結界を、少しずつ直す
禁書庫の二枚目の扉が開いてから、リゼットの八歳の日々は、めまぐるしく過ぎていった。
国王の裁定は明快だった。証拠を一つ積むごとに、扉を一枚、開ける。
だから、リゼットは積んだ。結界柱の間接測定。旧い術式との照合。二枚目の扉の向こうで読んだ、古代魔導書の断片。そのすべてを、記録として宮廷に提出し続けた。
そして、三枚目ではないが、二枚目の奥の書架が、少しずつ、彼女に開かれていった。
「お嬢様。また、王宮から閲覧許可の追加が」
マリーが書簡を運んでくる。
「扉が一枚開くたびに、私の胃が一つ増える気がいたします」
「胃は増えません」
「気持ちの問題でございます」
「胃が増えたら、胃薬も二倍必要になります。合理的ではありません」
「その計算は、要らないのでございます」
* * *
その日、リゼットは、王都近郊の第三結界柱の前に立っていた。
去年、初めて間接測定で滞留構造を見つけた場所。今日、彼女は、そこを"直す"ために来ていた。
周りには、宮廷魔術師団のカミーユとオルテガ。屋敷付きのロアン。そして監督官たち。八歳の少女の指示で、国家の魔術師たちが動いている。異様な光景だった。
なお、当の八歳児だけが、この光景を異様と思っていない。
「本物の同時処理は、まだ組めません」
リゼットは、術式図を広げながら言った。
「本物には、光属性の術者が要ります。それは今、この国にいません。──ですが、旧い体系を"部分的に模す"ことはできます。二本の道を、完全には通せなくても。片方の道に、細い補助の経路を一本、添える。それだけでも、柱は少し、崩れにくくなります」
「不完全な、修復ですな」
オルテガが確認する。
「はい。不完全です。根本的な解決ではありません。ですが──」
リゼットは顔を上げた。
「何もしなければ、次の魔力嵐で崩れます。不完全でも、時間を稼げます。本物の修復ができるようになるまでの、時間を」
カミーユが、記録板に書き込んだ。
「時間稼ぎの補強。目的が明確です。──では、始めましょう」
* * *
補強は、地味な作業だった。
柱の外側に、細い補助経路を一本ずつ、慎重に刻んでいく。低出力で試し、記録し、また刻む。派手な奇跡は起きない。ただ、間接測定の数値が、少しずつ安定していく。
初日には、近隣の村から見物人まで出た。国の結界柱に人が群がっている、となれば、そうもなる。
「なあ、あの真ん中の小さいのは、何だ」
「指揮官だそうだ」
「……国は、大丈夫か」
大丈夫かどうかは、半月後の数値が答える予定だった。
なお、見物人は三日で飽きた。爆発もなければ、光の柱も立たない。大人たちが黙々と細い線を刻み、子どもが黙々と帳面をつけるだけだからである。
「奇跡というのは、見ていて退屈なものなのですね」
カミーユが苦笑した。
「本物ほど、地味です」
リゼットは、手を止めずに答えた。
十日目には、雨が降った。
濡れた柱には線を刻めない。作業は、止まった。
「休みですな」
オルテガが言うと、リゼットは天幕の下で帳面を広げた。
「雨の日の測定値が取れます。湿度と滞留の相関は、まだ点が足りません」
「……"休む"という言葉の定義を、いつか一度、確認し合いましょうぞ」
言いながら、老魔術師は付き合った。付き合いながら、隣で数字を読み上げる八歳児の帳面が、自分の若い頃の何年分の観測に当たるのかを、考えないようにしていた。
「シルヴァーヌ嬢。一つ、聞いてよろしいか」
「はい」
「あなたは"不完全な修復"だと、何度も言う。誇らないのですな」
「誇ると、不完全さを、忘れそうになるので」
雨音の下で、オルテガはしばらく黙り、それから、弟子を見る目で笑った。
半月かけて。
第三結界柱の滞留は、目に見えて減った。魔力の漏れが整い、逆流が収まる。完全ではない。だが、確かに崩れにくくなった。
「……効いています」
カミーユが数値を確認して言った。
「魔力嵐の想定規模なら、これで持ちこたえられる。少なくとも、次の一回は」
その報せは、宮廷を静かに驚かせた。
八歳の令嬢が、国の結界を、部分的にとはいえ補強してみせた。それは"未説明観測"の次の、確かな成果だった。
そして、その成果は、次の扉を開ける証拠になった。
王宮からは、裁定続行の通知と一緒に、短い私信が届いた。
『第三柱の数値を見た。地味で、確実で、お前らしい。──次の扉の前で待つ』
差出人の署名は、王太子のものだった。
「お返事は、どうなさいますか」
「数値表を送ります」
「もう少しこう、言葉というものを」
「数値が、いちばん正確な言葉です」
マリーは、このやりとりが世間で文通と呼ばれてよいものかどうか、しばらく考えて、考えるのをやめた。呼び方はどうあれ、返事を書くお嬢様の筆は、いつもより少しだけ、速いのである。
* * *
だが、リゼット自身は、満足していなかった。
その夜、彼女は手記に書いた。
『第三結界柱、部分補強。成功。』
『ただし、これは時間稼ぎ。根本修復ではない。』
『本物の同時処理には、光属性の術者が、絶対に要る。』
彼女はペンを止めた。
この国に、光属性はいない。旧い体系の鍵となる属性。四百年前に消された、その属性を持つ者がいなければ、結界はいつまでも"時間稼ぎ"の補強しかできない。
いつか必ず、限界が来る。
(光属性の術者を、探さなければ)
リゼットは、手記に新しい項目を立てた。
『最重要課題:光属性の術者の、発見。』
『現状:この国に、確認された光属性、ゼロ。』
ゼロ。
その二文字を、リゼットは、しばらく見ていた。
探すあてが、あるわけではない。名簿にも、記録にも、この国に光属性はいない、としか書かれていない。
だが、いない、と書いてあることと、いない、ということは、別だ。
消された属性なら、なおさら。消された側は、たいてい、記録の外にいる。
「……記録の、外を、探します」
リゼットは、そう書き足して、灯りを消した。




