問いを消すな、と書いた人
古書店『星屑堂』は、初めて訪れた日と、何ひとつ変わっていなかった。
色褪せた看板。傾いた扉。窓の内側に積まれた、古い紙の山。カラン、と鈍いベルが鳴り、乾いた紙とインクの匂いが、リゼットを迎える。
店の奥で、白い髭の老人が、ランプの下に座っていた。
エミール・ガランは、顔を上げ、リゼットを見た。
そして、その表情を見た瞬間、老人の手から、羽ペンが滑り落ちた。
「……そこまで、行ったか」
挨拶は、なかった。
エミールは、リゼットの顔を見ただけで、彼女が封印書庫の扉を開け、王家の印を見て、四十年前のことを知ったのだと、悟っていた。
* * *
「エミール先生」
リゼットは、店の中央に立ったまま言った。
「あなたは、知っていましたね。魔法を消したのが、王家だということ。四十年前に、この件に近づいた人が、地上に帰らなかったこと。──全部、知っていた」
エミールは、答えなかった。ランプの火を、じっと見ている。
「なぜ、話さなかったのですか」
リゼットの声は、責める調子ではなかった。ただ、事実を確かめる、いつもの声だった。だが、その静けさが、かえって老人にはこたえたらしい。
「……話せば、おまえが、行ってしまうからじゃ」
エミールは、ようやく口を開いた。
「行って、消される。四十年前の、あの人のように」
「あの人、とは」
エミールは、目を閉じた。
そして、長い、長い沈黙のあとで話し始めた。
「わしの、師じゃ」
* * *
四十年前。エミールは、まだ若い学院の研究者だった。
彼の師は、現代魔法理論の"不自然さ"に気づいた、数少ない一人だった。なぜ、記号がその意味を持つのか。根本原理に、どの本も触れない。まるで、誰かが、危険な部分だけを、綺麗に削り取ったかのように。
師は、削られた跡を追った。そして、封印書庫の、いちばん奥まで辿り着いた。
「王家が、建国期に、旧い魔法体系を消したこと。消すために、大勢の術者を"処理"したこと。師は、それを掴んだ。そして、世に問おうとした」
エミールの声が、掠れた。
「ある朝、師は、学院から消えた。病死、と発表された。誰も、遺体を見ていない。墓は、空じゃった」
リゼットは、動かずに聞いていた。マリーは、店の隅で、両手を握りしめている。
「わしも、師と一緒に、奥まで行った。だが、わしは、師ほど深くは読めなんだ。だから──助かった、とも言える。潰されるだけで、済んだ」
「異端、と呼ばれて」
「そうじゃ。学院を追われ、地位を剥がされ、この古書店に流れ着いた。それが、王家がわしに用意した"処理"じゃった。殺さずに、無力にする。声を、届かなくする」
エミールは、皺だらけの手で、顔を覆った。
「そして、わしは……黙った。師の死を、病死ということにして。掴んだ真実を、この店の奥に、封じて。四十年、埃をかぶらせて、生き延びた」
店の中に、じじ、とランプの鳴る音だけが残った。
* * *
「わしはな、リゼット」
エミールは、顔を上げた。その目は、濡れていた。
「消す側に、回った男じゃ。王家に、真実を消させ、自分の口も、自分で消した。師の問いを、四十年、塗り潰して生きてきた。──おまえに、その顔を見せたくなかった」
リゼットは、ゆっくりと、店の奥の棚へ歩いた。
初めてこの店に来た日、エミールが鍵のかかった棚から出してくれた、あの古い研究書。現代表記が統一される前の、蔦のように絡む曲線の書。あれは、師の遺したものだったのだ。今なら、分かる。
「エミール先生」
リゼットは、棚に手を触れたまま、振り返った。
「あなたは、私に、こう書いてくれました」
六歳の誕生日。彼から届いた、旧式術式の写しに添えられた、短い手紙。
その一文を、リゼットは、今も覚えている。
「『答えはない。だが、問いはある。問いを消すな』──と」
エミールの息が、止まった。
「消す側に回った、と言いましたね。違います」
リゼットは、静かに言った。
「あなたは、四十年、黙った。ですが、問いは、消さなかった。師の書を、燃やさなかった。この店の奥に、埃をかぶせて、それでも、遺した。そして──私に、渡した」
リゼットの薄紫の瞳が、まっすぐに老人を射た。
「あなたが本当に消す側なら、あの日、絵本の棚を指さして、私を追い返せばよかった。ですが、あなたは、鍵のかかった棚を開けた。問いを消すな、と書いた。──それは、消す側の人間が、することではありません」
エミールの目から、涙が一筋、こぼれた。
「……四十年、待っておったのかもしれん」
老人は、掠れた声で言った。
「師の問いを、消さずに、遺せる誰かを。わしには、届かせられなかった問いを、届かせられる、誰かを」
* * *
エミールは、立ち上がり、店の最も奥へ向かった。
床板を一枚、外す。その下から、油紙に包まれた、小さな帳面を取り出した。四十年、誰の目にも触れなかった、師の、最後の手記だった。
「これは、師が消される前に、わしに託したものじゃ。わし一人では、読み解けなんだ。いや──読み解くのが、怖かった。読めば、また、真実に近づいてしまう」
エミールは、震える手で、それをリゼットに差し出した。
「おまえになら、渡せる。おまえは、都合の悪い線を、拾う子じゃ」
リゼットは、両手で、それを受け取った。
油紙を開く。中の頁には、あの未知記号が、無数に書き込まれていた。師が、四十年前に、封印書庫の奥で読み取り、書き写した、消される前の魔法の言語。
そして、最初の頁に、一行だけ走り書きがあった。
『王家が消したのは、危険だからではない。──消さねば、王家が、王家でいられなくなるからだ』
リゼットの指先が、その一行の上で、止まった。
危険だから消した、のではない。
王家が、王家であり続けるために、消した。
封印の理由は、安全ではなかった。もっと、根の深いものだった。
油紙を持つ指先が、冷たかった。星屑堂の暖炉には、火が入っている。冷えているのは、部屋ではない。
リゼットは、その事実も、一応、数えた。数えてから、脇に置いた。
「……面白いですね」
リゼットは呟いた。恐怖ではなく、あの炎が瞳に灯る。
「消された理由が、また一つ、変わりました」
エミールは、その横顔を見て、四十年ぶりに心から笑った。
「師も、同じ顔をしておった」
「では、正しい顔です」
リゼットは、師の手記を、大切に胸に抱いた。
二枚目の扉を開ける条件は、"消す側にならぬと証すこと"。
その証明の、最初の一枚を、彼女は今、手に入れた。四十年、消されずに遺された、一人の問い。それを、世に届けること。それこそが、エミールにも、その師にも、できなかったことだった。
「エミール先生」
「なんじゃ」
「あなたの師の名を、教えてください。手記に、遺します。病死ではなく、消された研究者として。──記録は、消えません」
エミールは、長いこと、黙っていた。
そして、四十年ぶりに、その名を口にした。
店の奥に、静かに響いたその名を、リゼットは、手記の余白に、丁寧に書き留めた。
消された者の名が、四十年ぶりに、紙の上に戻ってきた。




