消せないなら、消える理由を作る
星屑堂から屋敷に戻ったリゼットが、最初にしたことは、休むことでも、手記を読み込むことでもなかった。
写しを、取ることだった。
「マリー。ロアンを呼んでください。それから、上質な羊皮紙を、できるだけ多く」
「お嬢様。まずは、お休みに──」
「休みません。急ぎます」
リゼットは、師の手記を机に広げ、一頁ずつ、正確に書き写し始めた。未知記号の一つ一つ。走り書きの一行。消された研究者の名。何一つ、省かない。
「なぜ、そんなに急いで写しを」
マリーが尋ねると、リゼットは手を止めずに答えた。
「この手記は、一冊しかありません。一冊しかないものは、消せます。四十年前、彼らは師を消し、その研究を消し、名前まで消しました。一冊だったからです」
羽ペンが走る。カリカリ、カリカリ。
「ですが、同じものが、十冊あったら。別々の場所に、別々の人間が持っていたら。──消すのは、途端に難しくなります」
リゼットは、写しの束を、四つに分けた。
「一つは、父上に。一つは、カミーユを通して宮廷魔術師団の記録に。一つは、学院の検証官に。一つは、エミール先生に返します。そして、原本は──ルイスに預けます」
「王太子殿下に、でございますか」
「王家が消したものを、王家の人間に守らせます。いちばん、消しにくい場所です」
マリーは、その配り方の意味を、しばらくして理解した。
真実を、一点に集めない。散らす。誰か一人を消しても、全部は消えない形にする。
研究室で、紙と光と箱を疑い、記録を積み上げてきたやり方が、そのまま、命を守る作法になっていた。
* * *
写しが配られて、三日後。
シルヴァーヌ侯爵邸に、一人の客が訪れた。
物腰の柔らかい、年齢の読めない男だった。灰色の長衣。銀の留め具。物腰は、どこまでも丁寧で、どこまでも冷たい。
「お初にお目にかかります。静寂院、調停官のセヴランと申します」
サイラスの表情が、わずかに動いた。静寂院。その名を、彼は知っていた。表向きは、古い遺物や危険な術式を"適切に保全する"ための、由緒ある機関。
その裏で、何をしてきたのかは、今日まで、誰も口にしなかった。
「本日は、リゼット嬢に、折り入ってお願いがございまして」
セヴランは、リゼットに、穏やかな笑みを向けた。
「先日、あなたさまは、ある古書店の老人から、一冊の古い帳面をお受け取りになった。──あれは、本来、静寂院が保全すべき、危険な遺物でございます。返還していただきたく、参りました」
部屋の空気が、静かに張りつめた。
サイラスの指が、椅子の肘掛けを、一度だけ強く掴んだ。
星屑堂へ行ったのは、三日前である。供はマリー一人。行き先は、家令にも告げていない。床板の下から何が出てきたのかを、屋敷の外で口にした者は、一人もいない。
(この男は、その三日を、まるごと持っている)
去年、公開再現検証の場で沈黙した宮廷魔術師団の副団長が、その後どこへ移ったのか。
リゼットは、調べなかった。決着のついた線は、観測対象ではないと判断したからである。
(……見落としました)
都合の悪い線は拾う、と決めていた。だが、片のついた線を拾い続けることだけは、していなかった。
リゼットも、同じことを数えていた。
婚約の内定。封印書庫の、外側一枚だけという閲覧の段階。書庫番との問答。そして、昨日まで床下にあった、一冊の帳面。──公になっているものと、なっていないものが、この男の中では、同じ棚に、同じ高さで並んでいる。
どこかに、目がある。宮廷にも、書庫にも、あるいは、この屋敷にも。
組織というものは、こういう顔で来るのか。
リゼットは、それを、初めて正確に理解した。
リゼットは、セヴランを、まっすぐに見た。値踏みではない。観測だった。
「危険な遺物、とは」
「詳しくは、申し上げられません。ただ、あれは、扱いを誤れば、大勢が不幸になる代物でございます。あなたさまのような、聡明なお方であれば、お分かりいただけるかと」
「分かりません」
リゼットは、即答した。
「何が危険なのか、あなたは説明しない。ただ、危険だから返せ、と言う。それは、四十年前に、あの手記を書いた人を消した時の、理屈と同じですね」
セヴランの笑みが、ほんの一瞬だけ、固まった。
だが、すぐに、元の穏やかさに戻る。
「……ずいぶん、深くまで、お読みになった」
「はい。都合の悪い線も、拾いますので」
* * *
「では、率直に申し上げましょう」
セヴランは、両手を組んだ。
「あの手記を、お返しください。さもなくば、あなたさまの、封印書庫への閲覧許可は、取り消されます。宰相閣下には、すでに、そのように働きかけております」
脅しだった。丁寧な、隙のない、脅しだった。
マリーの顔が青ざめる。サイラスが、一歩前に出かけた。
だが、リゼットは動じなかった。
「お返しできません」
「なぜ」
「もう、私の手元に、原本はありません」
セヴランの目が、初めて、鋭くなった。
「……どこへ、やった」
「安全な場所です。それも、一つではありません」
リゼットは、静かに続けた。
「あの手記は、すでに、写しが取られています。複数の写しが、複数の人間の手に、別々に渡っています。誰が、どこに持っているか。それを全部把握しているのは、私だけです。──私を消しても、写しは消えません。むしろ、私を消せば、私が写しを配った理由を、みんなが疑い始めます」
部屋が、静まり返った。
セヴランは、長いこと、リゼットを見ていた。
七歳の令嬢。婚約者。悪役令嬢。そのどれとも違う、何か。四十年前、彼らが消し損ねた種類の人間が、今、目の前に座っていた。
「……なるほど」
セヴランは、ゆっくりと、息を吐いた。
「消せない、というわけですか。記録を、散らされては」
「はい」
「賢い。実に、賢い」
セヴランは、穏やかな笑みを、取り戻した。
だが、その笑みの質が、先ほどまでとはまるで違っていた。
* * *
「では、方針を、変えましょう」
セヴランは、立ち上がった。
「記録が消せぬのであれば、記録を無効にすればよい。──いいですか、リゼット嬢。世の中というのは、面白いものでしてね」
彼は、扉へ向かいながら、振り返らずに言った。
「どれほど正しい記録でも、それを書いた人間が、"信用ならない人物"であったなら。人は、記録ではなく、人物を見ます。危険な思想に染まった令嬢。禁忌に手を出した娘。王太子を、たぶらかした悪女。──そういう評判が立てば、あなたの手記は、ただの、危険な妄想の産物になる」
セヴランは、扉の前で、ようやく振り返った。
「消せぬものは、消しませぬ。ただ──消えてもらう理由を、こちらで、作らせていただくだけです」
その言葉に、リゼットの背筋が、静かに冷えた。
断罪。
乙女ゲームで、悪役令嬢が辿る、あの結末。恋愛の嫉妬ではない。もっと、冷たい、政治の手続きとして。それが、今、目の前で、形を持ち始めていた。
「ご丁寧に、予告してくださるのですね」
リゼットは言った。
「ええ。あなたさまには、逃げる時間を、差し上げます。婚約を辞退し、研究をやめ、静かに領地へお戻りになれば。──悪女になる前に、ただの令嬢で、いられますよ」
「お断りします」
リゼットは、即答した。
「面白くなってきたところですので」
セヴランは、その返答に、初めて、心底不思議そうな顔をした。
そして、何も言わずに、去っていった。
* * *
扉が閉まると、マリーが、崩れるように座り込んだ。
「お嬢様……あの方は、危険でございます。あんな……あんな、丁寧に人を脅す方は、初めて見ました」
「はい。危険です」
リゼットは、頷いた。
「ですが、収穫もありました」
「収穫、でございますか」
「敵の顔が、見えました。静寂院。四十年前に師を消した機関の、末裔。そして、彼らの手が、もう記録を消せないと分かった。だから、"人物を消す"方向に切り替えた」
リゼットは、机の上の、写しの控えを見た。
「つまり、これから始まるのは、私を"悪役令嬢"に仕立て上げる工作です。乙女ゲームの筋書きが、恋愛ではなく、政治として、動き出します」
「では、逃げた方が……!」
「逃げません」
リゼットの声は、落ち着いていた。
「マリー。断罪も、条件の一つです。いつ、誰が、どんな濡れ衣で、私を悪女に仕立てるのか。──予告してくれたのは、向こうの失敗です。予告された罠は、記録して、対策できます」
リゼットは、新しい手記を開き、題名を書いた。
『静寂院による名誉毀損・断罪工作の想定と、その反証記録』
書き終える寸前で、羽ペンの先が、最後の一字の上に、止まった。
インクが一滴、落ちる。紙の上で、丸く滲む。
リゼットは、その滲みを、しばらく見ていた。それから、何事もなかったように、続きを書いた。
滲みは、消さなかった。
七歳の令嬢の手記としては、あまりにも物騒だった。
だが、骨格は、いつもと同じだった。分からないものを、消さない。都合の悪い線を、拾う。そして、消されそうになったら──記録で、返す。
羽ペンが、走る。カリカリ、カリカリ。
敵は、彼女を悪女に仕立てて、消そうとしている。
ならば、悪女として消される前に、その工作の一部始終を、消せない記録に変えてやる。
リゼットの薄紫の瞳に、静かな炎が、灯っていた。
* * *
その夜。
寝支度を整えに入ったマリーは、リゼットが、まだ机の前にいるのを見た。
「お嬢様。灯りを、お消ししますか」
「……いえ」
少しだけ、間があった。
「今夜は、点けたままで、お願いします」
「かしこまりました」
マリーは、理由を聞かなかった。
扉を閉める前に、一度だけ振り返る。七歳の背中は、いつもと同じ角度で、机に向かっていた。ただ、開かれた頁は、さっきから、一枚もめくられていない。
廊下に出ると、サイラスが立っていた。娘の部屋の扉を、じっと見ている。
「旦那様……」
「あの子は、平気な顔をする」
サイラスは、低い声で言った。
「五歳のあの日から、そうだ。分からない、とは言う。難しい、とも言う。だが、怖い、と言ったことが、一度もない」
侯爵は、扉から目を離さなかった。
「言い方を、教えてやれなかったのは、私だ」
その夜、リゼットの部屋の灯りは、朝まで消えなかった。




