五歳の日から、読みたかった本
二枚目の扉を開ける条件は、"消す側にならぬと証すこと"だった。
リゼットの答えは、単純だった。消される側の名を、消えない場所に、書き戻す。
彼女は、ルイスを通じて、学院と王立記録院に、正式な申請を出した。四十年前に"病死"とされた、一人の研究者。その名を、学術記録に、「封印研究の途上で消息を絶った研究者」として、正式に登録する。
握りつぶそうとする力は、当然、働いた。だが、リゼットの申請は、いつも通り、隙がなかった。誇張はなく、告発でもなく、ただ「この人物は実在し、この研究をしていた」という、動かしがたい事実だけが、丁寧に並べられていた。
そして、その事実を裏づける写しは、すでに五か所に散っている。握りつぶせば、握りつぶした事実そのものが、記録に残る。
登録は、通った。
消された名が、四十年ぶりに、公式の記録に戻ってきた。
* * *
その報せを持って、リゼットは、再び封印書庫の地下へ降りた。
書庫番は、いつもの場所に座っていた。リゼットが差し出した、登録の写しを、老女は、蝋燭の下で、長いこと読んでいた。
「……名を、戻したか」
「はい」
「握りつぶされると、思わなんだのか」
「思いました。ですが、握りつぶされた記録も、記録です。どちらに転んでも、消えない形にしました」
書庫番は、写しを、そっと膝に置いた。
その皺だらけの手が、かすかに震えていた。
その時、リゼットは、ふと、あることに気づいた。
この地下は、冷える。空気が、緩やかに流れている。現に、自分の持つ蝋燭の火は、さっきから、絶えず揺れていた。
だが。
老女の白い髪も、膝の上の頁も、一度も、揺れていない。
風が、当たっていないのだ。この人の、周りだけ。
(……観測しておきます)
リゼットは、その事実を、脇に置いた。分からないものを、消しはしない。だが、今日は、それを問う日ではなかった。
「四十年前、あの者も……師を、記録に戻そうとした。だが、できなんだ。力が、足りなんだ。名は、消えたままじゃった」
老女は、顔を上げた。落ちくぼんだ目に、蝋燭の火が、揺れている。
「おまえは、戻した。消す側の力に、記録で、勝った。──これが、証じゃ」
書庫番は、ゆっくりと立ち上がった。そして、鉄の扉の、さらに奥へと歩く。
もう一枚、扉があった。一枚目より、ずっと古く、ずっと重い扉だった。
老女が、それに手をかける。
「よいか、娘。この奥にあるのは、消される前の、この世界の、本当の魔法じゃ。四百年、誰も、まともに読んでおらぬ。──読めば、戻れぬぞ。おまえの見る世界が、二度と、元には戻らぬ」
リゼットは、答えた。
「五歳の日に、もう戻れなくなりました」
書庫番は、その言葉に笑った。
そして、二枚目の扉を開けた。
* * *
扉の向こうは、書架の谷だった。
天井まで届く棚が、いくつも、いくつも、闇の奥へと続いている。そこに収められているのは、リゼットが今まで読んできた、どの本とも違うものだった。
革でも、羊皮紙でもない。薄く延ばした、金属の板。石の薄片。乾いた樹皮。そのすべてに、あの蔦のように絡む曲線が——検閲される前の、旧い術式の言語が——びっしりと刻まれていた。
リゼットは、動けなかった。
五歳の日、応接間の床で、初めて魔法陣に恋をした。あの日から、ずっと探していた。市販の本にはなく、学院の専門書にもなく、宮廷の論文にもなかった、世界の根っこ。消される前の、本当の設計図。
それが今、目の前に、谷のように広がっていた。
「……ああ」
リゼットの口から、声にならない声が、漏れた。
マリーは、地上で待っている。ここまで来られたのは、リゼットと、ルイスと、書庫番だけだった。だから、この瞬間、彼女の顔を見ていたのは、ルイス一人だった。
いつも冷静な、いつも事務的な、あの婚約者が。
泣きそうな顔で、笑っていた。
「……リゼット」
「待ってください」
リゼットは、震える声で言った。
「今、人生で、いちばん幸せなので。少しだけ、このまま」
ルイスは、何も言わなかった。ただ、その隣に、静かに立っていた。
* * *
やがて、リゼットは、いちばん手前の金属板を、そっと手に取った。
読む。
旧い言語は、難しかった。文法が違い、記号が違い、魔力の経路が一本ではない。だが、無秩序ではなかった。むしろ、現代魔法よりも、ずっと、美しく、無駄がなかった。
そして、読み進めるうちに、リゼットは、ずっと追いかけてきたものの正体に、たどり着いた。
「……同時処理」
彼女は、呟いた。
「現代の術式は、魔力の流れを、一本の線に整理しています。読みやすいように。制御しやすいように。ですが、この旧い体系は、違う。複数の経路を、同時に走らせて、互いに支え合わせている。──だから、一か所が壊れても、全体は止まらない」
リゼットの指が、板の上のある構造で、止まった。
「二重化です」
それは、彼女が、あの実験室で、紙と光と箱と人間を疑い、何十日もかけて測った、あの微弱な現象。線がほんの少しだけ、二つに見える、あの癖。
「二重化は、欠陥では、ありませんでした」
リゼットの声が、震えた。
「これは、機能です。旧い魔法では、術式が、自分自身を、もう一本、別の経路で、同時に走らせる。二重化は、その"予備の経路"の、影だったんです。現代魔法は、それを削り取った。読みやすくするために。──そして、影だけが、削り残されて、あちこちの魔法陣に、にじみ出ていた」
欠陥だと思っていたもの。消された、と思っていたもの。
それは、殺された機能の、消えなかった心臓の鼓動だった。
「結界も、同じです」
リゼットは、顔を上げた。
「現代の結界は、一本の線で組まれている。だから、魔力嵐という大きな衝撃が来たら、その一本が切れて、全部が止まる。──旧い体系の、同時処理を、取り戻せれば。結界は、一本が切れても、もう一本が支える。崩れなくなる」
結界を救う方法が、そこにあった。
四百年前に消された、本当の魔法の中に。
* * *
「では、それを組めば──」
ルイスが言いかけて、リゼットが、首を振った。
「まだ、無理です」
「なぜ」
「同時処理を、現代の術者が、扱えません」
リゼットは、板の、ある一点を指した。そこには、旧い言語で、繰り返し、同じ記号が刻まれている。
「この旧い体系は、ある特別な属性を、"鍵"にして動きます。複数の経路を、同時に、破綻させずに束ねるための、要の属性。──ですが、この属性は、現代には、ほとんど、存在しません」
「なぜ、存在しない」
「消されたからです。たぶん、意図的に」
リゼットは、書架の谷を、見渡した。
消された魔法。消された研究者。そして、消された、属性。
「この鍵の属性を持つ術者がいなければ、旧い魔法は、本当の意味では、動かせません。結界も、救えません。──私一人が、この本を読めても、足りない。読める人ではなく、"扱える人"が、要ります」
書庫番が、闇の奥から、静かに言った。
「その属性の名を、読めたか」
リゼットは、板の繰り返される記号を、もう一度見た。
旧い言語で書かれた、鍵の属性。それを、現代の言葉に、置き換える。
答えは、彼女がずっと前に一度だけ、読んだことのある単語だった。
王都の令嬢たちの間で流行っていた、一冊の恋愛小説。その、平民のヒロインが、持っていた、希少な属性。
「……光属性」
リゼットの薄紫の瞳が、大きく見開かれた。
消された魔法の鍵は、光属性。
そして、その属性を持つ少女の名を、彼女はもう、知っていた。
乙女ゲームのヒロイン。いずれ学院に現れる、平民の特待生。物語が、悪役令嬢である自分を、断罪するために配置した、あの少女。
(つながった)
すべての線が、一本に束なった。
結界も、古代魔導書も、断罪も、そして、あのヒロインも。
同時に、一つ、噛み合わない歯車が残った。
光属性は、並列処理の鍵である。並列処理は、結界が一本切れても倒れないための構造である。──つまり王家は、十年に一度の嵐に対する、いちばん確かな備えを、自分の手で捨てたことになる。
(自滅と、区別がつきません)
国を守る立場の人間が、国を守る仕組みを消した。よほど割に合う理由がなければ、通らない計算だ。
師の手記の一行が、頭の中で、もう一度鳴った。
『消さねば、王家が、王家でいられなくなるからだ』
国が滅ぶ危険よりも、王家でなくなることの方が、重かった。
(では、光属性の術者が揃うと、王家は何を失うのですか)
王位そのものか。血の正統性か。あるいは──四百年前、王家がどうやって王家になったのか、という手順そのものか。
どれも、仮説である。根拠は、ない。
リゼットは、その三行を頭の隅に書き留め、丁寧に、脇へ置いた。
(材料が、足りません。今、断定すると、断定に合う証拠だけを拾います)
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
四百年前に消されたのは、術式ではない。──都合の悪い、手順の記録だ。
リゼットは、金属板を、そっと棚に戻した。
そして、静かに、しかしはっきりと、言った。
「ルイス。学院へ、行きます」
二枚目の扉の、さらに奥。三枚目の、最も古い扉は、まだ固く閉ざされている。
だが、その扉を開ける鍵が、どこにいるのか。
リゼットは、ようやく知った。




