多いほど安定します。──ただし、通行の記録は、全部残ります。今度どこかで荷が止まれば、誰が止めたか、紙が覚えています」
「……お前は、敵を許しているのか、脅しているのか、どっちなんだ」
「観測しているだけです」
その貴族は以後、シルヴァーヌ領の物流網の、最も行儀のよい利用者になった。
* * *
「お嬢様は、政治というものをどうお考えなのですか」
ある日、マリーがおそるおそる尋ねた。
「政治?」
リゼットは少し考えた。
「よく分かりません。ですが、研究を続けるのに邪魔なものは排除します。妨害する人がいれば、妨害できない仕組みを作ります。それだけです」
「それを世間では、政治力と呼ぶのでございます」
「そうなのですか」
リゼットは心底不思議そうな顔をした。
「ちなみに、王宮でお嬢様がなんと呼ばれ始めているか、ご存じですか」
「知りません。興味もありません」
「"シルヴァーヌの頭脳"だそうでございます」
「不正確です。頭脳は、持ち主から切り離せません」
「そういうところでございますよ」
本人は政治をしているつもりなど、まったくない。ただ研究環境を守っているだけである。
だが、その"だけ"が、結果として宮廷の力関係を書き換えていく。
サイラスはその様子を遠くから見て、今日も静かに胃薬を飲んだ。
(この子は……いつか、この国を根本から変えてしまう気がする)
その予感を、彼は、誰にも言わなかった。
言えば、本当になりそうだったからである。
今のサイラスにできるのは、胃薬の在庫を増やしておくことだけであった。




