守るために、消してきた
地上へ戻る階段は、降りた時よりずっと長く感じられた。
蝋燭を離れ、魔石灯の明かりに目が慣れるまでの間、誰も口をきかなかった。監督官の二人は、書きかけの記録板を、胸に強く抱えている。彼らが今日見たものは、報告すべきかどうか、彼ら自身が決められる範囲を、はるかに超えていた。
書庫の外に出ると、待っていたカミーユとオルテガが、すぐに異変を察した。
「……何を、見た」
オルテガが、低く聞く。
リゼットは、答えなかった。代わりに、隣を歩くルイスを見た。
王太子の顔は、白かった。
地下で表情を消して以来、彼はまだ、一度も、いつもの顔に戻っていなかった。
* * *
その日の夜。
王宮の一室に、リゼットとルイスだけが残された。監督官は報告のために下がり、マリーは扉の外に控えている。カミーユたちには、まだ何も話していない。話してよいものか、リゼット自身、決めかねていた。
「ルイス」
リゼットが呼んでも、彼はすぐには答えなかった。窓辺に立ち、暗い庭を見下ろしている。
「……知らなかった」
やがて、彼は言った。
「王家が魔法を制限した、という話は、聞いたことがある。建国期の混乱を鎮めるために、危険な術式を封じた、と。歴史書に書いてある、綺麗な話だ」
ルイスは、窓に映る自分の顔を見ていた。
「だが、あれは違った。封じたんじゃない。消したんだ。本の題名ごと。──それに、消した誰かは、四十年前、この件に近づいた人間を、地上に帰さなかった。書庫番は、そう言った」
「はい」
「僕の家が、殺したかもしれない、ということだ」
リゼットは、否定しなかった。まだ証明されていないことを、慰めのために「そうではない」とは言わない。それは、彼女の流儀に反する。
「証明されていません」
リゼットは言った。
「ですが、可能性は、あります」
「……君は、そういうところが、本当に容赦がない」
ルイスは、力なく笑った。
「今、少しくらい、慰めてくれてもいいと思うが」
「慰めは、事実を変えません」
「知っている」
ルイスは、窓から離れ、椅子に腰を下ろした。深く息を吐く。
そして、しばらくして、顔を上げた時。
その目には、地下で消えた表情が、戻っていた。
* * *
「聞かせてくれ」
ルイスは言った。
「僕の家が、これをやったのだとして。君は、どうするつもりだ」
「読みます」
リゼットは即答した。
「消された魔法を、読みます。結界を救うために。そして、なぜ消されたのかを、知るために」
「王家の罪を、暴くことになる。僕の家の罪を。──下手をすれば、君を婚約者にした僕の立場も、危うくなる」
「なります」
「それでも、やるのか」
リゼットは少しの間、黙った。
それから、いつもより、少しだけ静かな声で言った。
「ルイス。私は、都合の悪いものを消す人間が、いちばん嫌いです」
ルイスの動きが、止まる。
「危険だから、と言って、分からないものを消す。守るため、と言って、都合の悪い頁を塗り潰す。あなたの家が四百年やってきたのは、それです。そして、それをやり続ければ──四年後、結界は崩れて、消したことを知らない人たちが、大勢死にます」
リゼットは、まっすぐにルイスを見た。
「消してきたから、崩れるんです。だから、消すのをやめて、読むしかない。あなたの家の罪ごと」
長い沈黙が落ちた。
やがて、ルイスは、ゆっくりと口を開いた。
「……父上は、知っているのだろうか」
「分かりません」
「宰相は」
「分かりません。ですが、ヴェルナー宰相が段階的な閲覧を認めたのは、たぶん、知らなかったからです。知っていて開けたなら、あの人は、慎重すぎる。今日、私たちが王家の印を見たと監督官が報告すれば──あの人の態度は、変わります」
ルイスの表情が、引き締まった。
「監督官の報告が、上がる前に、か」
「はい。今夜、私たちは、大きな都合の悪い線を、拾いました。それを消したい人間が、この王宮のどこかにいるなら──動き出すのは、明日からです」
初めて、リゼットの声に、緊張が混じった。
これまでの敵は、影端誤差や、紙の繊維や、慎重な宰相だった。誤差は、人を殺さない。
今夜から先の敵は、四十年前に、一人の人間を地上に帰さなかった。
* * *
「ルイス。一つ、決めてください」
リゼットは言った。
「あなたは、どちら側ですか。消す側の、王家の人間ですか。それとも──」
「言うな」
ルイスは、遮った。
そして、立ち上がり、リゼットの前に立った。八歳、いや、もう九つになった王太子が、七歳の婚約者を、まっすぐ見下ろす。
「僕は、君と婚約した時に、決めている。君を、王太子の隣に置くと決めた時に、だ」
「利害で、と言ったはずです」
「利害だ。今も、そうだ」
ルイスは、少しだけ笑った。地下で消えた笑みが、ようやく、戻っていた。
「僕の家が、都合の悪いものを消して、それで国が四年後に崩れるなら、そんな家に、僕が継ぐ価値はない。──読もう。僕の家の罪ごと、全部。それが、次の王になる僕の、最初の仕事だ」
リゼットは、その顔を、じっと見た。
恋愛感情は、変数として扱わない。今も、その方針は変えていない。
ただ、この男が、こういう時に、こう答える人間だということは。
計算の、外側で。
少しだけ、悪くないと思った。
「……妥当です」
「また、それか」
「最高の妥当です」
「それは、褒めているのか」
「はい」
ルイスは、今度こそ、声を出して笑った。
* * *
その夜、リゼットは自室で、書庫番の最後の言葉を、何度も思い返していた。
二枚目の扉を開ける条件を尋ねた時、老女は、こう答えた。
『条件は、一つじゃ。──おまえが、消す側にならぬと、わしに証してみせよ』
『四十年前の者は、真実に近づきすぎて、消された。だが、その前に、王家に取り込まれ、自ら"消す側"になろうとした者も、数えきれぬ。危険を知った者は、たいてい、二つに分かれる。世に問う者か、蓋をする側に回る者か』
『おまえが、蓋をする側に回らぬと証せたなら、二枚目を開けよう』
証明。
リゼットは、机の上に、新しい手記を広げた。
自分が"消す側"にならないことを、どうやって証明するか。それは、二重化を三回そろえるより、はるかに難しい問いだった。感情ではない。行動で、記録で、証さなければならない。
だが、手がかりは一つあった。
四十年前、真実に近づき、消されなかった者が、一人だけいる。世に問おうとして、潰され、それでも生き延びた者が。
異端と呼ばれ、学院を追われ、今は、街道沿いの古びた古書店で、埃だらけの本に囲まれている老人。
「……エミール」
リゼットは、その名を呟いた。
彼は、知っている。四十年前に、何が起きたのかを。そして、たぶん──なぜ自分にそれを、一度も話さなかったのかも。
窓の外で、王宮の鐘が、二つ鳴った。
書くことは、いくらでもあった。だから、書いていた。
──眠れないから書いているのではない。
リゼットは、自分に、そう注釈をつけた。そして、その注釈だけは、手記に残さなかった。都合の悪い線だと、分かっていたからである。
羽ペンが、紙の上を走る。カリカリ、カリカリ。
明日、星屑堂へ行く。
消された魔法の、いちばん古い証人に、会いに。




